沼袋の駅から徒歩5分ほどのところにあった、私立沼袋学園(沼袋小学校)の所在地が判明した。沼袋学園は、三岸好太郎Click!・三岸節子Click!夫妻の長女・陽子様Click!が通っていた小学校だ。野方町上鷺宮407番地の三岸アトリエClick!を出ると、500mほど離れた鷺ノ宮駅から西武線に乗り3つめの沼袋で降りて、北へ約300mほど歩いたところに沼袋学園(沼袋小学校)は建っていた。9歳の陽子様が転入した1934年(昭和9)現在の住所でいうと、中野区沼袋町201番地(旧・野方町下沼袋大下201番地)ということになる。子どもの足だと、たっぷり40分前後はかかる登校距離だろう。陽子様の長女・山本愛子様Click!が、中野区教育委員会へ問い合わせて調べてくれたのをご教示いただいた。
陽子様が、地元の鷺宮小学校をよして途中から沼袋小学校へ転校したのは、同年7月に父の三岸好太郎Click!が急死したのと、母・三岸節子Click!の足が悪かったからだ。突然片親となり、しかも母親の足が悪いことで、陽子様の回想によれば生徒たちのイジメの標的にされていたらしい。鷺宮小学校は公立だが、沼袋学園は授業料の高い私立なので、父親のいない三岸家の家計を少なからず圧迫しただろう。それでも三岸節子は鷺宮小学校を避け、無理をしても娘を沼袋学園に通わせている。
沼袋学園(沼袋小学校)は、東京都立教育研究所が1987年(昭和62)に編纂した『東京教育史資料体系』第10巻によれば、1927年(昭和2)12月16日に設立認可願いが東京府知事に提出され、翌1928年(昭和3)3月19日に認可が下りている。同年4月1日より開校しているとみられるが、戦時中に閉校となってしまい、20年とはつづかなかったと思われる。同校の様子を、1972年(昭和47)に出版された『中野区史・昭和編2』(中野区)から引用してみよう。
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沼袋小学校(沼袋町二〇一、沼袋学園内)
本校は初め区内に於ける唯一の市立小学校であつた。元成蹊学園教授高野董氏が、小学校は半ば家庭的に半ば社会的に取扱ふのが自然であるといふ見地から、毎年十五名づつの児童を募集し、九〇名を以て限度とし、家塾的学校として、日本主義的精神教育を施すの目的を以て、小学校令に準拠して昭和三年三月十九日認可を受け、設立したものである。開校したのは同年四月一日であつた。/昭和十四年五月現在に於ては教員数八名。(男六名、女二名) 児童数五三名。(男二八名、女二五名) 卒業生五〇名である。
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成蹊学園は、目白駅を線路沿いに北へ300mほど歩いた、武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)の線路ぎわに建っており、最寄り駅は廃駅になった上屋敷駅だった。今村繁三Click!や岩崎小弥太Click!、中村彝Click!を支援していた中村春二Click!らが学校を創立・運営しており、当時の住所表記でいえば高田町西谷戸大門原1162番地(現・目白3丁目17番地)あたりに建っていた。ここで教諭をしていた高野董(ただす)という人物が、同学園を退職して沼袋学園を創立している。
成蹊学園はきわめて近代的な、自立した主体的な人間を育てるという教育目標を掲げていたので、高野董が理想としていた「日本主義的精神教育」とは校風が合わず、思想的な齟齬が原因で退職しているような気がする。高野が成蹊学園に残した著作の記録を見ても、裏づけや事実的根拠のない観念的な「精神論」や、国粋主義的な臭いを感じる。おそらく、近代的で合理主義的な成蹊学園の校風からは乖離し、学園内に居づらかったのではないだろうか。
三岸陽子様は約3年間、沼袋学園に通っているが同級生はわずか3人だったという。卒業生が少ないせいか、同校を卒業してご健在の方はきわめて少ない。しかも、1941年(昭和16)に日米戦争がはじまると、ほどなく廃校(統廃合?)になっているようだ。20年足らずだった沼袋学園の歴史だが、中野区内で唯一の私立小学校ということで行政の記録に残っている。
