小泉清Click!は、1962年(昭和37)2月21日の夜、中野区鷺宮3丁目1197番地のアトリエClick!でガス自殺をとげた。同じく、鷺宮にアトリエをかまえていた峰村リツ子Click!は翌2月22日、前日に小泉清からもらったチケットを手にして、上野の美術館へ出かけている。展覧会場へ着くと、知り合いから小泉清が死んだことを聞かされた。
にわかには信じられず、「昨日会ったばかりよ」というと自殺したことを知らされた。峰村リツ子は、そのまま美術館を飛びだすと鷺宮へ駆けもどっている。そして、ベッドの上に横たわる小泉清の額に手を当てて、その冷たさにようやく彼の死を実感として受けとめた。
峰村リツ子のアトリエは、周辺に住む画家たちが4~5人ほど定期的に集まり、モデルを雇ってクロッキーを行う“研究室”になっていた。峰村が誘うと、モデルを呼ぶカネのない小泉清は必ず顔を出したようだ。絵を売らない小泉清は、シズ夫人が経営するビリヤード場の収入だけで食べていた。峰村アトリエでは、小泉はクロッキーを行うのではなく油絵や水彩、ガラス絵などの画道具を運んできては、ウィスキーをチビチビ飲みながら描いていた。「絵を描くときはこれが一番です。とくに、はだかを描く時はこれに限ります」と、小泉清は手にしたポケットウィスキーを彼女に見せた。
小泉清アトリエのモノクロ写真が何枚か残されているが、それを見ていると妙な感じがする。画家のアトリエには不可欠な、フロア据え置き用の大きなイーゼルが見あたらないのだ。壁や窓辺には、大小さまざまなキャンバスが立てかけられているけれど、通常画家のアトリエを撮影すると必ず画角に入る大型のイーゼルが見えない。峰村リツ子は、シズ夫人が死去した直後、小泉清が峰村アトリエで絵を描く様子を記録している。1971年(昭和46)に時の美術社より発行された、『美術グラフ』2月号から引用してみよう。
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それはすさまじい絵の描きようだった。キャンバスを床の上において、絵の具をつけた筆を「こん畜生!」とつぶやきながら恐ろしい勢いでぶっつける。やがて大きな目玉をむきだしにした、少し不気味な裸婦の絵ができあがる。小泉さんの絵は、たいてい浮き彫りのように、絵の具を凸凹に盛り上げ、長い時間をかけるのだが、時には墨象のように描きあげるのだ。/いつでも私のところで描くときには、絵の具が乾くまで置いて、四、五日後にとりに来る。ある時、絵をとりにこられて、そして自分の絵をみながら、「この絵は、里見には似ていないでしょ?」と言われた。突然だったので、私は返事ができなかった。それよりも、びっくりしたのだ。小泉さんが、そのことをそんなに気にしていたことに。
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小泉清の画面は、里見勝蔵のそれとはまったく似ていない。わたしは、小泉清の画面には惹かれるが、里見勝蔵の作品で惹かれるものには、いまだ出合っていない。ゴテゴテと絵の具を塗り重ね、これでもかというくらい厚く塗りたくっているにもかかわらず、小泉清の絵からはサッパリとした、澄んだ透明感さえ感じるのはどうしてだろうと、いつも不思議に思うのだ。
1962年(昭和37)2月21日の午後、峰村リツ子は石膏デッサンをやりたいといい出した娘を連れて、鷺ノ宮駅前の小泉アトリエに向かっていた。すると、中杉通り沿いの鷺ノ宮駅前郵便局から出てくる小泉清を見かけ、急いで娘といっしょにあとを追いかけた。途中で捕まえることができず、小泉アトリエの玄関までいくと、「外出するからるすにします」と書いた紙がドアに貼ってあった。おそらく、いま郵便局からもどったばかりだろうと峰村リツ子がノックをすると、小泉清はビックリした顔でドアを開け、「どうぞ」とふたりを中へ入れた。上掲の『美術グラフ』から、再び引用してみよう。
