1868年(慶応4)の2月、目白は雑司ヶ谷鬼子母神Click!近くの茗河屋に、徳川三卿のひとつ一橋家の家臣・渋沢成一郎(渋沢栄一の兄)らが呼びかけて、幕府の旗本や御家人たちが参集した。集会では大将頭取に渋沢成一郎を、副頭取には天野八郎をすえ、隊員を一番隊から十八番隊まで分けて、部隊の総称を「彰義隊」Click!と決定している。一隊が50名なので、この時点ではおよそ1,000名近くの幕臣が集まったことになる。
のちに彰義隊は、大江戸市中の警備・巡察を勝安房守Click!から正式に命じられ、隊員は3,000名にふくれあがった。でも、市街各地で略奪や暴行、辻斬り、強盗などアルカイダ型市民無差別テロをはたらく薩長軍と頻繁に衝突し、ついには全面対峙の様相をおびていく。江戸市中には(明治期の東京になってからも)、さっそくあちらこちらに無数の狂歌が張り出された。「京錦(きょうにしき)東へ来ては色もさめ これから先は二束三文」、「かご(鹿児)を出ておのが音を張る轡虫(くつわむし) いまに武蔵の露と消えなん」・・・etc.。わたしの世代さえ、これらの狂歌を10や20は挙げることができる。江戸東京市民の明治政府に対する抵抗Click!や取り返しのつかない反感Click!は、おそらく会津以上に強烈で根強く、見方によっては最後まで残った薩長軍閥が破産して露と消えた1945年(昭和20)8月15日以降も、少なくとも親の世代Click!まではつづいていた。
このあたりの経緯は、江戸市内における反薩長勢力をあぶり出すための、薩長軍による意図的なテロ・挑発行為の要素も、多分に含まれていただろう。だが、彰義隊の装備は昔ながらの刀と鑓がメインで、最新兵器で武装した薩長軍には到底かないそうもなかった。彰義隊の隊員たちが、大江戸近郊へ頻繁に姿を見せるようになるのは、そんな時期のことだ。
隊員たちは数人でチームを組み、近郊農家を訪ねては物資の調達にまわって歩いた。中でも、使わなくなって廃棄された穴の開いた鉄製の古鍋や古釜、納屋にしまわれていた古い農機具などを、「公方様の鉄砲玉を造るのだ」といっては供出を求めていった。落合地域にも何回か訪れ、古鉄を回収していったようだ。このとき、調達にやてきた隊員たちは礼儀正しく、人品人柄も卑しくなくて村々では丁重に一行を迎え、古鉄や古材の回収に協力している。
しかし、彰義隊の所帯が大きくなるにつれ、不良御家人やもともと幕臣ではない不平浪人、博徒などが混じりはじめると、隊員の質は目に見えて落ちはじめたようだ。上野の山にたてこもって、薩長軍との最終的な全面戦争がはじまると、そのような不良隊員はさっさと逃げ出すか、初期の戦闘に加わるか加わらないうち早々に「落ちのび」ていった。下落合村や上落合村では、敗走する彰義隊の隊員たちがたびたび通過し、村の若い男たちは彰義隊に徴兵されるというウワサも立って、村民は農作業も手につかずに戦々兢々としていたらしい。
当初は、いちおう礼儀正しい旧・幕臣たちなので、村々の名主宅で休息させては食事を給し、田無方面へと落ちのびるのを助(す)けていたようなのだが、質の悪い隊員の中には村民に乱暴や狼藉、略奪を平然と働く連中もいて、近隣の村々では大急ぎで対策を迫られることになった。
そのような無法者が現れた場合の措置として、1861年(文久元)6月に江戸近郊の村々へ幕府より通達された「御触れ」に論拠を求め、村内に侵入した害悪をもたらす無法者に対しては、付近の村々も含めた村民が一致協同で対処し、場合によっては打ち伏せてもかまわない・・・とする内容ものだ。無法者の出現は、付近の村々にすばやく伝わるよう半鐘Click!の早鐘(連打)にすることも、付近の村々が集まって開いた寄り合いで取り決められた。
