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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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「サンチョクラブ」の壺井繁治。

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壺井繁治・栄邸跡1.JPG
 大正期からさまざまな詩誌を通じて創作・発表をつづけ、戦前には詩壇でゆるぎない地歩を固めていた壺井繁治Click!だが、詩集が出版されたのは遅く1942年(昭和17)の『壺井繁治詩集』(青磁社)が初めてだった。日米戦争の開戦直後であり、落合地域から竣工したばかりの鷺宮の新築住宅へ転居する直前のことだ。詩人として本格的な活動をスタートをしてから、すでに20年近い歳月が流れている。
 香川県の小豆島で生まれた壺井繁治は、1917年(大正6)3月に東京へやってくると、翌月には早稲田大学政経学科へ入学している。だが、同大を出て会社員になるという両親との約束をさっそく反故にし、わずか10日で英文科への転科手続きをとってしまった。その迷いがなくすばやい行動から、当初よりたくらんでいた計画だったのだろう。当時、東京へ出さえすれば「勝ち」と考えていた文学志望者は、決して少なくはない。この時期、彼は早大に通うため牛込区弁天町に下宿している。
 そのうち、英文科への転科が実家にバレて送金を停止されてしまう。1918年(大正7)11月に学資稼ぎのため、アルバイトで勤めた東京中央郵便局の書留係で労働争議を経験し、前年に起きたロシア革命の衝撃とも相まって「階級意識」に目ざめたらしい。翌年、大正日日新聞に学業とバイトが両立できる給費生として採用されるが3ヶ月で退職、ついでに詩作には学歴は不要だと早大も退学してしまった。
 その後、さまざまな仕事や兵役(2ヶ月で「危険思想」の持ち主として除隊)を経験しているが、1922年(大正11)11月にプロレタリア文学の出版社だった自然社へ就職したことから、数多くの作家や詩人たちと知り合っている。関東大震災Click!が起きた1923年(大正12)から翌1924年(大正13)にかけ、萩原恭次郎Click!岡本潤Click!らと創刊した詩誌『赤と黒』や『ダム・ダム』などの詩作を残している。『赤と黒』は、スタンダールの同名小説をもじったタイトルではなく、コミュニズム(赤)とアナーキズム(黒)という意味合いだ。そして、翌1925年(大正14)に同じ小豆島から東京へとやってきた岩井栄(壺井栄Click!)と結婚している。
 さて、壺井繁治・栄夫妻は現在の新宿区エリアを転々としている。荏原郡世田谷町三宿で結婚したふたりは、すぐに戸塚町源兵衛へと引っ越してきた。同年2月に転居しているので、3月に京都からやってきた戸塚町源兵衛195番地の中原中也Click!と長谷川泰子とは、近所同士だった可能性が高い。壺井夫妻が下宿していた隣りには、小野十三郎Click!が住んでいた。この時期、壺井繁治はマルクス主義へ急速に接近したため、過激なアナーキストたちの黒色青年聯盟に襲われて重傷を負っている。
 ちなみに、萩原恭次郎と小野十三郎は、下落合(4丁目)1379番地(のち1973番地)にあった第一文化村Click!中央テニスコートの小さなクラブハウスにつづけて住んでいるが、箱根土地Click!と地主の宇田川家Click!とが係争していた土地の同施設へ、1929年(昭和4)秋に引っ越してくるのがアナーキスト詩人の秋山清Click!だった。このあたり、詩人同士の間で借家をめぐる情報交換が行われていたらしい気配がわかるけれど、秋山清は事前に情報を仕入れていたわけではなく、ひとりで下落合の目白文化村界隈を散歩しいて、偶然クラブハウスを紹介され借家契約をしている。おそらく、振り子坂Click!上の雑貨店から紹介された宇田川家の差配と、じかに契約を交わしているのだろう。
上落合壺井繁治邸1929.jpg
壺井繁治上落合503.jpg
 1928年(昭和3)に、壺井は三好十郎らと「左翼芸術同盟」を結成し、全日本無産者芸術連盟(ナップ)へ加盟するが、壺井夫妻は前年からすでに上落合503番地に住んでいる。1929年(昭和4)10月から、ナップ機関紙「戦旗」Click!の編集を引き受けるが、翌1930年(昭和5)10月に特高Click!に検挙され、翌1931年(昭和6)4月まで豊多摩刑務所に投獄された。この間、詩作の余裕がなかったのか、目立った作品は残されていない。そして、1932年(昭和7)6月に再び検挙され、2年後の1934年(昭和9)5月に保釈されたときには、「共産主義運動からの離脱」上申書を書いて「転向」している。
 この保釈を機に、壺井繁治・栄夫妻は上落合(2丁目)549番地へと転居している。以前にご紹介した、鶏鳴坂Click!の早稲田通りへの出口に近い一画だが、自宅の西40mの早稲田通りから少し入った路地には人気作家の吉川英治Click!(上落合553)が、西に100mほどの路地には詩人・川路柳虹Click!(上落合569)が住んでいた。壺井繁治は「転向」を表明しつつも、政府への抵抗をあきらめていない。1935年(昭和10)より、壺井繁治や中野重治Click!小熊秀雄Click!窪川鶴次郎Click!、江森盛弥、坂井徳三、新井徹、村山知義Click!、加藤悦郎、岩松淳(八島太郎)Click!らと「サンチョクラブ」を結成し、諷刺詩あるいは諷刺画を創作していく。メンバーのほぼ全員が、特高から徹底的にマークされている人物ばかりだった。
 1968年(昭和43)に出版された『日本詩人全集』25巻(新潮社)所収の小野十三郎の文章から、同クラブについて引用してみよう。
  
