江戸期までさかのぼる時代、現在の住所「中井」とされるエリアは「中井村と呼ばれていた」という大正期以降の資料を見かけるが、それはなにを根拠にしているのだろうか? 「中井村」と呼ばれていたから、中井駅になったのだとされるのだが、地元の方に訊いても、「さあ……」「わからない」という答えばかりが返ってくる。
そこで、江戸時代に作成された落合地域とその周辺を記録した資料を、片っぱしから当たっていたのだが、ようやくひとつ見つけだすことができた。正確な執筆年は不明だが、1788年(天明8)に増補版が執筆・編集されている大田南畝Click!の『高田雲雀』だ。ちょうど老中・田沼意次が失脚し、松平定信が登場して幕政の改革に着手しはじめるころ、第11代将軍・徳川家斉の時代にくだんの『高田雲雀』は執筆されている。幕府の御家人だった大田南畝は、いまだ30代の若さだった。
『高田雲雀』は、南畝自身が写したとみられている国立国会図書館に収蔵されているものと、木又牛尾が1849年(嘉永2)に写し早稲田大学図書館に収蔵されている写本とが有名だが、この記事では国立国会図書館の原本に近い記述を引用していくことにする。このサイトでもご紹介している落合地域を中心に、順番にひろって見ていこう。
▼
一、砂利場町 根川原通と云小道有、上古の海道之由、いまは甚の小道也、末は七曲りより落合へ出る(中略) 一、金乗院 砂利場村、此寺の脇より、藤の森さくや姫へ出る道あり、末は七曲り落合へ出る(覃按、水戸黄門光圀卿ノ額アリ、金乗院ニアリ)/一、咲屋姫の社 祭神この花さく屋姫、俗にさくら姫の宮と云、前の坂をせいげん坂と云、浅間坂の誤りなるべし(中略) 一、藤森いなり 此辺下落合也、鼠山の末也/一、宿坂 金乗院の前の坂を云、昔此所に宿坂の関有よし、往古の鎌倉海道のよし、八兵衛といふ百姓は此時の関守の子孫なり、かの家に其時の刀其外古物多し、帳面も有となり
▲
この記述でも明らかなように、大田南畝は下高田村の一帯が地元ではないため、自身で歩いて調べたり地元の人間に取材して伝聞を記録していることがわかる。当時、南畝は牛込中御徒町(現・牛込神楽坂駅近く)に住んでいたはずであり、その周辺域を散策・取材しながら紀行文をまとめていったのだろう。
面白いのは、目白崖線の下を通る雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道)が、現在の学習院下あたりから下落合にかけて「七曲り」と表現されていることだ。確かに、南へ張りだす目白崖線の凹凸斜面に沿って街道が敷設されているため、雑司ヶ谷道(新井薬師道)はクネクネとカーブしており、「七曲り」と呼んでもおかしくない形状をしている。
また、現在は学習院キャンパス内から目白駅西側の豊坂沿いに移転し「豊坂稲荷(八兵衛稲荷)」Click!と呼ばれる社が、『高田雲雀』の時代は稲荷ではなく木花咲耶姫(咲屋姫)社、つまり富士浅間社だったことがわかる。だからこそ、『高田雲雀』が書かれる100年ほど前、徳川光圀(水戸光圀Click!)が「木花咲耶姫」の扁額を同社へ揮毫しているのだろう。そして、鎌倉街道の関守の子孫である八兵衛さんが、のちに稲荷を勧請してどうやら富士浅間社へ合祀したことから、いつの間にか江戸期の農村で重視されていた豊穣の神(稲荷)を尊重し、八兵衛稲荷と呼ばれるようになった経緯が透けて見える。
木花咲耶姫社(のち八兵衛稲荷社)は、いまだ大山Click!(大ノ山/大原山)の山麓、つまり現在の学習院キャンパス内にあり、八兵衛が住んでいたのは宿坂を下ったあたり、「根岸の里」Click!と呼ばれた武家屋敷や農家が集中していた一画だろう。
