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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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「眉目秀麗・挙止端正」な画家・田口省吾。

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田口省吾アトリエ跡1.JPG
 たとえば、ある画家が同じ画家の作品を評する場合、批評対象となる画家の父親が時代を代表する主要美術誌の経営者だったりしたら、「あとあとのことを考えるとさ、うっかりしたこたぁ書けねえぜ」……と思うにちがいない。だが、その作品をどうしても気に入らない場合は、遠まわしに皮肉っぽい評論を書くか、イヤミったらしく褒めに褒めるか、あるいは当該の作品評をあえて避け、これから先の表現についての希望や展望を書いて逃げたりするのだろう。
 長崎村字新井1832番地(のち長崎町1832番地=現・目白5丁目)に中央美術社を創立した田口掬汀(田口鏡次郎)は、同じ広い敷地内へ息子のために乳母もいっしょに住める大きなアトリエを建設している。息子とは、以前に淡谷のり子Click!の怪談話に登場した、二科の田口省吾Click!のことだ。父親の田口鏡次郎が美術誌「中央美術」の経営ばかりでなく、編集の責任者までつとめているとなると、執筆する人々の批評は、こと息子の田口省吾に関しては“萎縮”して甘くなっただろう。ましてや、「美術大鑑」や「美術全集」をも出版しているところともなれば、もし息子をけなすようなことを書いて、万が一にも自分が選ばれず収録から漏れたらタイヘンだ。
 しかも、同社が主催する中央美術展で息子の作品をお手盛りで入選させ、二科会の有力者との太いパイプまで形成されてしまうと、同誌に批評を載せる執筆者はいろいろと気をつかわなければならない。たとえていうなら、TV局の経営者が俳優になった息子を自局のドラマへ無理やり出演させ、映画界との太いパイプを利用しながら映画賞の受賞まで働きかけている、というような構図に見えるだろうか。どんな失敗をしても、プロデューサーでさえ文句をいえない状況……。息子がかわいいのは理解できるし、親としての身びいきもわかるけれど、周囲はつかわなくてもいい気をすり減らさなければならないので、少なからず辟易したのではないか。
 以前、外山卯三郎Click!里見勝蔵Click!を評して「野に咲くアザミの花」と書いた、1928年(昭和3)発行の「中央美術」2月号をご紹介Click!したが、同号には中川紀元Click!による田口省吾評が掲載されている。当然、原稿は父親である編集長がチェックするので、5歳年下の田口省吾を批評するのに細心の注意を払っている表現だ。同号の中川紀元「眉目秀麗・挙止端正」から引用してみよう。
  
 田口君は人も知るとほり「中央美術」の息子である。お父さんが眼に入れても痛くない、世に仕合せな息子さんである。/彼資性温厚よく人と和し、加ふるに眉目秀麗、挙止端正にして正に貴公子の風がある。そんじよそこらに秘かに彼に思を寄せるモダン・ガールが定めて多数のことゝ思ふ。/しかし省吾君ももう部屋住の齢でもない。お仲間も大抵は嫁さんを取つて収まつて居るのだから、この辺で一つ何とかいゝ人を一人きめたらどうかと思ふ。あのゆつくり構えてゐた亜夫君もいよいよ目付かつた様子だからね。/君も以前兎角身体が弱くて幾度も切開の大手術を受けたりしたが、この頃はすつかり丈夫になつたのは何よりだ。/田口君が二科会へはじめて入選したのは確か震災の年だつたと思ふ。あの頃のことを考へるとその後の君の進歩は著しいものだ。家があれだからいつも新しい西洋の本や絵なぞを見る便宜はあるし、立派な画室で何の心配もなく只管絵だけ勉強してゐればよいのだから何としても境遇は結構なものだ。
  
 「亜夫君」とは、1930年協会に参加していた鈴木亜夫Click!のことだ。この文章はヨイショしているようでいて、読みようによっては皮肉たっぷりに書き綴った文章ともとれるだろう。中川紀元が、はからずも文中につかっている「家があれだから」というワードは、画家の仲間うちで羨望と軽蔑と揶揄の入り混じった表現として、田口省吾を語るときに用いられてやしなかっただろうか?
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 つづけて、中川の「眉目秀麗・挙止端正」から引用してみよう。
  
 「田口の絵はすこしあまい」といふやうなことを云ふ者が以前にはあつたが、自分は省吾君にそのあまさをこれからもモツトあまくして欲しいと注文する。どうもイヤに萎びた貧粗な絵が多すぎる。砂糖が足りなくてからくなつたからさは困る。/田口君のあまさは一つは普段のその豊かな生活から来てゐるだらうが、大体画面にくばる用意の極めて緻密なところに原因してゐるやうに思ふ。君の絵にはやりつぱなしがない。砂糖やダシをよく効かせてゐる。そしてすつかり火を通して煮つめる。支那料理だ。/省吾君は頭がいゝ上にうまい技巧を持つてゐる、現代美術の精神をよく呑込んだ新時代の画家であると同時に、そのほか文学演芸音楽等すべての事柄に興味と理解を持つ好個のゼントルマンである。
  
