これまで、第三文化村Click!の下落合1470番地に建っていた「目白会館・文化アパート」Click!については、1931年(昭和6)に同アパートへ引っ越してきた作家・矢田津世子Click!や、下落合623番地にあった自宅Click!の基礎がシロアリにやられて土台の再構築のため一時的に仮住まいをしていた洋画家・曾宮一念Click!とその家族たち、独立美術協会の洋画家・本多京Click!、落合地域を転々としていた作家・武田麟太郎Click!などとともにご紹介してきた。
そして、もうひとり龍膽寺雄(龍胆寺雄/りゅうたんじゆう)が「目白会館」に住んでいたことを、先日のコメント欄でmoicafeさんClick!よりご教示いただいた。さっそく教えていただいた、1979年(昭和54)に昭和書院から出版されている龍膽寺雄『人生遊戯派』を参照してみた。同書の中で、「目白会館」という名称は随所に登場するが、同アパートの様子が詳しく記されているのは「私をとりまく愛情」と「高円寺時代」の2編だ。龍膽寺雄が下落合に住んだのは、「高円寺時代」によれば1928年(昭和3)6月から1930年(昭和5)6月ごろまでの2年間ということになる。
すなわち、1928年(昭和3)ごろといえば、第三文化村の「目白会館・文化アパート」は竣工して間もないできたてのころだと思われ、龍膽寺雄は新築のアパートに引っ越していなければおかしなことになる。ところが、龍膽寺が借りた部屋には先住者の遺物があって、彼が入居したのはそのあとなのは文章からも明らかだ。また、彼は「目白会館」のことを民営アパートとしては、東京で「確か最初のもの」と書いている。1928年(昭和3)ごろに建設されたとみられる、第三文化村の「目白会館・文化アパート」が東京初の民営アパートだったとは考えられない。民営(個人経営)のアパートは、大正期から東京府内ですでに建設されていたはずだからだ。換言すれば、そこそこ“歴史”が感じられるアパートに龍膽寺は入居した……と解釈することもできる。
第三文化村に建っていた目白会館・文化アパートと、龍膽寺雄が書く「目白会館」の様子が一致しないのだ。以下、『人生遊戯派』から引用してみよう。
▼
目白会館は、東京で民営のアパートとしては、確か最初のもので、かれこれ二十室はあるコンクリートの二階建てだった。共通の応接間が二階の中央にあり、その隣りの、六畳と四畳半位の控えの間つきの二間を、私は借りた。/階下に広い食堂があり、別に、共同浴室や玉突き室、麻雀室が付属し、二階の屋上は庭園風になっていた。部屋が満員になったので、二階の中央の共通の応接室を、そのまま洋間として、その頃目白の川村女学院で絵の先生をしていた洋画家の佐藤文雄が、そこに住みついてしまっていた。私の処女出版の、改造社版『アパアトの女たちと僕と』に、美しい装釘をしてくれた。/この目白会館の管理人がも下妻の旧藩主の血筋にあたる井上某だったのは、名乗りあってそのことを知って驚いた。一万石の殿様の裔だから、子爵のワケだったが、窮乏し零落して、下館藩主の石川のように、華族の礼遇を停止されていた。先代のほうの、柳原家から妻を迎えて、一緒に目白会館の粗末な管理人室に所帯を持って住んでいたが、こちらは、柳原二位局の家系だから、天皇家の側近のはずで、有名な柳原白蓮なども、近い血筋のワケだった。いかにもそういう家柄のお姫さまといった、気品のある、弱々しい感じの美しい女性だった。
▲
もし、龍膽寺雄の記憶に誤りや錯誤がないとすれば、これは第三文化村西端の下落合1470番地に建っていた、のちに矢田津世子や武田麟太郎、本多京たちが住み、また曾宮一念が仮住まいすることになる目白会館・文化アパートのことではなさそうだ。どこか、同じ下落合エリアの近くにあった別の「目白会館」のことだろう。
まず、第三文化村の目白会館は、1938年(昭和13)作成の「火災保険図」(火保図)によれば、屋根はスレート葺きで外壁が防火仕様(おそらくモルタル塗り)の木造2階建てのアパートで、鉄筋コンクリート建築ではない。また、空中写真にとらえられた目白会館を観察すると、やや鋭角に尖がった三角屋根の造りをしており、その傾斜面には2階の各部屋の窓が突きだした屋根窓(ドーマー)が並び、どう見ても屋上庭園は存在していない。さらに、貸部屋が20室(ワンルームではなく6畳+4畳半の2室構成の部屋もあった)のほか、共有部分の応接室やホール、食堂、キッチン、各種ゲーム室、浴室などを入れて想定すると、第三文化村に建っていた目白会館よりも少し大きめな建物を連想してしまう。下落合1470番地の目白会館と、龍膽寺雄が住んでいた「目白会館」には、少なからぬ齟齬をおぼえてしまうのだ。
つづけて、『人生遊戯派』の「私をとりまく愛情」から引用してみよう。
