下落合にある御留山Click!(現・おとめ山公園)の相馬邸について、またまた誤りのある資料を見かけたので改めて整理しておきたい。同時に、1936年(昭和11)に相馬孟胤Click!が他界して、相馬家が1939年(昭和14)に中野地域へ転居したあと、その敷地を購入した東邦生命Click!が1940年(昭和15)ごろから推進した、御留山の丘上に展開した宅地開発についてもついでに考察してみたい。
まず、下落合の御留山について書かれたさまざまな資料の中で、誤りの大もとになっていると思われる“原典”は、当の東邦生命の「八十年史編纂委員会」が編集し、花田衛が執筆した5代目・太田清蔵Click!の伝記だ。1979年(昭和84)に西日本新聞社開発局出版部から刊行された、花田衛『五代太田清蔵伝』の記述を引用してみよう。
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新宿区下落合にあった旧相馬邸は奥州中村の中村藩(相馬藩ともいう)江戸藩邸だったもので、四代太田清蔵が昭和十四年に買い取った。/敷地一万五千坪、建坪五百坪、部屋数五十という広大な屋敷で、乙女山と呼ばれる庭は丘と林と谷川を擁して広々としていた。/昭和二十年五月二十五日の東京空襲で灰燼に帰し、土地もほとんど売り払われた。残っているのは三百坪弱の土地と石造りの堅牢な倉庫二棟だけで、太田家の美術品や什器が収納されている。/大半は住宅街に変貌したが、庭の一部が新宿区立おとめ山公園になっていて、わずかに昔の面影をしのぶことができる。まん中に道路が通り、一方は池を中心にした植え込みの庭園、他方は小川を中にした楠や椎の豊かな森となっている。
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この文章の中には、3つの誤りが含まれている。まず、下落合の相馬邸Click!は1915年(大正4)に御留山の丘上に竣工しているのであって、江戸期からの藩邸ではない。下落合へ相馬家が転居してくる直前、赤坂氷川明神社の南隣りにあった相馬邸Click!が、江戸期からつづく中屋敷として利用されていた藩邸の建物だ。また、徳川将軍家の鷹狩り場Click!だった立入禁止のエリアは、「御留山」「御留場」であって「乙女山」ではない。
次に、相馬邸の母家は1945年(昭和20)の空襲によって焼失したのではなく、4代目・太田清三が推進したとみられる宅地開発にともない、1941年(昭和16)に相馬家の黒門Click!(正門Click!)の移築とともに解体されている。空襲によって焼けたのは、解体された相馬邸母家の南西側に建っていた、太田清蔵親子が住む新築の大きな太田邸だ。このとき、すでに相馬邸の敷地にはクロス状に東西と南北の道路が拓かれ、宅地用の区画割りまでが行われている。その区画の南西角に、新たな太田邸は建設されていた。これらのことは、陸軍航空隊が1941年(昭和16)以降に撮影した空中写真、ならびに米国公文書館で情報公開されている米軍のB29偵察機が撮影した空中写真などで、明確に規定することができる。
また、資料としては新宿区に保存されている、御留山開発の全貌を記録した「指定申請建築線図」の存在が挙げられる。1940年(昭和15)に淀橋区あてに申請された同図は、東邦生命による御留山分譲住宅地の詳細がわかる貴重な資料だ。
さて、4代目・太田清蔵が進めたとみられる御留山の宅地開発だが、その手はじめとなったのが1941年(昭和16)にスタートした黒門の移築と母家の解体だったろう。このとき、黒門の福岡・香椎中学校への解体・移築に2年もかかっているのは、日米開戦後の戦時体制における軍事優先の運輸規制が影響したからだ。黒門の解体は早かっただろうが、巨大な相馬邸の母家の解体には、より多くの作業リードタイムを必要としたかもしれない。解体で出た良質な部材を、4代目・太田清蔵は売却したのか、それとも宅地開発にともない自邸の新築に流用したかはさだかでないが、少なくとも1943年(昭和18)末ごろには旧・相馬邸敷地に新たな道路が貫通し、区画割りを終えた造成地には住宅が建設されはじめている。
1944年(昭和19)12月13日に、米軍のB29偵察機から撮影された空中写真には、旧・相馬邸の敷地へすでに道路が東西と南北に走り、区画ごとに完成した家々が11棟ほど確認できる。東西道と南北道とが交わる敷地には角切りClick!が行なわれ、交差点の中央には緑地帯が設けられている。当初、4代目・太田清蔵は御留山に拓けた丘上の敷地を、いちばん広い息子用の太田新吉邸敷地を除き、17区画(死者が出た火災事件Click!後に移築されたかもしれない太素神社Click!の境内を除く)に地割りして販売しようとしていた。その区画割りの南西角、谷戸に面したもっとも広い敷地に、太田家は邸を新築し空襲により全焼するまで住んでいた。
