金子直德(1750~1824年)が書いた『和佳場の小図絵』Click!は、上巻が1792年(寛政4)に、下巻が1798年(寛政10)に脱稿している。原本は、残念ながら失われてしまったようだが、いくつかの写本が現存している。よく知られているのが、早稲田大学図書館と上野図書館に収蔵されているものだが、上野図書館の写本には金子直德が監修し絵師に描かせた、絵図『曹曹谷 白眼 高田 落合 鼠山全圖(雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図)』が現存している。
つまり、実際に安藤対馬守下屋敷が存在していた寛政期ごろに、同地域とその周辺をリアルタイムで写生した風景図ということになる。その絵図の左端に、安藤対馬守下屋敷が採取されているが、その北側に「鼠塚」と称する大きな双子の山が描かれている。江戸期の絵図は、縮尺も方角もアバウトであり、厳密な位置規定はしにくいが、池袋村の丸池Click!が描かれた池谷戸と安藤家下屋敷の間に、ちょうどふたつの形状がよく似た山が重なるように描かれている。この「鼠塚」と付された相似の双子山が、前方部へ新たに築かれていた円墳状の墳丘であり、1936年(昭和11)の空中写真でも薄っすらと面影が確認できるサークルのように思えるのだ。
そうだった場合、双子山のベースを形成していた大規模な前方後円墳(180m超)の後円部は、すでに寛政年間には崩されて存在せず、農地あるいは屋敷地として開墾されてしまっていた……ということになりそうだ。この時期まで残っていたのは、双子山に見えるふたつの墳丘(円墳状)だけだった。また、字名に「狐塚」が残る一帯には、特にニキビClick!状の塚は描かれていないように見える。直径20~30mほどの墳丘では、絵図に採取するほどの規模ではなかったということだろう。換言すれば、「鼠塚」と呼ばれた双子の山が非常に目立つ、付近では伝承を生むまでの大きな存在だった……ということになる。
また、安藤家の下屋敷南側に、「鼠山」とふられている点も興味深い。安藤家下屋敷が存在しない江戸前期には、同家敷地も含めた一帯が「鼠山」と呼称された御留山Click!(立入禁止の将軍家鷹狩り場)だった。厳密にいえば、寛政期の「鼠山」と呼ばれたエリアは安藤家下屋敷の西側へ移行しつつあり、安藤家下屋敷の南側(手前)、絵図では下落合の七曲坂が通う突き当たりは、すでに下落合村と雑司ヶ谷村旭出(あさひで:高田村誌)のエリアになっていたはずだ。それでも、「鼠山」と付記されているところをみると、いまだ寛政年間まで一帯を通称「鼠山」と呼称する一般的な慣習、ないしは地域的な概念が残っていた様子をうかがい知ることができる。その後、鼠山の概念は西側の椎名町Click!寄りへとずれていく。
さて、もうひとつの風景画を見てみよう。江戸中期だから、おそらく『和佳場の小図会』の絵図よりもかなり前に制作されたのではないかとみられるのが、武家で俳人と思われる喜友台全角という人物が描いた『武蔵国雑司谷八境絵巻』(早稲田大学所蔵)だ。同絵巻の紙質や筆跡、画風、描かれている人物の風俗などから享保年間(1716~1735年)、あるいはその少し前と推定されている。寛政年間(1789~1801年)よりも、約70年ほど前に描かれたと想定されている作品だ。
雑司ヶ谷とその周辺の8つの風景を収録した、いわば名所絵巻といったコンセプトの作品だが、その中に「鼠山小玉 長崎之内」という画面がある。画面には、「麺棒のこだまからむやつたかつら(麺棒の木霊絡むや蔦葛)」という秋の句が添えられている。蕎麦を打つ音が、蔦かづらが絡む木立に吸いとられ、響きが遠くまで聞こえないほど草深い土地……というような意味になるのだろう。絵の解説を、1958年(昭和33)に新編若葉の梢刊行会から出版された、『江戸西北郊郷土誌資料』から引用してみよう。
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鼠山は一名椚山(くぬぎやま)ともよばれていた。今の椎名町の東南方、目白・池袋寄りの一帯の高台の称である。元禄・享保の昔は、この辺は蔦かつらの生い茂った椚の原始林で、兎や狐狸の棲処であった。ここで猪狩を行ったという伝説もある。絵には小高い丘の麓にある田舎家で、麺棒を振って蕎麦を打っている所を見せ、家の傍は蔦のからみ付いている木立を描き添えてある。蕎麦はこの辺の名物であった。
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「長崎之内」と書かれているので、長崎村から「鼠山」の方角を向いて描かれていると想定することができるが、がぜん注目したいのは丘上に描かれた巨大なドーム状の、ふたつ(ないし重なりを考慮すると3つ)のふくらみだ。自然できた丘上の形状とはとても思えず、なんらかの人工的な手が加えられた構造物のように見える。
現在の地形から考えてみると、丘の麓にあたる鼠山の西側=長崎村の平地から安藤家下屋敷のある丘陵一帯、つまり谷端川に向かって傾斜する北斜面(南東)を眺めてみても、描かれた丘陵の中段ぐらいまでの高さ感覚であり、これほどの高度や盛り上がりは感じられない。ましてや、丘上からさらに立ち上がる巨大なドーム状のふくらみなど、今日では存在していないのだ。このふたつのドーム地形は、いったいなんなのだろうか?
