1932年(昭和7)に東京35区制がスタートすると、当時のメディアでは新たに東京市へ加えられた20区の紹介が盛んだった。前回の記事Click!では、新たに誕生した20区紹介のプライオリティや観光・散策に出かける際の「名所」などをご紹介したけれど、きょうは1933年(昭和8)に博文館から出版された『大東京写真案内』を中心に、35区のどのような街並みや「名所」が紹介されているのかを見ていこう。
もっとも、35区すべてについてご紹介するわけにはいかないので、ここは落合地域のある現在の新宿区エリア、すなわち「淀橋区」「牛込区」「四谷区」の3区について、どこが取り上げられ、なにがアピールされているのかを見ていきたい。同3区は、戦後の1947年(昭和22)5月に合併して、東京22区(8月には23区)がスタートするのだけれど、本来はかなり風土や気質、文化などが異なる地域同士だった。
3区の合併にあたり、「早稲田区」(明治期からのネームの知名度からか)、「戸山区」(1000年以上前の平安期からの和田氏Click!による事蹟からか)、「武蔵野区」(一般に広くつかわれた郊外名称Click!からか)などいくつかの区名プランが出ているが、牛込区とともに当初から東京15区のひとつであり、もっとも繁華で市街地化が進んでいた四谷区の江戸期宿場町の事蹟にちなんだ、内藤家下屋敷に由来する「内藤新宿(ないとうしんしゅく)」Click!が注目されたのは自然なのだろう。
この宿場町名から、松平系大名の「内藤」を取り去って「新宿(しんじゅく)」と濁った発音にしたのも、新しい地域名としてのオリジナル感があって秀逸なネーミングだと思う。もともと性質や歴史的な経緯が異なる3区を統合したのだから、どこの地域をもイメージさせない架空の名称が必要だったのだろう。それほど、この3区は歴史的な経緯や風土・文化も異なっていたように思える。
では、江戸期の宿場町から拓け千代田城の外濠に隣接する、旧・乃手Click!の四谷区から見ていこう。四谷区は、千代田城の四谷見附Click!と甲州街道の内藤新宿を中心に栄えた街で、区内には神宮外苑や新宿御苑Click!(内藤家下屋敷)を抱える江戸市中のころから有名なエリアだった。したがって、『大東京写真案内』で紹介される「名所」も、江戸期の事蹟にちなんだ場所が多い。同書では「四谷見附附近」「お岩稲荷」「新宿御苑」、そして江戸期に移植された神宮外苑に生える「なんじゃもんじゃの木」「神宮プール」「神宮競技場」「神宮球場」など10ヶ所が取り上げられている。
400年ほど前、尾張徳川家Click!が同地に移植した“なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)”が、なぜことさら取り上げられているのかは不明だが、「四谷見附附近」の写真に添えられたキャプションから引用してみよう。
▼
四谷見附附近
往年四谷門のあつたのがこの辺り、今はその桝形の跡をとり除いて、石畳だけが僅かに遺つてゐる。麹町をよぎる甲州街道は、この見付(ママ)を過ぎて四谷区を東西に横断、内藤新宿の追分で青梅街道と分れる。見付から新宿に至る一帯は震災後飛躍的発展をとげた商業区域、交通の頻繁な点から云へば、正に都下随一であらう。
▲
この文章は、東京都庁が淀橋に移転してきて以降、そのまま「新宿区」にも当てはまる表現だろう。このほか、四谷区では慶應大学の大規模な「慶應病院」と、映画館街の代表として「帝都座」が紹介されている。慶應病院については、「流石金に絲めをつけず建設された私立病院の雄、外観設備共に完璧」と皮肉まじりのキャプションが添えられ、同病院の空中写真が掲載されている。
次に牛込区の「名所」も、江戸期以前からの歴史をベースにした場所が並んでいる。四谷区と同様に、千代田城の外濠に面した街だからだろう。「市ケ谷見付と牛込見付」(ママ)をはじめ、「築土八幡」「関孝和の墓」「市ケ谷八幡」などの5ヶ所。明治期由来のものは市ヶ谷の「陸軍士官学校」で、大正末から拓けた場所として「神楽坂」が紹介されている。同様に、キャプションから引用してみよう。
▼
市ケ谷見付と牛込見付(ママ)
市ケ谷見付――外濠一つ挟んで、向側が麹町区こちらが電車線路に沿つたいさゝか古風な市ケ谷の片側商店街、近くに市ケ谷八幡や士官学校がある。この見付から飯田橋寄りにあるのが牛込見付、山の手第二の盛り場神楽坂を控へて、ラツシユアワーの混雑はめまぐるしいが、こゝの外濠の貸ボートは、都心に珍らしい快適な娯楽機関である。