翌1945年(昭和20)4月2日、すなわち4月13日に行なわれる第1次山手空襲の11日前に、米軍の偵察機から撮影された空中写真を見ると、住宅の数がすでに 15棟ほどに増えていたのがわかる。また、何ヶ所かの樹木が伐採され、食糧不足を補うためか畑にされていた様子もうかがえる。この空中写真が、4代目・太田清蔵が推進した宅地開発事業をとらえた最後の姿だろう。4代目・太田清蔵は、1946年(昭和21)4月4日に死去しているので、戦後に改めて開発された御留山の住宅街については関与していない。
次に1945年(昭和20)5月17日、第1次山手空襲のほぼ1ヶ月後に撮影された米軍写真を参照すると、4月2日に撮影された住宅群のうち、北側の区画を中心に半数ほどが“消滅”している。おそらく直接の爆撃ではなく、北東の近衛町Click!側からの延焼で焼失しているとみられる。だが、南側の区画に建っていた家々は、屋根が見えているので無事だったようだ。しかし、写真が撮影されてからわずか8日後の5月25日夜半、第2次山手空襲による焼夷弾の直撃で、太田邸も含む南側の区画一帯も全焼している。焼け跡に呆然と立ちすくむ、太田新吉の様子を同書から引用してみよう。
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五月二十五日夜の空襲で新吉の家が焼けたと知った岡本は下落合の屋敷へ駈けつけた。焼け跡に新吉が立っていた。岡本の姿を見ると、新吉はステッキで残骸をつつきながら、ぽつりと「何にもない。全部焼けちゃったんだよ」と呟いた。さすがに落胆の色はかくせなかった。岡本は小さな鏡台を持って来ていた。子供の玩具のようなものだが、ひげ剃りに必要だろう、と思って進呈した。/太田弁次郎は田園調布に住んでいて戦火をまぬがれた。翌日は自宅から銀座の本社まで歩いて出社した。こんなに歩いたのは初めてで、以後もない。本社は水びたしだったが、それでも焼け残ったのは幸運だと思った。が、下落合の新吉の家に回ってみると、みごとに何一つないまでに全焼しているのに改めて驚いた。剃刀一つないのである。弁次郎はそこで兄に安全剃刀を一つ進呈した。
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「新吉」は、すでに社長に就任していた5代目・太田清蔵のことで、岡本は武蔵境へ疎開していた彼の秘書、太田弁次郎は新吉の実弟だ。
戦後の1947年(昭和22)に撮影された米軍の写真を見ると、御留山の敷地には再建されている住宅はあるものの、ほとんどがいまだ畑にされていた様子がわかる。自邸が全焼したあと、5代目・太田清蔵は二度と下落合にはもどらず、旧・相馬邸の谷戸や弁天池を含む広大な庭は、1969年(昭和44)におとめ山公園として整備されるまで、下落合の「秘境」(竹田助雄Click!)として存在しつづけた。
◆写真上:御留山の冬枯れた谷戸を、北側の尾根筋から見下ろしたところ。
◆写真中上:上から順に、新宿区に保存されている1940年(昭和15)10月1日に淀橋区へ申請された御留山の「指定申請建築線図」。(上) 相馬孟胤が死去した1936年(昭和11)撮影の相馬邸と御留山(中上)と、1944年(昭和19)12月13日にB29偵察機から撮影された御留山。(中下) 1941年(昭和16)にスタートしたとみられる宅地開発が終わり、各区画には家々が建設されている様子が見てとれる。第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に米軍が撮影した御留山。(下) 住宅の数が、いくらか増えているように見える。
◆写真中下:上は、第2次山手空襲直前の1945年(昭和20)5月17日にB29偵察機から撮影された御留山。中は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された御留山。いまだ住宅の数は少なく、空いた敷地は畑に活用されている様子が見える。下は、1915年(大正4)の竣工直後に撮影されたとみられる相馬邸南側の「居間」(右手)で、『相馬家邸宅写真帖』(相馬小高神社宮司・相馬胤道氏蔵)より。
◆写真下:上は、丘上から弁天池へと下る広大な芝庭の現状。中は、谷戸の谷底にある湧水池あたりを北側の斜面から見下ろす。下は、おとめ山公園の造成計画と進捗を伝える1967年(昭和42)10月26日発刊の「落合新聞」Click!。