つづけて、落合地域に関連するところを、かなり省略しながら引用してみよう。
▼
南西ニ移り、/一、七曲り 西坂、椎名町、(覃按、水戸黄門常山文集、詩云落合遥指坂七曲、宝仙◇◇◇塔九輪)/落合 上下あり、下落合ニたじま橋同びくに橋此辺すべて下落合也/一、落合のはし 上宿也、少々町有(中略) 一、長久山妙泉寺 玉沢末、落合の焼場は此寺の持也 (◇は判読不明字)
▲
ここに登場している「七曲り」は、崖下を通る雑司ヶ谷道のことではなく、鎌倉時代に拓かれた切り通しである七曲坂Click!のことだ。そして、西坂Click!とともに「椎名町」の名称が登場していることに留意したい。椎名町Click!は、下落合村と長崎村にまたがる清戸道Click!沿いに形成された町名であり、現在の北に離れた西武池袋線・椎名町駅エリアのことではない。また、神田上水に架かる田島橋Click!と、北川Click!(妙正寺川)に架かる泰雲寺Click!の比丘尼橋が採取されている。
徳川幕府の行政区画である下落合村と上落合村の様子が紹介されるが、ここにも「中井村」の記述はない。「上宿」あるいは「少々町有」とされているのは、現在の七曲坂の下あたりから西坂あたりにかけ、下落合ではもっとも古くから集落が形成(出土した板碑から鎌倉期にはすでに形成)されていた、「本村(もとむら)」一帯と規定することができる。同書の後半では、「落合宿」という呼称で登場する集落も、本村を指しているのだろう。また、上落合村の火葬場が、早稲田通りから夏目坂に入って200mちょっとのところにある、妙泉寺が経営していた事蹟も興味深い。
少し余談だが、明治期になって山県有朋邸が建設される、本来の目白不動Click!が建立されていた椿山Click!(現・椿山荘Click!)のほかに、観音寺や神田上水の先として記述されている第六天社Click!、下落合村の六天坂Click!の同社が建立されている山もまた「椿山」と呼ばれていたのが面白い。この第六天社も、先の法泉寺の管理下に置かれていたようだ。つづけて、『高田雲雀』から引用してみよう。
▼
落合宿はずれ/一、落合御殿山 往古中山勘解由殿やしき跡也、上落合の部也、今は公儀より御留山となる、此山より鳴子淀橋柏木等一円にみへ絶景也/一、中井村 落合上下の間を云/一、瑠璃山薬王院 下落合村/一、落合村に尼寺と云有、此故に前なる橋をびくに橋と云(中略) 一、落合ばしの辺の螢名物也、野千螢と云、狐火程ありといふ心歟、四月の始より数多出る
▲
大田南畝が記録した時代、下落合の御留山Click!(旧・御殿山)は上落合村が管理していたのがわかる。「あまるべ」Click!の里と呼ばれた、農産物の収穫量の多い裕福な上落合村が、山の管理維持費などを捻出していたものだろう。
さて、ここで「中井村」がようやく登場している。上落合村と下落合村の間にある一帯を「云」うと書かれている。もちろん、大田南畝が当初から知っていたわけではなく、地元の人間に取材して書きとめたのだろう。だが、「中井村」は徳川幕府の行政区画として存在しているわけでなく、上落合村と下落合村にはさまれたエリアの、当時の村人による通称(俗称)であることは明らかだ。
すなわち、下落合村と上戸塚村(現・高田馬場)との間を流れる、神田上水北岸に展開した古い集落を、村内の通称で「本村(もとむら)」と呼んだのと同じ感覚だろうか。「中井村」は、下落合村西部の北川(現・妙正寺川)が流れる北岸、上・下落合村にはさまれた低地を指していたとみられる。村境のある間(中)の、湧水(井)が豊富な土地(田地)の集落という意味でつけられた可能性が高い。つまり、現在の中井駅は少なくとも江戸中期に村内で「中井村」と呼ばれた集落の近くに位置しているものだろうか?
