洋画家たちの中には、油絵ばかりでなく岩絵の具や墨を使って、日本画を描いた画家たちがいる。逆に、日本画家が油絵や水彩などの洋画を描き、その自由な表現の魅力にはまって抜けられず、洋画へ転向した画家たちも少なからずいる。日本画を“余技”として描く洋画家たちもいれば、“本気”で打ちこんでいた洋画家もいた。
日本ならではの油彩画表現を追究しつづけ、古画好きで知られた岸田劉生Click!は、けっこう本気モードで日本画の画面へ取り組み、従来の日本画には見られない独特な表現の作品を残している。劉生の日本画への試みは、療養のために住んだ藤沢町鵠沼(現・藤沢市鵠沼松が岡2丁目)の佐藤別荘時代、1920年(大正9)ごろにはじまったとされている。画題としては、一般的な花鳥風月もあるけれど、およそ日本画家なら選びそうもないモチーフの作品も見うけられる。
鵠沼時代からの作品を参照すると、麗子Click!や友人知人の肖像を描いた日本画風の作品をはじめ、風景をモチーフにした軸画などが見られる。また、和紙のキャンバス(色紙?)に描いた野菜や果物など、文人画に近い表現の作品も残されている。劉生が日本画に傾倒したのは、妻の岸田蓁(しげる)Click!に日本画の知識や素養があり、劉生の制作をサポートしていたからだともいわれている。蓁夫人は女学校時代に、おそらく日本画家の画塾に通い、一般教養としての日本画を描いたことがあったのだろう。ただし、劉生の作品には膠(にかわ)や岩絵の具を使った本格的な日本画は案外少なく、作品の多くはいわゆる「紙本墨画淡彩」の手法が多いらしい。劉生にしてみれば、油絵にはない柔軟かつ自在な表現がにできる日本画は、逆に自由度が高いと感じていたのかもしれない。
下落合(4丁目)2080番地(現・中井2丁目)に住んだ金山平三Click!は、歌舞伎の舞台をモチーフにした膨大な量の「芝居絵」Click!を描いたことで知られるが、日本画の手法による軸画もいくつか残しているようだ。金山平三は、あくまでも油絵がメインの仕事なので、劉生のようにほとんど“本気”で新しい表現を生みだそうと探求し、日本画の画面にあえて取り組んでいたわけではないだろう。
わたしの知人で、金山平三のめずらしい軸画を所蔵されている方がいる。金山平三が、日本のさまざまな郷土玩具を集めて描いたもので、大切に保存されていたのか色彩も鮮やかなままだ。郷土玩具や郷土色ゆたかな人形に趣興をそそられ、遊びの“余技”として制作した日本画だと思われる。きっと、日本各地へ写生旅行をした際、人形好きな金山が買い集めてきた郷土土産を並べて、軸画にしてみたくなったのだろう。
きちんとていねいに軸装された作品は、自宅のどこかに架けられていたものか、あるいは誰か金山ファンに“お土産”として贈ったものだろうか。作品をあまり売ろうとはしなかった金山平三のことだから、自分で所有していたか、誰かに遊びで贈呈した作品の可能性が高いように思われる。洋画家が、プレゼント用として日本画あるいは文人画のような絵を特別に色紙などへ描くのは、それほどめずらしいことではない。
下落合(2丁目)679番地に住んだ笠原吉太郎Click!も、そのような日本画や文人画のような作品が、ご遺族の家に伝わっている。山中典子様Click!からお見せいただいたのは、3点の日本画表現の作品だ。ひとつは、1944年(昭和19)3月4日に古希(70歳)を迎えた笠原吉太郎Click!が、親戚へ配った『白梅』図だ。本来は、このようなおめでたい記念の絵柄には紅白梅図を描いて贈りそうだが、太平洋戦争も末期で物資が不足していたのか、朱墨または絵の具が手に入らず、やむなく墨1色で白梅としたのではないだろうか。描かれている紙質も、他の2点の作品に比べてかなり品質が悪く、思うような画紙が手に入らなかったのだろう。
