動物が好きで、いつも身辺にペットを飼っては、ときどきモチーフにしていた画家たちがいる。下落合753番地(のち741番地)に住んだ洋画家・三上知治Click!は、とっかえひっかえイヌを飼っていた。三上アトリエの東隣り、下落合741番地に住んでいた満谷国四郎Click!も庭先でイヌを飼っていたようで、親イヌの前で仔イヌがじゃれる『早春の庭』Click!(1931年)を残している。
大正期から昭和初期にかけ、東京郊外では広めの住宅敷地にイヌを飼い、散歩をさせるのが大流行していた。イヌを飼うと必然的に散歩をさせなければならず、「生活改善運動」Click!をべースにした空気のいい郊外暮らしでの健康増進にはもってこいだったのと、当時は郊外に多く出没したドロボー除けClick!という切実な課題もあった。もうひとつ、血統書つきの洋犬を飼うことは、当時のセレブたちの仲間入りをすることであり、一種のステータス的な意味合いもあったのだろう。イヌを連れた吉屋信子Click!が、目白文化村Click!を毎日散歩していたエピソードClick!は以前にご紹介している。
だが、あまり裕福でない画家がイヌを飼ったりすると、その経費が徐々に家計を圧迫して、台所をあずかる夫人がどんどん不機嫌になっていき、しまいには自分たちの食費よりもイヌの経費のほうが高くついてしまうというような事態が生じた。先の三上知治も次々とイヌを飼うが、最初は雑種犬だったもののすぐにコリー種を飼いはじめた。当時、コリーはめずらしく、散歩に連れ出すと「犬と羊と掛合せたものだ」とか、イヌとキツネの合いの子の「フオツクステリアだ」とか、さんざんひどいことをいわれている。
フランスの遊学からもどったあと、コリーの次は「K伯爵」からもらった血統書つきのセッターを飼いはじめている。庭に立派な犬舎を建てて飼いはじめるが、これがとんでもないカネ食い虫ならぬカネ食いイヌだったのだ。その様子を、1931年(昭和6)に発行された「アトリエ」9月号掲載の、三上知治『犬の事など』から引用してみよう。
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早速庭の一隅に犬舎を建設した、広さは一坪半で二室に仕切り東と南は硝子窓にしたりなぞしてあら方百円かゝつた、僕としては分不相応の贅沢だ、後から聴いた話であるが英国ではセツター愛着家は犬舎の床をキルク張りにして被毛の痛まぬ様に注意するそうだが、私の家の六分板の床なぞは貧弱極るものだ、誰でも道楽となると金を惜まぬものケチケチして居たのでは道楽にならぬ訳だが、生物道楽はなかなか費用と時間がかゝるので時に家庭争議が起る、犬も病気をし初めるとチヨイチヨイ病気にかゝる Aが癒ればBがやるといふ風で獣医に払ふ金が毎月相当なものになる、御自分達の食料問題も解決し兼て居る様な貧乏絵かきにとつては大負担となる訳で勝手元から抗議を申込れるのも無理も無い、
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このセッターに仔イヌが生まれると、三上知治は友人の画家に上げている。だが、この友人の家では妻子よりもイヌのほうが大切にされるので、夫婦間ではしばしば不協和音の原因となったらしい。
確かにイヌを飼うと、犬舎の建設や毎日の散歩に加え、純血種だと病気に弱いため予防注射が欠かせず、残飯を与えるわけにはいかないのでイヌ独自のエサをつくらなければならない。当時は、現在のようにドッグフードなど出まわっておらず、いちいち栄養のバランスを考えて毎食つくらなければならなかった。
また、一度病気になって獣医にかかり手術などを受けると、今日のようにペット保険など存在しないので、膨大な経費が必要になる。日本の雑種犬ならともかく、血統のいいイヌを飼うことはカネ持ちの道楽と考えられていた時代だった。つづけて、三上の『犬の事など』から引用してみよう。
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僕のセツターの仔を一匹友人に進呈したが折しも冬の事で仔犬は日中はアトリエの中に閉込て置きストーブは燃し詰め、夜は犬の寝床の中に電気あんかを入れてやる仕末(ママ)、仔犬はお構ひなく大小便を画室の中でやらかすといふ騒ぎ、友人は雑巾とバケツを持つて監督するといふ珍景を演じたものが、此の人二ケ月間の旅行から帰つて来て久振りで宅に入るや『犬は何うした』と諮いたものである、奥さんたる者犬の存在も(ママ)貴いか妻子の存在は第二かといふ問題に逢着したのである、或友人は仔犬がヂステンパーに掛つたので、いろいろ手当をしたが遂に呼吸器を買つて来て犬に吸入をかけたもので、子供には吸入もかけさせないのに犬の仔には吸入器を買つて来てやるんですよと奥様当座は知人を捕へて夫の非を鳴した、