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私はすぐ帰るつもりだったが、しばらくおじゃまして用件を言った。小泉さんは棚の上にのっていた石こうを取り出してきて、「お茶もさしあげませんで」と言われた。そのそぶりが何となく落ち着きなく、そわそわしていられる感じだった。そして「あしたから息子夫婦がここにきます。峰村さん、よろしくたのみます」と言われる。私は「それはよろしいですね。これからは食事なんかも……」と言いかけたが、小泉さんはまるで聞いていられない様子だった。かたわらの煙草を一本口にくわえたまま、ぼんやりと火をつけるのも忘れていられる。私はマッチをすって、煙草に火をつけてあげた。/私は、多分お忙しいのだろうと、いとまをつげた。するとまた、「お茶もさしあげませんで」と言われるのである。玄関を出ると、小泉さんは石こうにはたきをかけながら、「この石こうはいい物なのですよ、たかいのです」と言われた。私が「ひと月ほどお借りしたいのです」と言うと、小泉さんは「お返しにならなくていいのです。僕はもうかきませんから、どうぞお持ちになっていいのです」とくり返された。そして、くもった冬の空を見上げながら「春ももうすぐですなあ」と、静かな口調で独言のように言われた。それが小泉さんの死の直前の出来ごとなのだった。その夜、小泉さんは亡くなられた。
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鷺ノ宮駅前郵便局から発送したのは、おそらく友人知人あてに別れを告げる遺書なのだろう。あすから「息子夫婦がここに」くるというのは、もちろん自分の通夜や葬式の席を意識してのことだ。郵便局を出て自宅もどり、玄関のドアに途中で邪魔が入らないよう「外出するからるすにします」の貼り紙をしたところで、小泉清は死へ向けたすべての準備が済んだことを意識しただろう。だから、その直後にドアをノックして峰岸リツ子と娘が現れたとき、ふいを襲われたように狼狽したのだ。
峰岸リツ子へは、すでに2~3日前に最後の別れの挨拶を終えていたはずだった。小泉清はイチゴの箱を抱えて、ふいに峰岸アトリエを訪問している。なにか用事でもないかぎり、峰岸アトリエを訪ねることなどなかった小泉が急に現れたので、彼女は不思議な感覚をおぼえている。そして、季節にはまだ早い高価なイチゴを、ふたりはアトリエでゆっくり味わった。それが、小泉清にとっては彼女とすごす、最後の時間になるはずだった。
小泉清は、峰岸リツ子と娘の話を、つとめて耳に入れないようにしていたらしい様子がうかがえる。死への決心をかため、すべての準備が整ったとき、「明日」の話をしに訪れた母娘を、彼はわずらわしく感じただろう。小泉清は、3ヶ月前に死去したシズ夫人を思い、来し方をぼんやりふり返りながら、「これから」の話をしないよう思考を停止しているようにも見える。おそらく、このとき交わした会話と1本のタバコが、人とかかわった小泉清の最後の時間だったのだろう。
◆写真上:鷺ノ宮駅の踏み切りから眺めた、駅前郵便局のある中杉通り。
◆写真中上:上左は、鷺宮にあるアトリエの峰村リツ子。上右は、1950年(昭和25)に制作された峰村リツ子『X氏像』。下左は、オーケストラでヴァイオリンを弾いていた京都時代の小泉清。下右は、晩年ごろアトリエで撮影された小泉清。
◆写真中下:上は、外房の海岸だろうか写生旅行で海辺の崖上に寝ころぶ小泉清。下は、1956年(昭和31)に制作された小泉清『裸婦』。
◆写真下:上は、鷺ノ宮駅前(鷺宮3丁目1197番地)にあった小泉シズ夫人の経営によるビリヤード場。下は、ビリヤード跡の現状。