わたしは何度か、そのウワサを資料で断片的に見かけたことがあり、また周辺にお住まいの何人かの方から、お話をうかがったことがある。当初は、戦前あるいは戦中に生まれた、ありがちな「都市伝説」のひとつではないかと半信半疑だった。でも、戸山ヶ原Click!にこれまで60数本の地下トンネルが発見されて埋められ、あるいはそのままフタをされたという事実を知るにつけ、ありえない話ではないと思いはじめていた。
当初は昭和初期、明治通り(環5)沿いに造られたとみられる、大人が立って歩けるほどの高さをもつ地下共同溝(電力や通信のケーブル埋設用)が、どのような使われ方をしているのかに興味を持ち、ときどきヒマを見つけては資料に当たっていた。明治通り沿いには、建設当初から電力ケーブルの電柱や通信線の電信柱が建ち並び、地下共同溝には埋設されているようには見えなかったからだ。また、まとまった記述のある資料がないかどうか、新宿区や豊島区の資料をときどき参照してきた。でも、そんなウワサ話をまともに取り上げている論文や書籍は、これまで目にしたことはなかった。
そのウワサとは、「学習院の地下から東京西北部の郊外まで、戦前に皇族退避用の地下トンネルが掘られていた」というものだ。地元の事情に詳しい、何人かの友人知人に訊ねても「ありえるねえ」という答えは返ってくるものの、「裏づけや証言として、こういう資料が残ってるよ」という、具体的な指摘や規定は皆無だった。ところが、ひょんなことから敗戦直後の根津山をテーマにした小説を読んでいて、学習院から北上し郊外までつづくトンネルについて書かれていることに気づいた。
わたしは昔から怪談Click!好きなので、江戸期から落合地域を中心に語られてきた、さまざまな怪談や奇譚、幽霊話などに目を通している。今年の夏も、そんなひとつをご紹介しようと、手もとにある本や資料をひっくり返していた。その中に下落合の北側、池袋駅近くの小学校に通っていたとみられる、作家の作品が収録された本に気がついた。2008年(平成20)にメディアファクトリーから出版された『怪談実話系』だ。同書に収録されている、小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』には、学習院から根津山の下を経由し、東京郊外へと抜ける地下トンネルの話が記述されている。ちなみに、池袋駅前の広大な緑地は東武鉄道の根津嘉一郎が所有していたことから、根津山と名づけられている。
『リナリアの咲く川のほとりで』は、「実話系」というおかしな「系」のショルダーが付加されているけれど、登場人物たちはあくまでもフィクションだと思うのだが、戦前はサーカスなどの見世物小屋が建ち、戦争末期の1945年(昭和13)4月13日の第1次山手空襲Click!とともに語られる、根津山に掘られた防空壕や空襲による犠牲者の遺体埋葬の話、そして戦後その場所には住宅やビルが建たず、長期にわたり原っぱになっていたのはフィクションではなく事実だ。その史的経緯の中で、洞窟に住みついた登場人物たちの話として語られている。時代は1950年(昭和25)前後と思われ、ここに登場する「都電」とは池袋駅東口から江戸川橋、さらに神楽坂方面へと抜ける、根津山を横断したグリーン大通り(G大通り)上の軌道のことだ。
小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』から、少し引用してみよう。
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すぐ近くに都電が通っていて人が頻繁に通る道沿いなのに、大人は誰もその穴を知らなかった。知っていて忘れたふりをしていたのだろう。というのは、いまになって思うことである。覚えていても、よい気分になる記憶ではない。穴は防空壕の跡だった。その奥に道が延びていて、ミオの住処があった。さらに奥はまた別に(ママ)洞窟につながっている。私がよく知る洞窟は四つあった。雑司が谷から神楽坂までの道沿い、そこへ行くまでの都電通りの道沿い、巣鴨監獄からしばらく歩いた広場の横、池袋の都電通りの道路沿い。いまでも駅前から大通りが延びているのは、もともと都電を通すための設計だったからである。(中略) 池袋のG通りもそのひとつだが、この通りの付近はかつて根津山と呼ばれていた。そこにあった大きな穴は、近所の家族がいくらでも入れるような地下壕だった。昭和二十年に下町が空襲されたとき、次は山の手がやられるというので整備された穴である。(カッコ内引用者註)
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道路沿いに垂直に掘られた穴は、防空壕ではなく退避壕のことだろう。1945年(昭和20)4月13日の午後11時、米軍が公開した資料では330機(日本側発表は160機)のB29が、豊島や荒川、王子、足立、滝野川、本郷などの各地域へ絨毯爆撃を加えた。空襲は、翌4月14日の午前2時22分まで約3時間半にわたって繰り返された。死者は判明しているだけで2,459人、負傷者は4,746人、罹災した家屋は17万1,370戸余、罹災者は64万人をゆうに超えた。
池袋駅周辺から雑司ヶ谷の住民たちは、広い草原と雑木林が拡がり大きな防空壕がいくつもあった根津山へと逃げこんでいる。当時の惨状を、1981年(昭和56)に出版された『豊島区史』(豊島区史編纂委員会)所収の、空襲時は雑司ヶ谷5丁目に住んでいた風間洋郎という人の証言から引用してみよう。
