目白通りの北側、下落合の北端と接するように建てられていた、安藤対馬守下屋敷Click!(寛政年間の呼称で、のち感応寺Click!境内)の北側(裏側)にあった字名にも残る「狐塚」Click!と、その周辺に展開する古墳群とみられるサークルについて書いたことがある。池袋駅西口から徒歩5分ほどの立地にもかかわらず、大正末から昭和初期の郊外開発ブームでも、また戦後もしばらくたった住宅不足の時代でも宅地化が進まず、草原のまま放置されていた南北の細長いエリアだ。その一部は上屋敷公園となって、現在でも住宅が建設されてない。
ちょうど、狐塚に連なる古墳とみられるいくつかのフォルムは、雑司ヶ谷村と池袋村の境界にあたる位置で、金子直德が寛政年間に書きしるした『和佳場の小図絵』の記述とも重なる事蹟だ。だが、金子の記述にはもうひとつ、長崎村との境界にある「塚」の記述も登場していた。つまり、池袋村と雑司ヶ谷村の間にある記述は「池袋狐塚古墳群(仮)」でいいのかもしれないが、それでは長崎村が除外されてしまう……という課題だ。当該箇所を金子直德の原文から、そのまま引用してみよう。
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同屋敷(安藤対馬守下屋敷)後ろ(千代田城から見たうしろ側=北側)中程に鼠塚、又はわり塚共狐塚共云。雑司ヶ谷と池袋長崎の堺と云。(カッコ内引用者註)
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「鼠塚」「狐塚」「わり(割)塚」(割塚は全国に展開する、古墳を崩して道路や田畑を拓いた一般名称)が、それぞれ別個のものを指すのか、同一のものの別称なのかは曖昧だが、塚の規模やかたちを想定するなら、それぞれ別々の塚名と考えても不自然ではないことは前回の記事で書いたとおりだ。また、この文章では「雑司ヶ谷村と池袋村と長崎村」の3村境界にある塚ではなく、「雑司ヶ谷村と池袋村」および「雑司ヶ谷村と長崎村」の境界にある塚群……というような意味にも解釈できることに気づく。
つまり、前回の記事では、戦後まで「狐塚」の残滓がそのまま存在していた、雑司ヶ谷村と池袋村(字狐塚)の境界一帯に注目していたけれど、長崎村側に近い境界は細かく観察してこなかった。そこで、さまざまな時代の空中写真を仔細に調べてみると、先の「池袋狐塚古墳群(仮)」よりも規模が大きなサークル群を、雑司ヶ谷村と長崎村(一部は池袋村にもかかる)の境界に見つけた。
しかも、その一部は安藤対馬守下屋敷(幕末の感応寺境内)北辺の敷地に一部が喰いこんでおり、狐塚周辺で確認できるサークルよりもかなり規模が大きい。おそらく、安藤対馬守(それ以前に安藤家は但馬守Click!を受領)の下屋敷建設のとき、さらには感応寺の伽藍建立の時期に、大規模な墳丘がならされ(下屋敷地整備あるいは寺境内整備)、整地化されているのではないかとみられる。
さらに、これらのサークル上にあったとみられる巨大な墳丘が、江戸期に描かれた図絵や絵巻物にも残されていることが判明した。ただし、絵図に記録された“山”や、絵巻に描かれた2つの後円部とみられる巨大なドーム状の墳丘が、空中写真で確認できる崩されたとみられるサークル痕のいずれに相当するのかは、裏づけの資料が乏しいので厳密には規定できない。それぞれの表現が、明治以降の洋画作品に見られる写実的な風景描写ではなく、日本画の“お約束”にもとづく構成的で、慣習的な表現を前提としているからだ。
さて、わたしが「なんだこりゃ?」と気づいたのは、1936年(昭和11)に目白文化村Click!上空から撮影された写真を眺めているときだった。江戸前期には全体が「鼠山」Click!と呼ばれた御留山(将軍家が鷹狩りをする立入禁止の山)一帯で、江戸後期からはその東側が安藤但馬守(のち対馬守)の下屋敷となり、幕末には感応寺の境内、その後は明治維新まで小さめな大名や旗本の屋敷、寺社の抱え地が64区画ほど設置されていた敷地の北側に、直径50m余のサークルを見つけたときだった。同年の写真でも、このサークルはちょうど円の内外を木立が取り囲み、内側には住宅が建てられていない。
別の上空から撮られた写真も含め、さまざまな角度からサークルを観察すると、当初発見したサークル(便宜上サークル①と呼ぶ)の北側にも、同じぐらいの規模のサークルらしいフォルム(サークル②と呼ぶ)のあることがわかった。そして、1947年(昭和22)に米軍によって撮影された戦後の焼け跡写真を観察すると、サークル①の痕跡は地面の色が異なることで確認でき、サークル②はうっすらと円形に拡がる地面の、段差らしい影を確認することができる。
さらに、翌1948年(昭和23)の空中写真を見ると、サークル②の左下(西側)の円弧部分へ、“く”の字型の道路が敷設され、驚くべきことに戦後のバラック住宅がサークル②の中心点に向かって、放射状に建設されているのがわかる。つまり、この時期まで道路を直線ではなく、なにか(おそらく地面の段差にもとづく以前からの地籍に起因)を避けるように“く”の字に敷設し、バラック住宅を放射状に建てなければならない、なんらかの地形・地籍的な制約があったと想定することができるのだ。