 (前略) ここ(サンチョクラブ)に拠って、諷刺の刃によって時代の風潮に対して最後の抵抗を試みた。それは人眼をそば立たせるほど行動的なものでなく、ささやかな心理的抵抗であったとはいえ、その後の壺井繁治の詩の形成にもかかわるところが大きい。自伝『激流の魚』の中で、彼(壺井)は当時のことを回想して、「今度サンチョ村という風変りな自治村が生れた。これは武者小路の“新しい村”のように人道主義的な砂糖の名産地でなく、“諷刺”というトウガラシの栽培をもって村の主要産業とする」という書き出しの、機関誌『太鼓』第二号に掲載された戯文調の宣言を紹介したあと、つづいて、諷刺詩というものに対する彼の考えを次のように述べている。…(カッコ内引用者註)
  
壺井繁治1959.jpg
壺井繁治上落合549.jpg
壺井繁治・栄邸跡2.JPG
 「諷刺詩」について、壺井繁治は現実に存在する矛盾をそのまま現象的に表現するのではなく、矛盾を形成する基盤となっている本質的な課題を、「発展的に拡大」してアピールすることであるとしている。彼が信頼を寄せた小熊秀雄と、ほぼ同じような「諷刺詩」のとらえ方をしているとみられるが、戦争と破滅への坂道を真っ逆さまに転げ落ちていく大日本帝国への、彼らのささやかな最後の止揚行為は、まったくの徒労に終わった。このあと、1942年(昭和17)9月に壺井繁治・栄夫妻は長年住みなれた上落合をあとにし、鷺宮の新居へと引っ越していった。
 壺井繁治は戦後、貯水の堰が破れたように次々と詩集を発表していく。それは、詩の奔流とでもいうべき創作活動なのだが、わたしの印象に残っている作品は、特高に検挙された人間(治安維持法違反者)は、病気になっても「マリア病院」(下落合の国際聖母病院Click!か?)からさえ断られる『神のしもべいとなみたもうマリヤ病院』(1947年)と、松川事件Click!を扱った『影の国』(1956年)だ。
 前者の詩は、あらゆる病院で断られた患者を受け入れてもらえるよう、「マリア病院」へあの手この手でアプローチするのだが、病院側はガンとして断わりつづけるという展開だ。あげくの果てに、患者を“島原の乱”の末裔に仕立てあげるという妙案を思いつき、「マリア様」の慈悲にすがろうとするのだが……。皮肉でおかしな『神のしもべいとなみたもうマリヤ病院』から、部分的に引用してみよう。
  
 雷も鳴らぬのに/天から名案が降って来た/物は試しだ、一つやってみようと/衆議は一決した//ああ、しかし/わが背水の陣から/マリア病院へと送ったわれらの軍使は/何時間かの後、すごすご引き返し/そして院長の回答を取次いで曰く/――今は徳川の時世ではありません/神の仕事も/この節赤字だらけで閉口しています/どうか皆様に悪しからず/われわれは再び唸らずにはいられなかった/――成程ねえ/――成程ねえ/――成程ねえ
  
サンチョクラブ1935.jpg
小熊秀雄1939.jpg
 さて、かなり以前に小熊秀雄が落合地域を散策しながら、スケッチした作品をご紹介Click!している。制作の時期からみて、おそらく上落合の加藤悦郎宅で開かれた「サンチョクラブ」の集まりへ参加したあと、アパートのある千早町1丁目30番地(旧・長崎町)への帰りがけに、付近の落合風景を写生しているのではないかと思われる。手もとには、上落合の特設市場を描いたとみられる『青物市場(上落合)』の1点しかないが、途中で下落合も通過しているはずなので、道すがらもう少し描いているのではないだろうか。

◆写真上:新婚早々に壺井繁治・壺井栄夫妻が住んだ、上落合503番地の現状。
◆写真中上は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる上落合503番地と同(2丁目)549番地。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる上落合503番地。
◆写真中下は、1959年(昭和34)に撮影された仕事部屋の壺井繁治。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合(2丁目)549番地。は、同番地の現状。
◆写真下は、1935年(昭和10)に撮影された「サンチョクラブ」の面々。は、肺結核で死去する直前の1939年(昭和14)に撮影された小熊秀雄。


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