同じように、戦争の影響から短期間で廃校になってしまった小学校が、落合地域にも存在している。こちらは、私立ではなく公立の小学校だった。関東大震災Click!が起き、東京の市街地から郊外への人口流入が加速すると、落合地域では昭和初期に就学児童の急増から、次々と小学校が建設されている。1932年(昭和7)に下落合1丁目292番地の御留山Click!へ落合第四小学校Click!が建設されると、次は上落合へ5番目の小学校が建設されることになった。ところが、同校は「落合第五小学校」とはならず、なぜか「明星小学校」とネーミングされている。
明星尋常高等小学校は、1937年(昭和12)に上落合の前田地区Click!=上落合1丁目537番地(現・落合水再生センター内)に建設され、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失、ほどなく廃校になっている。戦後しばらくの間は、焼けた小学校の敷地で“青空教室”がつづけられていたが、1946年(昭和21)3月に正式に廃校と決定された。明星小学校の様子を、1998年(平成10)に落合第一特別出張所から発行された『新宿おちあい 歩く見る知る』所収の、望月肇「落合の小学校事情~幻の明星尋常高等小学校」から引用してみよう。
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明星尋常高等国民学校(1941年4月の国民学校令により小学校→国民学校)では戦禍がはげしくなった昭和十九年八月、小学三年から小学六年までの約三〇〇人の児童が群馬県の川原湯温泉に集団疎開Click!し六軒の旅館に分宿した。/終戦直前の昭和二十年三月、六年生は卒業のため、家や両親を恋しがる五年生以下の後輩をあとに引き揚げることになり、帰郷後、母校において卒業式が執り行われた。/そして、その直後の四月十三日未明(ママ:4月13日の空襲は同日午後11時すぎから翌14日の未明にかけて)の空襲で明星尋常高等国民学校の校舎はついに灰塵と化し、上落合方面では九十五人の犠牲者をだしたと聞いている。/この日の空襲では落合第二尋常国民学校(現在の落五小の場所)も焼け落ち、結局、落合ではこの二校が焼失したことになる。/(中略) 校舎が焼け落ちたことにより、明星尋常高等国民学校は当分の間、焼け跡の青空教室での勉強を余儀なくされたが、ついに昭和二十一年三月三十一日にて廃校となり、わずか八年余りの幻の明星尋常高等小学校となってしまった。(カッコ内引用者註)
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廃校になった明星小学校に代わり、戦後の急激な人口回復へ対応するため新たに落合第五小学校Click!が、中井駅前から移転した落合第二小学校の跡地へ建設されるのは、1954年(昭和29)4月になってからのことだ。明星小学校は、わずか8年ほどしか落合地域に存在せず幻の小学校となってしまった。
明星小学校は、明らかに戦争の犠牲になった学校で少し事情が異なるが、沼袋学園(沼袋小学校)が象徴的なように、大正期から昭和初期にかけ理想的な児童教育を掲げた学校が、東京郊外を中心に次々と誕生していた。沼袋学園でも、おそらく成蹊学園と同様に中等部を設置する予定だったのかもしれない。だが、林立する学校はどこも経営が苦しく、短期間しか存続しなかった学校も少なくないだろう。創立者の高野董は、陽子様が卒業したのち三岸家へ借金に訪れているが、戦後も同学園をつづけることは困難だったようだ。
◆写真上:明星尋常高等小学校があった、旧・上落合1丁目537番地あたりの現状。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)に発行された「中野区詳細図」にみる沼袋学園(沼袋小学校)。中は、1935年(昭和10)ごろに陸軍航空隊によって撮影された沼袋学園。L字型の校舎や、体育館のような建物が見える。下は、沼袋学園跡の現状。
◆写真中下:上は、1912年(明治45)の成蹊実務学校を描いたイラスト。南を向いて描かれており、遠景に「目白ステーション」や「学習院」の文字などが見え、左手には山手線が描かれている。中は、1917年(大正6)ごろに撮影された成蹊学園(成蹊中学校/小学校)。下は、1937年(昭和12)に上落合1丁目537番地に建設された明星小学校。
◆写真下:上は、1941年(昭和16)発行の「淀橋区詳細図」にみる明星小学校。中は、1945年(昭和20)4月2日に米軍のB29偵察機によって撮影された明星小学校。11日後の4月13日、同校は第1次山手空襲によって焼失した。下は、明星小学校跡の現状で落合水再生センターの処理施設となっている。