▲
1933年(昭和8)現在、「山の手第二の盛り場」が神楽坂であり、「第一の盛り場」が新宿駅東口(駅前通りClick!=新宿通り)だった時代だ。いまだ渋谷も池袋も、駅前から住宅街が拡がり「盛り場」としてまったく認識されていない。また、数ある江戸期に由来する墓所の中から、なぜ算学者の関孝和だけが選ばれて掲載されているのかが不明だ。
つづいて淀橋区、つまり現在の新宿区の中枢部にあたるエリア紹介では、今度は江戸期以前に由来する「名所」がただのひとつも紹介されていない。ピックアップしようと思えば、東西の大久保地域や百人町、尾張徳川家の戸山ヶ原Click!、神田上水の淀橋Click!に玉川上水、高田八幡(穴八幡Click!)に成子天神Click!、皆中稲荷Click!、角筈十二社Click!、西向天神Click!、鎧社Click!、花園社……と史跡や物語にはこと欠かないはずなのだが、なぜか明治以降の街並みや施設しか掲載されていないのだ。
ちなみに、紹介されている写真は「淀橋浄水場」Click!をはじめ、「早稲田大学」Click!(大隈講堂Click!)と同大学の「演劇博物館」Click!、「新宿駅」Click!と「新宿駅前通り」Click!、そして「カフェー街」となっている。つまり、昭和初期の段階から淀橋区=新宿駅とその周辺は繁華街や歓楽街、公共施設(各種インフラ)などのイメージであり、多種多様な歴史や文化の面がすっかり置き去りにされる……という現象が起きていたのがわかる。同書の、新宿駅周辺に関するキャプションから引用してみよう。
▼
新宿駅前通り
都心から放出する中産階級の人々の関門であり、享楽地であるのがこの一帯。震災後山の手銀座の名称を神楽坂から奪ひ、一日の歩行者三十萬、自動車が四萬台。三越、二幸をはじめ大小の商店が軒を並べ、その裏街はカフエとキネマと小料理やが、雑然と立並ぶ帝都有数の享楽街。
カフエー街
近年新宿カフエー街の発展はすばらしいもので、新宿の裏手及び東海横丁等断然圧倒的に他の地区の追随を許さない。
▲
この傾向は1980年代までつづき、新宿区=ビジネス街+歓楽街のイメージから、容易に抜け出すことができなかった。また、新宿区の行政自体もそれで満足し、ことさら歴史や文化について丹念に掘り起こしたり、記念物や文化的リソースをていねいに保存する積極的な努力をしてこなかったように見える。
その流れのターニングポイントとなったのが、1989年(昭和64)に設立された新宿歴史博物館Click!あたりだろうか。これは、翌1990年(平成2)に東京都庁が新宿駅西口へ移転することが見えていたため、「都庁のある地域が歓楽街のイメージのままじゃ、ちょっとマズイじゃん」という行政の意識が、少なからず働いたせいなのかもしれない。以降、相変わらずビジネス街や繁華街の印象は残しつつも、21世紀に入るとかなり異なる地域の側面がクローズアップされてきた。
1933年(昭和8)の当時と、今日の文化面におけるさまざまな掘り起こしなどの成果を含め、おそらく四谷地域や牛込地域、そして淀橋地域ともども新宿区として取り上げられる「名所」は、その思想的な背景や行政の視点とともに激変していることだろう。もはや、「山の手銀座」などとは誰も呼ばなくなり、銀座とはまったく異なる新しい時代のアイデンティティが形成できるほど、23区内でも独自の風土や街並みを形成している。
◆写真上:内藤清成が家康から、白馬で駆けまわった範囲を下屋敷地として与えるといわれた伝説が残る内藤町。多武峯内藤社には、いまも白馬像が安置されている。
◆写真中上:四谷区の風景で、上から下へ四ッ谷駅前の四谷見附橋、信濃町駅前の慶應病院、内藤家下屋敷の新宿御苑、キネマの帝都座、神宮球場、国立競技場(工事中)になった神宮競技場、そして神宮外苑の聖徳記念絵画館。
◆写真中下:牛込区の風景で、上から下へ現在でもボートが浮かぶ牛込見附、左手が釣り堀になる市ヶ谷見附、市ヶ谷台にあった陸軍士官学校。下左は、1933年(昭和8)出版の『大東京写真案内』(博文館)で、表紙が日本橋なのがうれしい。下右が、東京都の時代遅れな都市計画について書かせていただいた『建築ジャーナル』2017年4月号。
◆写真下:淀橋区の風景で、上から下へ淀橋浄水場の濾過池と沈殿池、3代目・新宿駅、新宿通りとなった新宿駅前通り、早稲田大学の大隈講堂と演劇博物館。