「中井村」は、のちに町村の字名(あざな)として継承される例の多い、特定の地区を表現する地元の呼称のひとつだったのだろう。しかし、明治期に入り参謀本部が作成した地図や、郵便の発達とともに村内の小字が「住所」化される際、下落合東部の「本村」は採用されたが、西部の「中井村」は採用されなかった。なぜなら、幕末までにそのような呼称がとうに廃れていたか、「中井村」より普及して小字化された「南耕地」または「北川向」という呼称が一般的になっていたのだろう。
だが、いったんは消滅した崖線下にふられたとみられる通称「中井村」だが、大正の中期になっておかしなことが起きる。下落合でもっとも標高(37.5m)が高い、字名では「大上」と呼ばれすでに住所化もされていた地区が、いつの間にか「中井」という字名にすり替わっているのだ。江戸期からの経緯にしたがえば、「中井村」は上・下落合村の村境となる北川(妙正寺川)の沿岸でなければならず、また「井」を含む表記からも、江戸東京地方では相対的な地形から低地に付与される地名だ。だが、それがいきなり場ちがいな尾根上のピークに字名として復活している。この不自然さは、大正前期の「不動谷」Click!が西へ300m以上も移動していることも含め、なにやら地域行政(村役場)の恣意的な東京府や、国(陸軍参謀本部など)への働きかけを想起させるのだ。
大正中期における、この不可解な字名「中井」(本来は「大上」)の登場が、江戸中期の通称「中井村」の川沿いにあったとみられるエリア名(江戸後期から「南耕地」または「北川向」と呼称)と、1965年(昭和40)以来の現住所としての「中井」との間で、スッキリしないギクシャクした“混乱”を生じているようにも思える。目白崖線に住む方々にしてみれば、「なんでここが中井なんだい?」「ここは下落合で中井なんて地名じゃないよ」……と、いつまでたっても馴染めないゆえんだろう。
あえて西武線の駅名を借りるなら、現在の下落合駅があるところは本村(もとむら)エリアの直近なので「下落合本村駅」、いまの中井駅のある位置は江戸中期以前に通称「中井村」と呼ばれたらしい区画に近いとみられるので「下落合中井村駅」とすれば、少しは地名の時代的な経緯を含めスッキリするだろうか?
だが、幕府の行政区画でもなく、江戸中期以降は消滅してしまった通称(?)を、1960年代になって範囲を思いっきり拡げ、復活させる必然性や意味あいが、わたしにはまったく理解できない。そしてもうひとつ、「中井村」の由来が目につきやすい大田南畝『高田雲雀』の記述のみを根拠としているのであれば、代々地元の人々に受け継がれてきたゲニウスロキ的な側面を踏まえるとすると、あまりにも薄弱といわざるをえないだろう。
◆写真上:江戸中期まで通称「中井村」と呼ばれていたという伝承が、大田南畝によって記録された中井駅周辺。だが、江戸後期から明治期にかけては「南耕地」(下落合村側呼称)または「北川向」(上落合側呼称)が、両村では一般的な通称だったろう。
◆写真中上:上左は、早稲田大学に保存されている1849年(嘉永2)の『高田雲雀』写本。上右は、石崎融思・筆の軸画「大田南畝肖像」。中は、早大収蔵の『高田雲雀』写本の本文。下は、目白崖線の斜面に沿って蛇行を繰り返す鎌倉街道(雑司ヶ谷道)。
◆写真中下:上は、学習院の建設で金久保沢に遷移された豊坂稲荷(八兵衛稲荷)だが、元神は木花咲耶姫(咲屋姫)で富士浅間社だったことがわかる。中は、鎌倉期の切り通し工法の跡をよく残す七曲坂。下は、大雪の瑠璃山薬王院。
◆写真下:上は、1880年(明治13)に作成された参謀本部のフランス式1/20,000地形図にみる落合地域。中左は、1918年(大正7)の1/10,000地形図にみる目白崖線でもっとも標高が高い字名「大上」。中右は、1923年(大正12)の同地形図にみる「大上」から忽然と書き換えられた場ちがいな字名「中井」。下は、大田家に伝わる南畝が用いたかもしれない指料で体配から寸延び短刀あるいは脇指と思われる。江戸期の御家人としてはごく一般的な拵(こしらえ)で、持ち主はできるだけ軽量化しようと試みているのか、平造り刀身の平地(ひらじ)に護摩箸(不動明王)ではなく棒樋が入るのがめずらしい。手入れがされておらず水錆が目立つが、刃文は中直(なかすぐ)でのたれ気味とかなり平凡だ。
↧
南畝の『高田雲雀』にみる通称「中井村」。
↧