Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

下落合を描いた画家たち・清水多嘉示。(1)

Image may be NSFW.
Clik here to view.
清水多嘉示「下落合風景」1922.jpg

 これまで、さまざまな画家たちによる「下落合風景」Click!をご紹介してきたが、大正中期に下落合(現・中落合/中井含む)を描いた風景画は、下落合に実家があった小島善太郎Click!による大正初期からの諸作品Click!や、中村彝Click!によるアトリエ周辺の風景作品Click!大倉山Click!の北側斜面にあった森田亀之助Click!邸をおそらく渡仏直前に訪問したとみられる里見勝蔵Click!作品Click!、そして下落合に下宿していた鬼頭鍋三郎Click!初期作品Click!などを含め、たいへんめずらしい。いずれも大正末から松下春雄Click!佐伯祐三Click!笠原吉太郎Click!林武Click!二瓶等Click!など数多くの画家たちによる「下落合風景」の連作Click!がブームになる、少し前の作品群だ。
 今回ご紹介するのは、おそらく中村彝アトリエClick!へ立ち寄った際に描いたとみられる、1922年(大正11)に制作された清水多嘉示Click!の『下落合風景』だ。中村彝生誕130年記念会でお会いできた清水多嘉示のお嬢様・青山敏子様Click!から、さっそく画像をお送りいただいたので描画場所を特定してみたい。わたしは画面を一見して、この風景が下落合のどこを描いたものかが、すぐにわかった。このような風景が見られた可能性のあるポイントは、1922年(大正11)現在の下落合には2ヶ所しか存在しない。
 画面には、1922年(大正11)という時期にもかかわらず住宅が1軒も描かれていない。だが、まるで切り通しのようなV字型の狭い谷間ないしは坂道が、中央から右下に向かって下っている。崖地に表現された関東ロームの地層が見える右手の丘上近くは、木々が繁ってはおらず拓けた空間が拡がっているのがわかる。また、画面の左手から右手にかけては大きめな丘(山)が描かれ、遠方の木々の描き方を想定すると、かなり規模の大きな丘(山)であることがわかる。なぜこの風景が、下落合で見られた2ヶ所のポイントに絞られるのかといえば、イーゼルをすえている画家の立ち位置(視点)からだ。
 射しこむ陽光は画家の背後右手なので、その方角が南面なのは判然としている。つまり、この谷間ないしは切り通しは、丘上から南に向けて口を開けていることになる。そして、描かれたふたつの丘は、南へ向いた斜面を形成しているのも明らかだが、清水多嘉示はその南斜面を麓からではなく、再び地形が隆起しているかなり高い位置から写生していることになる。すなわち、左手の大きな丘(山)の南側に、谷間をはさんでもうひとつ小高い丘がある地形であり、その丘は少なくとも手前に描かれた木々の頂部よりも高い位置ということになるのだ。さらに画面の左下には、必然的に西側へと切れこんだ谷間ないしは窪みがあるということになる。
 以上のような地形把握を踏まえるならば、このような風景は林泉園Click!から流れ下った渓流沿いにある御留山Click!と、のちに近衛町Click!と呼ばれる丘の間の急峻なV字型渓谷か、西坂の徳川邸Click!が建つ斜面から眺めた、青柳ヶ原Click!諏訪谷Click!からつづく渓谷の2ヶ所しか存在しない。だが、のちに国際聖母病院Click!などが建設される青柳ヶ原の丘は、南へ向けて徐々に傾斜していく舌状のなだらかな丘であり、画面左手から右手にかけて描かれたようなこんもりと隆起した丘ではない。
 また、右手の谷間が諏訪谷つづきの渓谷だとすると、大正中期ともなれば右手の崖地上にはいくつかの住宅が建設されていたはずだ。しかも、西坂・徳川邸のバラ園を諏訪谷の出口を背景に眺めた情景は、松下春雄が1926年(大正15)に制作した『徳川別邸内』Click!で見ることができるが、谷全体の幅がかなり広めに口を開け、このような空間感ではない。したがって、この画面の風景は前者、すなわち林泉園の谷戸から南へと流れ下る、御留山の西側に接したV字型渓谷ということになる。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景1922.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景1936.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景01.JPG

 清水多嘉示は、中村彝アトリエを訪問した際、付近の風景を写生するために画道具を持ちながら、アトリエの南側に口を開けた林泉園の谷戸へと下りていった。東西に細長い池沿いにつづく小道を東へたどっていくと、やがて旧・近衛篤麿邸Click!跡と相馬猛胤邸Click!との間に架かる橋のあたりで、渓谷は南へと直角に曲がり、彼はさらに谷底の渓流沿いを南へと歩いていった。やがて、御留山の南北の谷戸と東西の谷戸とが合流する向こう側(南側)に、藤稲荷社Click!の境内がある小高い丘が見えてくる。
 清水多嘉示は、かなり急な北側の斜面を上って藤稲荷の境内に入ると、本殿裏の木々がまばらな丘上に立ち四囲を見まわした。彼の南側には新宿方面の眺望が開け、北側に目を向けるといましがたまで歩いてきた狭いV字型の渓谷と、相馬邸の敷地である御留山東端の丘が左手(西側)からせり出している光景とが、眼前に展開していたにちがいない。ちなみに、清水多嘉示が画題を探しながら歩いたコースは、明治末に林泉園(当時は近衛家が設置した「落合遊園地」と呼ばれていた)から、藤稲荷のある丘上へとたどった若山牧水Click!の郊外散策コースとまったく同じだ。
 1922年(大正11)という時期は、東京土地住宅Click!による近衛町Click!の開発がスタートしたばかりであり、崖地のある右手の丘上には、すでに三間道路を敷設する工事は始まっていたかもしれないが、いまだ近衛町ならではのオシャレな住宅群Click!は1軒も建設されていない。画面右の丘上に見える、木々が見えない空き地状の空間は、解体された近衛篤麿邸の西端敷地だと思われる。もう少し視点が高ければ、旧・近衛邸の塀の一部が見えたはずだ。のちの近衛町でいえば、木々のない丘上のあたりには酒井邸Click!岡田邸Click!(のち安井曾太郎アトリエClick!)、藤田邸Click!などが建設されるあたりということになる。また、もう少しイーゼルの位置が右手(東側)に寄っていたら、近衛家の敷地と相馬家の敷地との境界、すなわち林泉園からつづく渓谷に架かる小さな橋が見えたかもしれない。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景02.JPG

Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景03.JPG

Image may be NSFW.
Clik here to view.
御留山土止め柵.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景04.JPG

 近衛町西端の斜面が、まるで切り通しのように赤土がむき出しになった状態なのは、近衛町開発を推進する東京土地住宅が、のちの地形図などに描かれている擁壁を建設するために手を入れたものか、あるいは画面左手(西側)の御留山(相馬邸)のある丘の急斜面と同様に、土砂が崩れないよう土止めの柵を設けようとしていたものか、なんらかの整備工事中である可能性が高いように思える。ちなみに、ちょうどこの谷間に面した御留山側(相馬邸側)に設置された急斜面(というか崖地)の土止めは、酒井正義様が保存されている写真でハッキリと確認することができる。
 さて、現状の風景と重ねてみると、地形にかなりの変化がある。まず、いちばん大きな変化は、画面の左に描かれた丘(山)が大きく削られ、南北の三間道路が拓かれている点だ。現在では「おとめ山通り」と名づけられたこの坂は、1939年(昭和14)に相馬孟胤Click!が死去したあと、御留山の敷地を買収した東邦生命Click!が1943年(昭和18)ごろまでに敷設したものだ。また、残った丘の大部分も、東邦生命による宅地開発のために次々とひな壇状に均され、描かれているようなこんもりとした山状の風情はなくなってしまった。さらに、清水多嘉示がイーゼルを立てた藤稲荷社のある手前の丘も道路沿いをひな壇状に開発されて、現在では藤稲荷の社殿のある境内を除き、かなり削り取られた状態となっている。でも、戦後の竹田助雄Click!らが推進した「落合秘境」保存運動Click!により、画面右手の下に隠れている弁天池Click!の周辺と、画面左手(西側)へと入りこむ谷戸全体は、1969年(昭和44)に「おとめ山公園」として保存されることになった。
 決定的な地形改造は、戦後に行われたV字型渓谷の埋め立てだろう。東邦生命から土地を買収した大蔵省が、地下鉄丸ノ内線の工事で出た大量の土砂で、林泉園からつづくV字型渓谷のほぼ全域を埋め立て、その上に大蔵省の官舎(アパート)を建設している。したがって、画面の切り通しのような鋭い谷間は消滅し、左手の丘(山)の掘削とあいまって少し凹んだなだらかな斜面ぐらいの風情になってしまった。だが、建ち並んだ同省官舎の老朽化とともに、新宿区が財務省(旧・大蔵省)の敷地を全的に買収し、2014年(平成26)に「おとめ山公園」の大幅な拡張(1.7倍化)が実現している。現在、このV字型の渓谷跡は、雨水を浸透させて地下水脈を豊富にするための、広大な芝生斜面となっている。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景19450402.jpg

Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景05.JPG

Image may be NSFW.
Clik here to view.
下落合風景06.JPG

 清水多嘉示が描いた『下落合風景』は、1923年(大正12)の渡仏前に描かれているせいか、どこか草土社Click!岸田劉生Click!が描いた代々木の切り通しの風景画Click!か、我孫子に集った春陽会の画家たちClick!の作品を想起させるが、1928年(昭和3)の帰国後に描いたとみられる風景画の中にも、描画のタッチを大きく変えた下落合の風景とみられる画面が何点か確認できる。それらの作品を、またつれづれご紹介できればと考えている。

◆写真上:渡仏する前年、1922年(大正11)に制作された清水多嘉示『下落合風景』。
◆写真中上は、ちょうど『下落合風景』と同年に作成された1/3,000地形図にみる御留山の谷戸と描画ポイント。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる同所。は、清水多嘉示がイーゼルをすえた藤稲荷社のある画面手前の小丘。
◆写真中下の2枚は、丸ノ内線の土砂で埋め立てられたV字型渓谷とその現状。おとめ山公園拡張時に、芝庭の造成工事の様子をとらえたもの。清水多嘉示の画面でいうと、左手に描かれた丘(山)の中腹から深い渓谷を覗きこんでいることになるが、本来の谷底は埋め立て土砂のはるか下だ。は、画面左手に描かれた丘(山)の急斜面に相馬邸が設置した土止め柵。(提供:酒井正義様) は、清水の画面左手の丘(山)を崩して東邦生命が敷設した現・おとめ山通り。通り左手には、弁天池へと落ちこむ急斜面が残る。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月2日にB29偵察機から撮影された御留山の谷戸。東邦生命による宅地開発が進み、清水の画面左手に描かれた丘には道路が貫通し、道路の両側はひな壇状に宅地が造成されているのが見える。は、清水の画面手前に描かれた西側へと切れこむ谷戸の入口。左手の小丘の上には、藤稲荷社の本殿屋根の千木や堅魚木が見えている。は、清水の画面では右下の木々に隠れて見えない弁天池。池の左手(西側)には、丘の麓にあたる急斜面がかろうじて残っている。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1249

Trending Articles