 これも、読みようによっては「カネ持ち息子の手ずさび」と書いているようなニュアンスが感じられる。確かに、当時の画家たちの顔つきと比べてみると、田口省吾のマスクは「眉目秀麗」かどうかはともかく、女性うけするような非常に甘い表情をしている。
 この文章が書かれた時期、田口はほとんど毎日、午後になると通ってくるモデルの霧島のぶ子(淡谷のり子)をモチーフに、せっせと筆を走らせていたころだ。淡谷家は、雑司ヶ谷(現・南池袋)の東洋音楽学校(現・東京音楽大学)にも通いやすく、画家たちのアトリエも近い下落合や上落合の借家で暮らしていた。前々年の1926年(大正15)から、淡谷のり子は田口省吾の学費援助で休学していた東洋音楽学校へ復学し、生涯の師ともいうべき久保田稲子から徹底した歌唱指導を受けるようになった。
 また、前田寛治Click!から専属モデルの霧島のぶ子(淡谷のり子)を貸してくれと頼まれ、田口は快く承諾はしたものの、だんだん彼女のことが心配になり、気が気ではなかった時期でもある。1928年(昭和3)の秋、前田寛治は第9回帝展に彼女をモデルにした『裸婦』を出品している。田口にしてみれば、里見勝蔵のお気に入りモデル・中村恒子Click!のように、片時も離れずそばでマネージャーのように、いっしょにいたかったのではないか。
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 さて、周囲の画家たちは当時、田口省吾のことをどのように見ていたのだろう。前田寛治と同じ1930年協会Click!木下義謙Click!が、友人の田口省吾の様子についてのちに証言している。1989年(昭和64)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『ブルースの女王 淡谷のり子』から引用してみよう。
  
 「『おのぶは東洋音楽学校の声楽家の学生だが、稀にみる美声の持ち主で、将来を嘱望されているそうだ。だが、家庭の事情で一時休学して、モデルで稼いでいるらしい。おのぶなら必ず声楽家として成功する。そのためにも、ちゃんと学校に通わせてやりたいと思う』/と、無口でおとなしい男にしては、珍しく興奮気味で、饒舌になっていた田口省吾のことをよくおぼえている。/『あいつは、ひょっとしたら、女嫌いなのではないか』/と噂されるほど、それまでの田口省吾にはスキャンダルめいたはなしが一切なかった。/最初は、淡谷のり子の才能に惚れこみ、次第に淡谷のり子という女性に惚れこむようになっていったのではないか。結婚を真剣に考えていた時期もあったが、それは所詮かなわぬ夢であった。息子の画才に夢を賭けていた父親は、裕福な家の娘と結婚させる心づもりでいた。貧乏は才能の最大の敵だというのが、掬汀(田口鏡次郎)の不動の信念でしたからね」/と、かつて田口省吾と親交があり、現在、一水会の審議委員をつとめている木下義謙は、過去を追憶する。(カッコ内引用者註)
  
 田口省吾が、音楽家としての彼女の才能を見抜く眼差しは確かだったようで、淡谷のり子は東洋音楽学校が開設されて以来、初めての女性首席として卒業している。だが、父親をうまく説得するすべを知らない焦りが、そして自分の思い通りにことが運ばないイラ立ちが、甘やかされて育った野放図な“自我”とあいまって、前後の見境なくモデルをつとめる淡谷のり子へ襲いかかるという、致命的な失態を演じてしまったように見える。
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 もし、アトリエでオバカな行為におよばず、父親を少しずつ説得して、あるいはどうしても説得できなければ、彼女と駆け落ちしてまでもいっしょになっていたら、まったくちがうその後の人生が田口省吾の前に開けていただろう。たとえ、「田口の絵はすこしあまい」ままで作品の売れいきはよくなかったにしても、クラシックにジャズ、ブルース、のちにシャンソンとジャンルを股にかけて稼ぐ女房が傍らにいれば、失意のうちにわずか46歳で死去することもなかったように思うのだ。

◆写真上:長崎町1832番地(現・目白5丁目)にあった、田口省吾アトリエの現状。
◆写真中上上左は、1928年(昭和3)発行の「中央美術」2月号に掲載された中川紀元「眉目秀麗・挙止端正」。上右は、同じころ撮影された田口省吾のポートレート拡大。は、1927年(昭和2)発行の「中央美術」8月号の奥付。中央美術社の所在地は、編集部のある長崎ではなく営業部の京橋になっている。
◆写真中下:年代別にみる「中央美術」の表紙で、1922年(大正11)11月号(上左)、1925年(大正14)6月号(上右)、1928年(昭和3)3月号(中左)、同年11月号(中右)。下は、1932年(昭和7)に長崎町1832番地のアトリエで撮影された滞仏から帰国後の田口省吾。
◆写真下は、霧島のぶ子(淡谷のり子)が目白通りをわたり下落合側から田口省吾アトリエへ通った道筋。下左は、1929年(昭和4)に撮影された東洋音楽学校卒業時の淡谷のり子。下右は、大岡山へ家族とともに新居を建設した1931年(昭和6)撮影の淡谷のり子。


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