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あれだけ多数の焼夷弾が落とされたのにことごとく根津山をそれて、直撃による死傷者は出なかった。しかし、周囲の空気が熱く林の中の空気が冷たいせいか、旋風が間断なく発生し、火の粉の竜巻が林の中を東西南北縦横無尽に走り抜け始めた。その風の強さは目撃者以外は信じられぬほどのもので、自転車などはまるで紙きれのように軽々とどこまでも吹き飛ばしたし、家財を荷綱で結びつけたリヤカーでも、ゴロンゴロンと十五、六間も転がしていったほどで、そこら中に積み重ねてあった避難者の家具や寝具は、火の粉の渦巻きとともに高く舞い上がり、あちこちの樫の木の枝に引っ掛かったまま燃えていた。次から次へと発生して根津山に入り込み、林の中を走り抜けて行く火の竜巻は……ただ立っていれば、吹き倒され転がされた。
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根津山にも、同年3月10日の東京大空襲Click!のときと同様に、火事竜巻が発生していたことがわかる。根津山の竜巻では1町(109m)も飛ばされ、地面に叩きつけられて死んだ女性が記録されている。火事竜巻が起きるということは、住宅密集地では大火流Click!も発生していたのだろう。根津山では、火の竜巻による犠牲者ばかりでなく、大きな防空壕に避難していた大勢の人々が大火災により急激に酸素を奪われ、全員が窒息して蒸し焼きになっている。すでにこちらでご紹介している、早稲田の夏目坂沿いにあった喜久井町の300人は収容できる大型防空壕Click!や、江戸川公園にあった大規模な防空壕で起きた大惨事と同じことが、根津山でも起きていた。
この空襲で亡くなった人々の遺体は、周囲から根津山へ集められ、防空壕内の多くの遺体とともに仮埋葬された。だが、仮埋葬とはいっても実際に遺体を掘り起こし、身元を確認して本埋葬が行われたのは一部だけで、多くの遺体は当時から根津山に埋められたままだ。再び、『リナリアの咲く川のほとりで』から引用してみよう。
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(前略)焼夷弾は油を散らして燃えるから、通常爆弾の被害を想定した防空壕に入っても無駄だった。穴の中で押しくら饅頭になり、その上が火の海になったものだから、みんな蒸されて死んだのである。戦後になって穴は仮埋葬の場所と呼ばれたが、早い話がそのまま埋めたということだ。あそこにはまだ死体があるという話を子供の頃に私は何度も聞いた。大人になってからも聞くことがあった。死体があるならなぜそのままなのか疑問に思ったが、年寄りはこういったものである。/「掘れば骨の身元が問題になる。そのままなら行方不明ですむ」/空襲の後、家族で消えた人々がいる。地面が燃えたあの日以来、どこに行ったのかわからない。すべてなかったことにする。歴史からなくしてしまう。
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この空襲では、巣鴨監獄(東京拘置所)に入れられていた囚人たちが、安全な建物や場所へと避難させられている。ただし、避難を許されたのは通常の刑法犯などだけで、共産主義者や社会主義者、民主主義者、自由主義者、無政府主義者などの政治犯・思想犯は、大火災に囲まれた房内に監禁されたまま放置された。
防空壕跡や仮埋葬地となった根津山の跡地には、南池袋公園や隣接する本立寺の墓地などが拡張されて造られたが、1974年(昭和49)の公園改装工事の際、大量の白骨が見つかっている。同時に、防空壕とは別のコンクリート地下壕、すなわちトンネルが発見されているのだが、そのまま塩で清めただけで埋めもどされた。白骨は、北側のビル工事でも見つかったといわれているが、こちらも埋めもどされているので詳細は不明だ。問題は、何十年ぶりかで地中から姿を見せた、防空壕ではないコンクリートの構造物のほうだ。
<つづく>
◆写真上:今年(2016年)にリニューアルオープンした、南池袋公園を北から南への眺望。正面の向こう側は、戦後に拡張された隣接する本立寺の新しい墓地エリア。
◆写真中上:上は、関東大震災の復興計画で立案された大正末の幹線道路断面模型にみる共同溝の様子。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる根津山。下は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された根津山で食糧増産の畑にされているようだ。戦後の区画整理により、道筋が全的に変更されている。
◆写真中下:上は、1924年(大正13)に池袋停車場から撮影された根津山(左端)。右端の太い煙突は、東京パン工場のものだろうか。中左は、上の写真が掲載された1924年(大正13)発行の「むさしの―武蔵野線沿道案内―」。中右は、小池壮彦『リナリアの咲く川のほとりで』が収録された『怪談実話系』(2008年)。下は、学習院に保存されている関東大震災直後に撮影されたといわれる「下水道」施設の写真。照明用の電線と別の配線が天井と通路下に引かれ、どう見ても「下水道」には見えないのだが……。
◆写真下:上は、南池袋公園の東側に拡がる駐車場(?)の広大な空き地。1950年代には一部に住宅も建っていたようだが、解体されて現存していない。中は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲直前の4月2日にB29偵察機から撮影された根津山。下は、同年5月25日の第2次山手空襲Click!直前の5月17日に撮影された根津山。池袋駅周辺と山手線沿いを、集中的に爆撃されている様子がわかる。