下落合に化学研究所を開設し、科学とキリスト教の教義を強引に融合させようとした人物がいる。1924年(大正13)に大学の教授を辞職し、下落合482番地へ佐藤化学研究所を設立した工学博士・佐藤定吉だ。徳島県出身の佐藤定吉は、東京帝国大学工科へ入学したあと本郷の弓町本郷教会で洗礼を受け、1912年(明治45)に同大学を卒業すると、翌々年に東北帝国大学に勤務しはじめている。
佐藤定吉が佐藤化学研究所を創立したのは、1923年(大正12)ごろとみられ、1924年(大正13)3月に東北帝国大学の教授を辞める以前から、下落合で起業していたらしい。なぜなら、1923年(大正12)9月の関東大震災Click!のとき、同研究所の薬品類の容器が破壊され化学反応を起こして発火し、落合地域ではほとんど見られなかった火事騒ぎを起こしているからだ。この火災は拡がらずに、ボヤで消し止められている経緯は、以前に書いた同志会Click!の物語でご紹介Click!している。
また、1925年(大正14)に作成された「出前地図」Click!には、同研究所が「佐藤化学工業研究所」のネームで採取されている。そして、同年制作の「大日本職業別明細図」の裏面には、同研究所の小さなマス目広告が掲載されているが、そこでは「佐藤化学研究所」となっているので、後者が正しい名称だったのだろう。翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にも、下落合482番地に同研究所が採取されている。以降、佐藤定吉は1945年(昭和20)4月の空襲まで下落合に住んでいたとみられるが、『落合町誌』(1932年)の「人物事業編」には、残念ながら収録されていない。また、ほかの地元資料でも、佐藤定吉について触れた記述をほとんど見かけない。
佐藤定吉が科学者としての生き方から、急速に宗教者への道を歩みはじめたのは、1924年(大正13)8月の五女の死去がきっかけとなったようだ。1926年(大正15)に、佐藤化学研究所内へ「産業宗教協会」を設立して、月刊雑誌「科学と宗教(Science Religion)」を発行しはじめている。つづいて、1927年には「イエスの僕(しもべ)会」運動を組織して、娘の死から“召命”を受けた「全東洋を基督へ」の布教活動を実践している。彼の布教活動は、日本全国をはじめアジア各地や米国にまで及び、精力的な布教活動をつづけていく。さらに、1928年(昭和3)からは「科学と宗教」に加え、月刊誌「晩鐘」を刊行している。
室町時代末期に来日した宣教師が聞いたら、泣いて喜びそうな「全東洋を基督へ」のスローガンだが、佐藤定吉の言葉を1929年(昭和4)に発行された「科学と宗教」4月号から引用してみよう。ちなみに、同誌は定価20銭で全国の会員へ通信販売されている。
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是迄我々が考へ来つた光は、通常二種類に分けられる。即ち我々の視覚に映ずる普通の可見的光と、又紫外線、赤外線、X光線の如き不可見の光とである。然しながら光は単に視覚や触覚で知り得られるもののみではない。其処には第三の種類のものがある。即ち我々の心のみに感ずる霊の光である。我々が此の光を暗い心に感ずる時、心の中に或る明るさと温さとが与へられてくる。そして其の生活全体が何となく明るい光の中に包まれてゐる様に感ずる。此の光は物理学的には未だ説明されてゐないけれども、我々の体験は明かに是を立証する。(中略) 目には見えず、手には触れ得ないけれども、心に明るさと温さとを感ぜしめる此の光―霊光―は、我等の日常生活に於いて常に経験する事である。我々が親しい者と会つた時は、例へ暗黒の中でも心の中には明るさを感じ、温さを覚えてくる。これは明かに我々の霊に感じて其の生活全体を明るくする霊光の存在する事を意味してゐる。(中略) 宇宙一切の森羅万象は、神の霊波の一元より出づる特殊顕現相なる事を発見するであらう。即ち我々の心に感ずる霊的波動が、一切の根源になつてゐる事が察せられる。
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「暗闇で友人に出会ったら、誰だって安心してホッとするだろ!」と、誰かさんのような突っこみを入れてはならない。そういう人は、「イエスの僕会」には入れないどころか、「霊光」や「霊波」の存在がわからない迷える人にされてしまう。
引用箇所に限らず、佐藤定吉の文章は“論理の飛躍”が多くてついていけない。だが、彼の周囲には若者たちを中心に、数多くのシンパが集まってきていたようだ。これらの若者たちとともに、佐藤定吉は汽車に揺られながら全国を布教行脚することになる。行く先々では、「科学と宗教」の購読者=会員が鉄道駅まで出迎え、彼は学校や各種施設などで講演会をこなしていく……という布教スタイルができあがった。
「科学と宗教」には、その布教行脚の様子が日記形式で記録されている。上掲の同誌4月号には、外国への布教活動は「聖戦記」、国内のそれは「伝導随行記」といったタイトルで、信者たちのレポートが掲載されている。その中から、目加田光という人物が書いた文章を引用してみよう。
