戦前から戦後にかけ、オシャレな本の装丁や挿画、ファッションデザインを手がけた人物に、下落合に住んだ松井直樹がいる。彼が下落合に引っ越してきたのは、1933年(昭和8)ごろのことだが、大正末から落合地域には頻繁に足を向けており、マヴォやダダイズムの関係者が集っていたバー「アザミ」Click!のこともよく知っているようだ。
吉行エイスケの妻・吉行あぐりClick!が経営していたバー「アザミ」は、平仮名で「あざみ」と表記していたと思っていたが、松井直樹をはじめ他の資料では「アザミ」とカタカナ表記のものも少なくない。どちらが正確な表記かは不明だが、仮名表記が一定しないところをみると看板が「AZAMI」と、ローマ字表記だった可能性もありそうだ。
当時の松井を含む、先端の美術やデザインに惹かれていた若者たちは、銀座で飲んだあと六本木のバーに流れ、そこから東中野駅へとやってくるのがひとつの“お決まりコース”だったらしい。西武電鉄Click!が存在しない当時、上落合へと出るには東中野駅から北へ600mほど歩かなければならなかった。
当時の様子を、1962年(昭和37)6月10日発行の「落合新聞」Click!に掲載された、松井直樹のエッセイ『落合あのころ』から引用してみよう。
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銀座のバーで酒をのむと、六本木からはるばる東中野まで流れていったものだ。東京にバーというものの少なかった頃で、銀座のほかにはこの二つの地区にしゃれたバーがあったからだ。/東中野駅におりたつと、あのころなにか、急に空気が明るくなって、光と風が澄み切ってさわやかだった。一九二〇年代の先鋭的な新風が吹いていた。ユーカリだのアザミだのという店があって、そこいらを中心に当時のヌーベルバーグはとぐろを巻いていた。村山知義氏が、意識的構成主義を独逸からもちかえり、マヴォの運動をはじめたのもあの頃で、彼のアトリエは上落合にあった。あのころは六本木族だの落合族だのといわなかったが、あのころの落合界隈は、たしかに当時のもっとも前衛的な画家や文人の巣窟だった。
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バー「アザミ」は、東中野駅の北側=上落合側にあり、バー「ユーカリ」は駅の南側に開店していたようだ。この“アヴァンギャルド”な2店は、大正末の「大日本職業明細図」あるいは昭和初期の「便益明細地図」を参照しても採取されていないので、ほんの短い期間しか存在していないのだろう。
松井直樹が下落合へと転居してくるのは、上落合に住むプロレタリア美術家や作家たちの運動が、特高Click!の弾圧で壊滅状態となった1933年(昭和8)ごろだった。彼はそのころ、宇野千代Click!が編集していた雑誌「スタイル」の装丁や、彼女が書く小説の挿画を担当していた。だが、「スタイル」は赤字つづきで資金繰りがきびしく、共同編集者である彼の給与も滞りがちだった。松井は社長の宇野千代を引っぱりだすと、ふたりで落合地域を頻繁に訪れるようになった。
当時、下落合2108番地に住んでいた吉屋信子Click!や落合2133番地の林芙美子Click!、上落合503番地の壺井栄Click!などに原稿を書いてもらうためだ。もちろん、原稿料はいつ払えるかわからないのだが、それでもかまわないと「スタイル」を支援してくれる作家たちが、落合地域には多く住んでいたのだ。だから松井直樹自身も、下落合へ越してくるのにそれほどためらわなかったのだろう。
最初は、西武線の中井駅から西へ300mほど歩いたところ、ちょうど林芙美子の「お化け屋敷」Click!が真向かいに見える、五ノ坂下の下落合850番地あたりだった。この借家は、ほんの短い間だけだったようだが、「若林」という大家の紹介で同じ下落合に家を建てて住んでいる。同エッセイから、再び引用してみよう。
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原稿料がいつもおくれるので原稿のたのみようがなくなると、社長の宇野さんをかりだして、吉屋さん、壺井さん、美川さんなどと、あちこち女流作家のところへも出かけたが、林さんのお宅へもそうして行ったのだった。宇野さんの人徳で原稿を手に入れようというわけだった。/私の住んでいた林さんの向いの家の家主さんは、若林さんという奥さんだったが(百代さんというお名前だったと思う)いまどうしていらっしゃるだろうか。その頃の私たち、妻との二人をユカイな似あいのカップルだといって、土地があるから二人に似あいの家を建ててやろうということになった。/その新しい家というのがまた、林さんの新居の方の向いだった。やがて戦局がしだいに緊迫して、隣組の防空演習がはじまり、米や砂糖や酒もタバコも窮屈になってきた。その頃私たちはその懐しい家と別れて、鎌倉の長谷の大仏裏へ引越してしまった。
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この中で「美川」とは、三岸好太郎Click!と親しい画家・鳥海青児Click!の妻で作家の美川きよのことだ。大家が世話してくれた土地は、のちの1941年(昭和16)から林芙美子Click!・手塚緑敏Click!夫妻が住むようになる新居Click!(下落合4丁目2096番地)の向かい、つまり四ノ坂下の下落合4丁目2041~2051番地あたりの一画だろう。中井駅から西へ200mほど歩いたところで、尾崎一雄Click!の“もぐら横丁”Click!の近くだ。
松井直樹は、空襲が近づくと鎌倉へ疎開してしまうが、二度にわたる山手空襲Click!でも四ノ坂下の家々はあまり焼けず、戦後までなんとか残っている。松井は下落合の暮らしがよほど気に入っていたのだろう、戦後になると再び落合地域へ家を建ててもどってくる。
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(前略)また落合に土地を見つけ、十二坪制限の家を建てて住むようになった。東京はまだ壕舎生活をしているようなときだったので、この小さな家が、ヤミぶとりで建てたようにみえるのではないかと気がひけたものだった。落合は変ったといっても、このあたりに二十年も三十年も前の昔から流れている親愛派の空気、幸福そのもののような生活的雰囲気はいまも変りなく、まだまだあちこちのすみずみに残っている。落合はアンチミストの町である。
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松井直樹がもどってきたのは下落合3丁目1384番地、すなわち目白文化村Click!の第一文化村の北に接する二間道路から少し入ったところの家だった。1963年(昭和38)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にも、確かに「松井」のネームが採取されている。
実は、「落合新聞」を発行している落合新聞社、すなわち竹田助雄Click!の自宅は下落合3丁目1385番地だ。1384番地の松居邸とは、南西側の敷地の角を接する隣り同士の間がらだ。つまり竹田助雄は、お隣りの松井直樹へ垣根ごしに原稿を依頼したことになる。
◆写真上:突き当たり右手に松井直樹邸があった、下落合3丁目1384番地の現状。
◆写真中上:上は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。中は、1933年(昭和8)に撮影された東中野駅近くの踏み切り。下左は、松井直樹がデザインを担当した戦前のファッション誌「スタイル」。下右は、戦後に松井が活躍した「カラーデザイン」。
◆写真中下:上・中は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる松井直樹邸があった五ノ坂下と四ノ坂下。下は、1936年(昭和11)に撮影された作家たちで右から左へ宇野千代、吉屋信子、窪川稲子(佐多稲子)、林芙美子。
◆写真下:上は、「落合新聞」1962年(昭和37)6月10日号に掲載された松井直樹『落合あのころ』。下は、1963年(昭和38)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる松井直樹邸と竹田助雄邸(落合新聞社/竹田写真製版所)。
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原稿料はまたあとでの松井直樹スタイル。
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