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セッターのあと、三上は再びコリーを飼っているが、このイヌがちょっとオバカで団子を串ごと飲みこんで獣医学校付属病院へ入院したり、腹が減ってアトリエで油絵具の鉛管を食べてしまったりと、医療費のかかりが半端ではなかったようだ。また、コリーのいる庭が下落合を斜めに横断し、目白通りへと抜ける子安地蔵通りに面していたため、そこを通行する誰かれなしに激しく吠えかけ、しまいには騒音に腹を立てた近所の誰かに憎まれ、毒を盛られて死んでしまった。
目白通りの北側、下落合540番地に住んでいた大久保作次郎Click!も、自邸や庭にいろいろな動物を飼っていた。その動物を写生させてもらいに通っていたのが、長崎1721番地から下落合604番地へ転居してくる牧野虎雄Click!だ。シラキジをはじめ、クジャクないしはシチメンチョウも飼っていた様子が画面からかがえる。牧野は、大久保邸で飼われていたシラキジが気に入ったのか、サイズの大きなタブローに仕上げている。1931年(昭和6)に発行された、「アトリエ」10月号のアトリエ・グラフから引用してみよう。
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牧野さんはビールを片手に未完成の作を眺めて居られる。「大久保君のところで白鷳(ママ:シラキジ)を描いたのです。自宅で筆を入れてまた大久保君のところへ出かけてまたやります」と語つた。
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相変わらずアルコール片手Click!に、作品を仕上げている様子がとらえられている。この当時はウィスキーではなく、まだビールだったようだ。この写真が撮影されたのは、時期的にみて長崎1721番地のアトリエClick!だろう。
哺乳類や鳥類ではなく、昆虫が好きだった画家もいる。下落合801番地に住んだ鶴田吾郎Click!もそのひとりだ。ことに秋の虫が好きだったらしく、虫を入れた籠を携帯しながら旅行をするほどだった。1931年(昭和6)発行の「アトリエ」10月号に掲載された、鶴田吾郎『草雲雀』から引用してみよう。
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奈良の宿にも此虫を供に連れた、朝目が醒めるのは、いつも蚊帳の外にをかれた此虫の声からであつた、奈良のあさぢが原は、草雲雀が多い、武蔵野だけが多いと思つたが、奈良には沢山ゐる。/帰る時、急行列車の窓のところへ此虫をぶらさげてをいた、東海道をひたぶるに走つてゐる時、大井川のあたりで、ピリピリピリ――とまた鳴き出した、急行列車の突進して行く大音響の中にあつて、一つの虫が耳に充分入るだけ声を聞かしてゐるのだ、自分は一人で此籠を眺めて微笑させられたのであつた。
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鶴田吾郎が飼うクサヒバリとは、いまでも東京のあちこちで鳴き声を聴くことができる小型のコオロギのことだ。夏のセミ時雨は、早朝から夜中まで間近で鳴かれるとわずらわしいが、秋の虫の音は不思議とうるさく感じない。
三上知治が『護羊犬』を描いたころから、裕福な家庭でシェパードを飼うことが流行している。これは、別にシェパードの人気が急に高まったからではなく、軍用犬として陸軍へ寄付する“運動”が顕著になったからだ。上落合186番地の村山籌子Click!は、シェパードのブリーダーを副業にしていて、仔犬を下落合2108番地の吉屋信子Click!へ無理やり押しつけたらしく、息子の村山亜土Click!によれば「ずいぶんこわい」顔をされている。
◆写真上:下落合753番地(のち741番地)に建っていた、三上知治アトリエの現状。
◆写真中上:上は、英国産の大型犬アイリッシュ・セッター。下は、1936年(昭和11)に自邸で飼っていたコリーを描いた三上知治『護羊犬』(版画)。
◆写真中下:上は、1934年(昭和9)に撮影されたシェパードをキャンバスへスケッチする三上知治。下左は、1926年(大正15)に描かれた吉田博Click!『あうむ』(版画)。下右は、1940年(昭和15)制作の安井曾太郎Click!『女と犬』。
◆写真下:上は、通行人へコリーが吠えたてた三上アトリエに接する子安地蔵通り。下は、1931年(昭和6)9月に撮影された大久保作次郎邸のシラキジを描く牧野虎雄。