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別れは惜しい、併し聖戦に出陣する若武者の胸はたゞ歓喜に慄く。出陣の快味若武者にこそ特別に恵まれる。緋縅しの鎧に戦場を駆け巡つたのは戦国時代の夢ではない。人々よ視よ、我が全国に居る同志の若武者を。/彼等の弦を放れ飛ぶ石打の征矢を!/彼等の美事な太刀筋を!/身命を屠して祖国の救ひの為に! 名か、我れ之をとらじ。地位か、我が欲するところならず。只管に祖国の救を祈りての力戦を人々よ知らざるや。自分の魂は長崎へ飛ぶ。八月以来孤闘無援猶死守して斃れざる同志の上に『今暫く待て、先生と俺とが行くぞ!偕(とも)に偕にやらうぞ』『斃れるなら俺達も偕にだ、勝利を祝ふ時まで、常に主偕に在り、必勝だ、暫く支へよ』(中略) 凡てを御意のまゝ為し得給ふ神よ。此の更生を我が祖国に与え給へ。三千年の歴史は老ひぬ、けれども三千年貫いて流れる大和魂を、物質文化より祓いて燃え立たせ給へ、東洋の島帝国、特殊の使命はその上にあり。愛と義と堅く執りて一点の汚れない光栄ある歴史の我が祖国よ、我々の時代に祖国危しとの声を聞かば何の面目あつてか地下の故老に見えん。/神よ我らの祈りに聞き給へ。
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伝導レポートには、まるで今日のアルカイダやISのプロパガンダのような熱狂的な文章が踊っている。そこからは、多くのキリスト教を信じる人々から感じる敬虔な謙虚さや柔軟さが、みじんも伝わってこない。彼らは、自身が信じるキリスト教のためには、斃れるのも辞さず情熱的かつ挺身的な布教活動を展開し、「全東洋」のキリスト教圏化へ向けてエキセントリックな「聖戦」を闘っていたのだろう。
すでにお気づきの方も多いと思うが、「全東洋」や「聖戦」、「大和魂」、「帝国」などという言葉が臆面もなく踊る宗教(思想)は、のちに破滅した大日本帝国の「大東亜共栄圏」を叫ぶ、軍国主義の「亡国」思想ときわめて近似している。案のじょう、日中戦争が激化するにつれ、佐藤定吉と彼の信者たちはキリスト教徒にもかかわらず、容易に大日本帝国の「皇国主義」やファシズムに迎合・一体化し、「イエスの僕会」を解散して「皇国基督会」とまで名乗るようになった。
戦時中は、ほとんどのキリスト教団体が大なり小なりファシズム政府や軍部からの迫害、拡大する戦争に抗して、憲兵隊Click!や特高警察Click!から目の敵にされ弾圧を受けつづけたのに対し、「皇国基督会」はそれとは対照的な活動をつづけ、「大東亜“教”栄圏」でもめざしていたものだろうか。
科学はもとよりキリスト教の「神」の存在と、「キリスト」の教えやその事蹟と、「現人神」である天皇と、国家御用達の宗教である「伊勢神道」と、わけのわからない規定不能な「大和魂」や「神風」などと、どのような折り合いをつけて科学的かつ宗教的な整合性や統一性を保とうとしていたものか、前述の「科学と宗教」から類推するならば、心の「霊光」と宇宙の「霊波」のなせるワザだったのかもしれない。
1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、下落合482番地の佐藤化学研究所(皇国基督会本部)は全焼・壊滅した。この時点で、佐藤定吉の熱狂的な伝道活動はついに終焉をみたのだろう。戦後、他のキリスト教の団体や信者たちからの総批判をあびる以前に、同研究所も皇国基督会も期せずして雲消霧散しているようだ。
◆写真上:下落合482番地にあった、佐藤化学研究所(佐藤定吉邸)跡の現状。
◆写真中上:上左は、1925年(大正14)の「出前地図」(北が下)に収録された同研究所。上右は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる同研究所。向かいの長坂長邸Click!は駿豆鉄道取締役で、少し前まで箱根土地の堤康次郎邸Click!だった。中は、1925年(大正14)作成の「大日本職業明細図」裏面に掲載された同研究所の広告。下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる佐藤定吉邸(佐藤化学研究所)。
◆写真中下:上左は、1929年(昭和4)に産業宗教協会から発行された「科学と宗教」4月号。上右は、同号の裏面に掲載された佐藤定吉の著作広告。下左は、1924年(大正13)に厚生閣書店から出版された佐藤定吉『人生と宗教』。下右は、1926年(大正15)に産業科学協会から刊行された同『生命の本流』。
◆写真下:上は、1925年(大正14)の同志会名簿(第1区)に掲載された佐藤定吉。中左は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された空襲直前の佐藤化学研究所。中右は、同年4月13日夜半の空襲後に撮影された同研究所跡。コンクリート建築だったらしく、全焼しているようだが外壁が残っているのが確認できる。下は、佐藤化学研究所とほぼ同時期に下落合へ設立された池田化学工業Click!の広告写真。豊菱製氷工場Click!側の建屋から北東を向いて撮影しているとみられ、奥に写っているのは線路土手を走る4両編成の山手線。西武鉄道による土地買収が進んだのか、池田化学工業の北側は空き地がつづいているのがわかる。
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「大和魂」で「聖戦」の佐藤化学研究所。
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