上野戦争Click!からしばらくして、新井薬師Click!の門前に見世を開いていた腰掛茶屋で、身なりから彰義隊の残党と思われる2人組が食事をした。ふたりは飯代を払おうとせず、そのまま立ち去ろうとしたので店の亭主がとがめると、逆に亭主をさんざん脅して茶屋を離れた。まさか、7年前に幕府が発令した「御触れ」が、そのまま近郊の村々で活きているとは知らなかったのか、あるいは世情騒然としていた当時、そのぐらいのことで大事になるとは考えてもみなかったのか、はたまた幕府領の農民が幕臣を助けるのは当然と横柄にかまえていたものか、このふたりは大まちがいをしでかしてしまったことになる。特に、茶屋の亭主を脅迫したのがいけなかったのだろう。
さっそく、新井村をはじめ付近の村々では早鐘が鳴りはじめ、ふたりは近くから駆けつけた村民に取り囲まれてしまった。そこで、素直に謝ってさえいれば大事にはならなかったのだろうが、マズイことに刀を引き抜いて村民を脅し包囲を突破したらしい。彼らは西へは逃げず、東の上高田村から下落合村方面をめざして逃亡した。
ふたりが彰義隊の隊員であれば、残党の探索がきびしい江戸市中へと近づく東ではなく、西へと逃げのびるのが自然なのだが、なぜか、もと来た道(新井薬師道=中ノ道Click!)を引き返しはじめたらしい。深読みすれば、このふたりは「彰義隊」を看板にすれば近郊で優遇されるとでも聞きかじった、隊員を装う食いっぱぐれの浪人だったのかもしれない。真相はやぶの中なのだが、村民を甘く見くびった彼らに非があるのはまちがいないだろう。
下落合方面へ逃げたふたりは、途中で早鐘を聞いて駆けつけた東隣りの上高田村の村民たちと、道ではち合わせしてしまう。彼らは、焦って江古田村へと向かう街道を左へ折れたが、ふたりを追いかける村民の数は増える一方だった。やがて、下落合村の葛ヶ谷(現・西落合)にある四村橋Click!あたりで、再び付近の村民たちに包囲されてしまった。このときは、急を聞いて駆けつけた下落合村の村人たちも加勢していただろう。
ふたりの武家は抜刀しているので、村人を斬ろうとすると包囲の輪が拡がり、逃げようとすると輪がちぢまるといった具合で、にっちもさっちもいかなくなってしまった。そこへ、ハシゴを持ってきた村民たち(おそらく村の火消役Click!だろう)がいて、ふたりの武家をハシゴ伏せにしてようやく制圧した。村民たちは容赦なく、このふたりを打(ぶ)ち殺して遺体を現場の四村橋近くに埋めた。
通常、無銭飲食ほどの軽微な“無法”なら、取り押さえたあと最寄りの番屋へ人を走らせ、引きわたすのが筋なのだろうが、このときはあまりにも時期が悪すぎた。おそらく、彰義隊の残党が次々と村内を通過し、村民たちはあらぬウワサにも振りまわされて、強い不安感にかられていた。幕府が消滅したあと、自分たちの行く末さえ見えず焦燥感にかられてもいたのだろう。ふたりの武家の無銭飲食と茶屋亭主への脅迫は、マッチをすって“火薬庫”へ投げこむような行為だったにちがいない。
◆写真上:現在は南千住の円通寺に移築されている、弾丸の貫通孔があちこちに残った上野・寛永寺の黒門。例によって、わたしの正面に大きなマリモ君Click!がひとつ出現している。
◆写真中上:上左は、上野戦争で戦死した上野山にある彰義隊の墓標。上右は、当時は最新だったスナイドル銃の威力はすさまじく、弾が黒門の分厚い部材をたやすく貫通している。下は、上野戦争直後に撮影された寛永寺の境内。薩長軍の放火で、伽藍の多くが焼失している。
◆写真中下:左は、新井薬師の山門脇にある地蔵堂で腰掛茶屋はこの右手の参道沿いにあった。右は、明治期に撮影された腰掛茶屋で「栗めし」が名物だったようだ。
◆写真下:左は、彰義隊「残党」の2人組が逃げた下落合村へとつづく新井薬師道(中ノ道)の界隈。右は、かつて四村橋のたもとで見かけた印象深いアトリエ建築。