▼
目白会館で最初に書いた作品が、『アパアトの女たちと僕と』だった。これらはもちろんフィクションだが、慶応(ママ)の医学部の学生が主人公で、その学生々活は、経験した通りのことを書いた。友人の藤井真琴などがモデルになった。(中略) 目白会館は、下落合にあったので、そこから目白通りを抜けて山手線の上を通り、学習院や目白女子大の前を通って目白台の坂を降りると、そこに佐藤春夫の家があるので、一週間に一遍は、佐藤春夫の家を訪ねた。/佐藤春夫は『放浪時代』のような作品を十篇書いたら、君は文豪だョ、と褒めてくれたが、『アパアトの女たちと僕と』のほうは、谷崎潤一郎ほどは買ってくれなかった。
▲
これを読むと、どう見ても「目白会館」は下落合の町内に建っていなければならず、目白通りを東へと歩き「目白台の坂」へ、すなわち広大な旧・山県有朋邸(元・藤田邸→現・椿山荘Click!)前から新たに造成されて乗合自動車(バス)Click!の走る通りとなっていた、幅の広い新・目白坂へと抜ける様子が描かれている。佐藤春夫Click!の家は、下落合側から向かって新・目白坂を左へ折れた突き当たり、小石川区関口町207番地(現・文京区関口3丁目)に建っていたのは、こちらでも何度かご紹介Click!済みだ。
龍膽寺雄が、「目白会館」に住んでいたときに執筆した『アパアトの女たちと僕と』は、残念ながら「目白会館」と思われるアパートの描写がなく、新宿三越のビルがすぐ近くに見とおせる、新宿通りの裏手に建っていたアパートが舞台となっている。
さて、コンクリート造りで屋上庭園のある2階建てのアパートで、2階の中央部分にある応接間には洋画家の佐藤文雄が住みつき、目白通りもほど近い龍膽寺雄が住んでいた「目白会館」は、はたして下落合のどこにあったのだろうか? もう少し同書の、今度は「高円寺時代」から引用してみよう。
▼
目白会館では、共通の応接間は、止宿人が多過ぎてはみ出た絵描きの佐藤文雄が住みついて占領したので、なくなってしまったが、その他、玉突き場や麻雀荘があり、食堂も浴室もいっしょなので、よく気が合って、西瓜が盛んに出廻る頃には、西瓜を喰う会とか、八月の十五夜には、月見の会というようなものを、屋上庭園で催したりして、色々楽しい行事があって、管理人夫妻も、アパートの使用人たちといっしょにそれに加わった。
▲
ただし、龍膽寺雄の記憶が複数のアパートメントの思い出と錯綜しており、またコンクリート造りと見えていた意匠が、実はラス貼りモルタル塗りの外壁だったりすると、屋上庭園の記憶を除けば下落合1470番地に建っていた目白会館・文化アパートへ、限りなく近づくことになる。
だが、こちらでも以前にご紹介した、目白駅近くの女性が集う文化アパートの写真Click!にも見られるとおり、当時は「目白」を冠した同様の文化アパートが、各大学も近い下落合界隈にはいくつか存在していたと思われる。だから、コンクリート造り(セメント混じりのラス貼りモルタル造りのこと?)で2階建ての、おそらく大正後半に建てられた東京初の民間アパート「目白会館」が存在していても、なんら不自然ではないのだが……。
◆写真上:下落合1470番地に建っていた、目白会館・文化アパート跡の現状。
◆写真中上:上は、日米開戦直前の1941年(昭和16)の斜めフカンから取られた空中写真にみる目白会館。三角の屋根に、いくつかの屋根窓(ドーマー)が確認できる。中は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された同館。下は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された同館。目白会館あたりを境に、いまだ第三文化村の家々が焼け残っているのが確認できる。
◆写真中下:上は、1935年(昭和10)作成の「淀橋区詳細図」に採取された目白会館。中は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる目白会館。同図の凡例によれば、「スレート葺き屋根で防火対策済みの木造住宅」ということになる。下は、昭和初期に撮影された龍膽寺雄と正子(魔子)夫人。
◆写真下:上左は、1930年(昭和5)に下落合で書かれた龍膽寺雄『アパアトの女たちと僕と』(改造社)で、装丁は「目白会館」の応接間で暮らしていた洋画家・佐藤文雄。上右は、1979年(昭和54)出版の龍膽寺雄『人生遊戯派』(昭和書院)。中は、昭和初期に神田区へ建設された民間アパート「西神田アパート」。鉄筋コンクリート建築のように見えるが、防火仕様のラス貼りモルタル塗装仕上げによる木造2階建てアパート。下は、管理人受付から奥へと廊下がつづく玄関ホール。