わたしは見つけた当初、このサークル①と②の形状に夢中になっていた。地理的にみれば、これらのサークルは安藤家下屋敷の敷地にも喰いこんでいるので、南側の雑司ヶ谷村(雑司ヶ谷旭出=現・目白3丁目)と西側の長崎村(現・目白4丁目)とにまたがっており、『和佳場の小図絵』に記載された雑司ヶ谷村と長崎村の「堺」の記述に合致するからだ。また、幕末の『御府内往還其外沿革図書』の表現からすれば、東側から安藤家下屋敷に沿って細長くシッポのように西へ伸びた、池袋村の村境にもかかる規模だったからだ。
でも、1947年(昭和22)の焼け跡写真を拡大して観察するうちに、より重大なかたちに気がついた。双子のようなサークル①と②は、文字通りサークルにしか見えないことだ。つまり、後円部らしいフォルムは確認できても、古墳時代の前期に多く見られた前方後円墳の前方部が、サークル①と②には確認できない。たとえば、下落合摺鉢山古墳(仮)Click!や新宿角筈古墳(仮)Click!、成子天神山古墳(仮)Click!などの痕跡では、土地の起伏や道の敷設のしかた、戦災後の焼けの原の土色などから容易に前方部を想定することができた。しかし、サークル①と②は、どう目をこらしても前方部と認められる正円形からの張り出しが認められない。
前方後円墳から帆立貝式古墳、やがては前方部を省略することが多くなった、古墳時代後期の双子のくっついた円墳かと思いはじめたとき、焼け跡の空中写真からこのサークル①と②を飲みこむように、もうひとつ別の大きなかたちがふいに見えてきたのだ。それは、東の池袋村から南の安藤家下屋敷、そして西の長崎村へとまたがる、全長180mほどの鍵穴型のフォルム、すなわち巨大な前方後円墳のかたちだった。しかも、この鍵穴型のくびれの両側には、「造り出し」跡とみられる痕跡までが確認できる。
サークル①と②の構造物とみられるフォルムは、この巨大な前方後円墳の前方部へ重なるように造られていた様子がうかがえる。つまり、前方後円墳の玄室がある後円部はそのまま残し、玄室への入り口がある羨道部から前方部に向かってサークル②が、その南西側に残った前方部にはサークル①が造られた……という経緯に見えるのだ。
このような古墳の築造法の場合、主墳である前方後円墳の被葬者のごく近親者(親族)がサークル①と②へ、あまり時代を経ず寄り添うように葬られた倍墳のケースと、主墳の被葬者の子孫たち、つまり古墳時代もかなり進み、新たに巨大な墳墓を築く非合理性や宗教観・慣習の変化から、先祖の大きな墓の一部を崩して土砂を流用し、円墳状の墳墓を形成したケースとが考えられるだろうか。
また、まったく別の見方として、前方後円墳の被葬者とは敵対するどこかの勢力がこの地域を制圧して、既存の墳墓の土砂を削りとって流用し、ふたつの新たな双子状の古墳(円墳)を築造した……とも考えられなくはない。蘇我氏の墳墓といわれる、玄室が“丸裸”にされてしまった飛鳥の石舞台古墳や、出雲の「風土記の丘」Click!=宍道湖の湖東勢力圏に見られる一部の古墳など、墳丘が崩され土砂を別の用途に使われてしまったのが好例だ。
でも、もともとあったとみられる前方後円墳の重要な玄室部、被葬者が埋葬されて眠る大きな後円部を崩さず、前方部へ後円部よりも規模がやや小さめな墳墓を築造しているように見えるので、もともとの被葬者を尊重したなんらかのつながりのある親族・係累、あるいは子孫の墳墓ととらえるほうが自然だろうか。では次に、同時期あるいはリアルタイムに近い時代に残された、絵巻や図絵の「古墳」風景を検証してみよう。
<つづく>
◆写真上:安藤対馬守下屋敷(のち感応寺境内)の西端で、現在でも道筋はそのままだ。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)に下落合の目白文化村上空あたりから撮られた空中写真。中は、同年に撮影された別角度の空中写真。下は、幕末の『御府内場末往還其外沿革図書』に描かれた感応寺が廃寺になったあと1854年(嘉永7)現在の同所。
◆写真中下:1947年(昭和22)の空中写真にみる同所(上)と、同じ写真に見つけたフォルムを描き入れたもの(中)。下は、当時の道筋が残る安藤家下屋敷の北側接道。左手の敷地がかなり高くなっており、当初は切通し状の道だったことがうかがえる。
◆写真下:上は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同所。サークル②に沿って拓かれた“く”の字の道沿いへ、バラック住宅が②の中心に向かって放射状に建てられているのがわかる。中は、サークル②西側にある“く”の字道の現状。下は、サークル②の東端あたりで巨大な前方後円墳フォルムの玄室部に近い位置。サークル①②の双子山古墳が「鼠塚」で、巨大な墳丘を貫通する道を拓いた後円部が「割塚」と呼ばれたのかもしれない。