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動物好きな画家たちのエピソード。
動物が好きで、いつも身辺にペットを飼っては、ときどきモチーフにしていた画家たちがいる。下落合753番地(のち741番地)に住んだ洋画家・三上知治Click!は、とっかえひっかえイヌを飼っていた。三上アトリエの東隣り、下落合741番地に住んでいた満谷国四郎Click!も庭先でイヌを飼っていたようで、親イヌの前で仔イヌがじゃれる『早春の庭』Click!(1931年)を残している。...
View Article長崎で焼け残ったクサカベ絵の具工場。
少し前の記事で、池袋駅に近い豊島師範学校の焼け跡バラックで、酒場「炎」Click!を経営していた“チャコちゃん”こと、北村久子Click!について書いたことがある。その記事で、東京ではめずらしく戦災に遭わず、製造設備も含め戦後まで焼け残っていた、長崎のクサカベ絵の具工場についてご紹介していた。...
View Article昭和二年四月下落合ニテ佐伯祐三君。
先日、笠原吉太郎Click!の三女・昌代様の長女である山中典子様Click!より、親戚の家で新たな画面が見つかったというお知らせを受けた。この11月に、山中様が東京にみえられた折に、さっそく画面を拝見した。風景画だということで、わたしは「下落合風景」を期待したのだが、残念ながら下落合を描いたものではなかった。...
View Article「サンチョクラブ」の壺井繁治。
大正期からさまざまな詩誌を通じて創作・発表をつづけ、戦前には詩壇でゆるぎない地歩を固めていた壺井繁治Click!だが、詩集が出版されたのは遅く1942年(昭和17)の『壺井繁治詩集』(青磁社)が初めてだった。日米戦争の開戦直後であり、落合地域から竣工したばかりの鷺宮の新築住宅へ転居する直前のことだ。詩人として本格的な活動をスタートをしてから、すでに20年近い歳月が流れている。...
View Article感応寺の「裏」側の秘密。(下)
金子直德(1750~1824年)が書いた『和佳場の小図絵』Click!は、上巻が1792年(寛政4)に、下巻が1798年(寛政10)に脱稿している。原本は、残念ながら失われてしまったようだが、いくつかの写本が現存している。よく知られているのが、早稲田大学図書館と上野図書館に収蔵されているものだが、上野図書館の写本には金子直德が監修し絵師に描かせた、絵図『曹曹谷 白眼 高田 落合...
View Article下高田村「富士見茶屋(珍々亭)」異聞。
東京メトロ東西線の落合駅から西へ250m、歩いて3分ほどのところに正見寺がある。落合地域の外れの同寺に、水茶屋(江戸期の喫茶店)「鍵屋」で働いていた大江戸稀代のアイドルで、看板娘の笠森お仙Click!は眠っている。もっとも、正見寺はもともと江戸の市街地にあって、1909年(明治42)に上高田へ移転してきた。...
View Article十二支にネコの入る隙間はあるか。
あけまして、おめでとうございます。旧年中も、みなさまにはたいへんお世話になりました。本年も「落合道人」サイトをよろしくお願いいたします。 ★...
View Articleときに日本画を描く洋画家たち。
洋画家たちの中には、油絵ばかりでなく岩絵の具や墨を使って、日本画を描いた画家たちがいる。逆に、日本画家が油絵や水彩などの洋画を描き、その自由な表現の魅力にはまって抜けられず、洋画へ転向した画家たちも少なからずいる。日本画を“余技”として描く洋画家たちもいれば、“本気”で打ちこんでいた洋画家もいた。...
View Article「岩井栄」の壺井栄と「坪井栄」の藤川栄子。
以前の記事で、壺井栄Click!の本名が「坪井栄」で、藤川栄子Click!の本名「坪井栄」と同姓同名だったため急速に親しくなり、窪川稲子(佐多稲子)Click!ら親しい友人を誘い合って、落合地域を散歩していたのだろう……と書いた。ところが、壺井栄の本名は正確には「岩井栄」であり、そもそも彼女の文壇デビュー作の活字から「岩」を「坪」、ないしは「壺」を「坪」と“誤植”していることが判明した。...
View Article牧野虎雄アトリエに見る大正の長崎風景。
このような文章を書いていると、どうしても欲しい資料が見つからないことがままある。その反対に、いともたやすく立てつづけに欲しい資料が、まとめて手に入ることもある。今回は、後者の典型的なケースだ。以前、下落合で転居を繰り返す松居松翁Click!の記事でも少し取りあげた、牧野虎雄Click!のアトリエについての資料だ。...
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