すぐに「斬ってやる!」の高田町議会。
1932年(昭和7)に豊島区が成立する直前、高田町最後の町長となった海老澤了之介Click!は、1902年(明治35)に水戸中学を卒業すると、早稲田大学を受験するために東京へやってきている。下宿先は、北豊島郡雑司ヶ谷村707番地だった。山手線の池袋停車場Click!ができるのは翌1903年(明治36)で、雑司ヶ谷一帯はいまだ田畑が拡がる中に森が点在するような風情だった。...
View Article街の情報収集としての“こころづけ”。
今和次郎Click!は、よく「チツプ」あるいは「テイツプ」という言葉をつかう。昭和初期の当時は、チップという言葉が目新しく、流行語になっていたものだろうか。カフェやミルクホールの女給さんへ、サービスをよくしてもらうためにわたすのはチップでいいのかもしれないが、畳敷きの座敷がある和風の料理屋や料亭の仲居さんへは、やはりチップとはいわずに「こころづけ」と呼ぶほうがしっくりくるだろう。...
View Articleラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の落合散歩。
わたしが、初めてラフカディオ・ハーン(小泉八雲Click!)の原文に接したのは、中学2年生のときだった。当時、英語の授業に使われていた教科書『New prince readers』(開隆堂)に、ハーンの『YUKI-ONNA』Click!が収録されていたからだ。...
View Article旧・吉屋信子邸が「撃墜王」の実家に。
今年(2017年)の5月11日、京都の洛中Click!西陣局から投函された5月5日付けの1枚のハガキを受けとった。京都から新宿まで、配達に6日もかかっているのは、宛て名書きの住所が曖昧だったからだ。「東京都新宿区下落合/下落合公園近く/落合道人〇〇〇〇様」、地番が書かれていないまるで大正時代に出された下落合住民あてのハガキのようだけれど、なんとか迷子にならず手もとにとどいた。w...
View Article近衛文麿への盗聴工作を終えたら敗戦に。
吉田茂Click!を中心とする、大磯Click!の「ヨハンセングループ」Click!の辛工作(スパイ潜入)を終えた東輝次は、次に「コーゲン」こと近衛文麿Click!へのスパイ工作の任務についている。すでに東京は焼け野原であり、戸山ヶ原にあった兵務局分室(ヤマ)Click!も1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で焼け、乙工作(電話盗聴)も辛工作も不可能な状況になっていた。...
View Article下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(2)
1928年(昭和3)5月18日、画家であり彫刻家でもある清水多嘉示Click!は、6年間のパリ留学を終えるとシベリア鉄道経由で帰国した。同年の後半は、留学を支援してくれた人々へのお礼と挨拶まわりや、諏訪高等女学校における滞欧作品展の開催、フィアンセだった今井りんと結婚して高円寺に新居をかまえるなど、多忙な日々を送っている。...
View Article下落合の描いた画家たち・清水多嘉示。(3)
画家であり彫刻家の清水多嘉示Click!は、東京高等師範学校(のち東京教育大学)の数学・統計学教授だった下落合731番地に住む佐藤良一郎と、どこかで知り合いだったものだろうか。あるいは、佐藤家の子どもが美術分野となんらかの関係があったものだろうか。なぜなら、冒頭の画面の風景は佐藤邸の敷地へ少なからず入りこまなければ、描くことができなかったはずだからだ。...
View Article原稿料はまたあとでの松井直樹スタイル。
戦前から戦後にかけ、オシャレな本の装丁や挿画、ファッションデザインを手がけた人物に、下落合に住んだ松井直樹がいる。彼が下落合に引っ越してきたのは、1933年(昭和8)ごろのことだが、大正末から落合地域には頻繁に足を向けており、マヴォやダダイズムの関係者が集っていたバー「アザミ」Click!のこともよく知っているようだ。...
View Article久しぶりに「Stereo Sound」を眺めると。
きょうは、落合地域やその周辺、さらに江戸東京地方とはまったく関係のない記事だ。音楽やオーディオに興味ない方は、どうぞ読み飛ばしていただきたい。 ★ 昨年の暮れ、季刊「Stereo...
View Article