前回ご紹介した空中写真、あるいは『和佳場の小図会』の記述や絵図から想定すれば、いずれかのドームが「鼠塚」であり、もうひとつの大きなドームが未知の塚ということになりそうだ。わたしは、左側の大きなドームがふたつ重なって見えるほうが、寛政期の『雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図』に描写された「鼠塚」であり、右側のドームがいまだ見つけられていない「鼠山」西部の墳丘(円墳ないしは前方後円墳の後円部?)ではないかと考えている。寛政期を迎える以前、享保年間ぐらいまで西側から「鼠山」一帯を眺めると、このような異様なドーム状の“なにか”が丘上に起立し、いまだ崩されずに存在していたのだと思う。
また、これらの大規模な古墳を形成する経済的な基盤、すなわち古墳時代の集落跡や遺構が周辺に存在しているかという課題だが、豊島区側にも下落合側にも部分的だが古墳時代の遺構が発掘・確認されている。大規模な集落跡などは、すべてが住宅街の下になってしまっているので、これからも発見・発掘するのは困難かもしれないが、古墳期になにもない“原野”に、突然巨大な古墳群が出現しているわけではないことを、いちおう確認しておきたい。「鼠塚」とみられる画面左手に描かれたドーム、すなわち空中写真では安藤家下屋敷の北辺に確認できる3つの大きな古墳群を、これからの便宜上「安藤家鼠塚古墳群(仮)」と呼ぶことにしたい。
古墳とみられる巨大な塚を築造した勢力が、落合側にいたのか長崎側、あるいは雑司ヶ谷・池袋側にいたのかは不明だが、これらの墳丘が見下ろしている谷間を前提とすれば、そしてそのような古墳築造をめぐる古代人の「宗教観」や死生観的な慣習、すなわち「先祖が見守ってくれる高台の位置」を意識するのであれば、古墳群の集落基盤は谷端川(もちろん古代の流域は大きく異なっていたかもしれない)が通う長崎一帯(現・長崎、南長崎、目白5丁目、西池袋4丁目など)にあったのではないかと考えている。
さて、「鼠山小玉 長崎之内」画面で手前の蕎麦を打つ農家は、長崎村のどこにあったか?……というような詮索は、おそらくムダだろう。画面は、日本画の手法で描かれているのであり、構成的な要素が強いとみられるからだ。この蕎麦打ち農家は、「鼠山」の丘がこのように見通せる田畑の中ではなく、比較的にぎやかな清戸道Click!(せいどどう=現・目白通り)沿いの長崎村に建っていたのかもしれず、また雑司ヶ谷村でスケッチしておいた農家を、「鼠山」が画題の下に配置しているのかもしれないからだ。ただし、「鼠山」の情景は他の名所と同様、実際に現場を歩いてスケッチしているのだろう。
寛政年間には見られた「鼠塚」をはじめ、これらの墳丘とみられるドーム状の巨大な構造物は、おそらく幕末までは残らなかったのではないだろうか。それは、幕府が安藤家の下屋敷地に指定したときに、最初の大規模な土木工事が行われ、また幕府が感応寺の境内として大々的に整備した際には、念押しの整地化によって徹底的に崩され、さらに大名屋敷や旗本屋敷に区画割りされたときに整地化が行われているのかもしれない。また、周辺の村々のニーズとして、田畑の拡張や増産をめざす開墾も、幕末に向けては常時つづけられていただろう。明治期の早い地形図を参照しても、すでにこれら巨大なドーム状の「塚」ないし「山」は、特異な地形として記録されてはいない。
『武蔵国雑司谷八境絵巻』の「鼠山小玉 長崎之内」に描かれた左手の大きなドーム、「鼠山」のさらに西寄りとわたしが考えている右手のドームは、まったく未知の存在だ。戦後の1947年(昭和22)に、焼け跡を撮影した空中写真を参照すると、小規模なサークルらしい痕跡はいくつか発見できるが、描かれたほどの巨大な塚状サークルは、いまだ発見できていない。非常に興味深い事蹟なので、引きつづき調べていきたいテーマだ。
◆写真上:「安藤家鼠塚古墳群(仮)」のうち、ベースとなる巨大な前方後円墳の後円部とサークル②のちょうど境界あたりに建つオシャレな邸宅。
◆写真中上:上は、上野図書館収蔵の『和佳場の小図会』に付属する『雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図』(部分)。中は、その「鼠塚」部分の拡大。下は、「安藤家鼠塚古墳群(仮)」にあるサークル②の西北辺にあたる空き地。
◆写真中下:上は、早稲田大学収蔵の『武蔵国雑司谷八境絵巻』のうち「鼠山小玉 長崎之内」。中左は、『和佳場の小図会』の下巻(早稲田大学蔵)。中右は、『武蔵国雑司谷八境絵巻』の巻頭(同)。下は、鼠山エリアにある「目白の森公園」内の池。
◆写真下:いずれも、鼠山エリアにあたる現在の街並み。
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感応寺の「裏」側の秘密。(下)
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