残りの作品2点は、金箔の淵がついた上質の色紙に描かれており、『白梅』図よりは以前に描かれた作品のように思われる。押捺されている印形も『白梅』図とは異なり、墨のほかに朱墨か水彩絵の具の赤も使われていて、1941年(昭和16)以前の作品のような印象だ。色紙を包む包装紙にも、高級な和紙が用いられており、物資不足をあまり感じさせない時代のものだ。ひょっとすると、『白梅』図と他の2点の作品とは、制作時期に10年前後の開きがあるのかもしれない。
まず、『旭光』と題された作品は、水平線から昇る真っ赤な朝日を描いている。岩場や波など墨による描線が完全に乾いたあと、朱墨か赤の水彩を載せており、制作に時間をかけていねいに描いているのがわかる。写生によく訪れた、房総半島の日の出の印象風景を描いたものだろうか。絵筆をほとんど使わず、普段はペインティングナイフだけで油絵を制作Click!していた笠原吉太郎なので、筆による描画はめずらしい。
もう1点は、やはり同様の高品質な色紙に描かれたもので、包装和紙に筆書きされたタイトルには『牡丹』と書かれている。どこかでスケッチブックに写生しておいたボタンの花を、墨1色で描いたものか、あるいはボタンを目の前に置いて描いたのかは不明だが、薄墨ながら肉厚なボタンの花の質感がよく表れた作品だ。墨がにじむ効果も、かなり手慣れた様子で表現されている。
笠原吉太郎アトリエの前の道(八島さんの前通りClick!=星野通りClick!)を、南へ100mほど歩いたところに西坂の徳川義恕男爵邸Click!が建っていた。徳川邸では、大正期から邸の北側の庭に多種多様な大量のボタンを栽培しており、「静観園」Click!と名づけて4月末から5月にかけ一般に公開していた。笠原吉太郎アトリエから、北へ140mほどのところの第三文化村Click!に住んでいた太平洋画会の吉田博Click!は、「東京拾二題」シリーズに徳川邸の「静観園」を選んで、1928年(昭和3)に『落合徳川ぼたん園』Click!を制作している。笠原吉太郎もまた、ときに徳川邸の「静観園」を開花期に訪れては、さまざまな種類のボタンをスケッチしていたのかもしれない。
『旭光』図と『牡丹』図は、ともに美しい包装紙に包まれたていねいな装丁をしているので、最初から贈答用に制作された作品なのだろう。東京朝日新聞社などで開かれた個展Click!で、作品を購入してくれたファンに対してプレゼントしたものだろうか。あるいは、中元や歳暮のお返し用の“作品”として、特別に用意されていたものだろうか。誠実で律儀な笠原吉太郎の性格を考慮すると、洋画をすっかり“卒業”したあと、気軽に日本画を描いては周囲の人々にプレゼントしていた姿が想い浮かぶ。
◆写真上:1944年(昭和19)3月4日に、古希を記念して描かれた笠原吉太郎『白梅』。
◆写真中上:上左は、1923年(大正12)に制作された軸画で岸田劉生『林六先生閑居図』(部分)。上右は、おそらく鵠沼時代に描かれたとみられる岸田劉生『裸の麗子』(部分)。下は、大震災後の1924年(大正14)2月に撮影された劉生と麗子のスナップ。
◆写真中下:上・中は、制作時期が不詳の金山平三による軸画『郷土玩具』。画面の右下隅に、平三の落款が見える。下は、1955年(昭和30)10月に撮影された写生をする金山平三。おそらく十和田湖へ写生旅行中に同行した刑部人Click!が撮影したと思われ、孫にあたる中島香菜様Click!からご提供いただいた「刑部人資料」より。
◆写真下:上は、昭和初期に描かれたとみられる笠原吉太郎(画号・寿禄)『旭光』(上)と『牡丹』(下)。中は、色紙が収められた和紙の包装紙。下は、1920年(大正9)ごろに撮影された笠原吉太郎。下落合679番地のアトリエ前庭で撮影されており、翌1921年(大正10)に下落合661番地へアトリエを建設する佐伯祐三Click!と出会ったころの姿だ。