吉田茂Click!を中心とする、大磯Click!の「ヨハンセングループ」Click!の辛工作(スパイ潜入)を終えた東輝次は、次に「コーゲン」こと近衛文麿Click!へのスパイ工作の任務についている。すでに東京は焼け野原であり、戸山ヶ原にあった兵務局分室(ヤマ)Click!も1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で焼け、乙工作(電話盗聴)も辛工作も不可能な状況になっていた。
そこで、近衛文麿Click!には丁工作(盗聴マイク設置)が選ばれている。だが、近衛文麿は杉並の荻外荘Click!に落ち着かず、各地を転々とするような生活をしていた。天皇へ「敗戦必至」の「近衛上奏文」を提出して以来、陸軍の本土決戦を叫ぶ青年将校たちから、生命をねらわれていると考えていたからだ。東輝次が吉田茂邸へ潜入していた時期に、何度か「上奏文」の打ち合わせで大磯にもやってきていた。
兵務局分室では、近衛文麿はおもに荻外荘Click!と軽井沢の別荘Click!、そして箱根の麓にある桜井兵五郎の別荘「缶南荘」を往来していることをつかんだ。この時期、下落合(1丁目)436番地(現・下落合3丁目)の近衛邸Click!は空襲で焼失している。そこで、もっとも居住する機会が多いとみられる、箱根の「缶南荘」へ盗聴マイクをしかけることに決めた。近衛の電話を通じて、“反戦和平運動”の動向をつかもうとするもので、1945年(昭和20)6月ごろに具体的な計画が立案されている。
7月に入ると、神奈川県中郡大根村(現・秦野市)の鶴巻温泉にある旅館「大和屋」に、スパイ工作のベースアジトが設けられ、東輝次は「秘密兵器試験隊」の名目で一員として参加していた。さらに、前線の工作アジトとしては、箱根登山鉄道の箱根湯本駅前にある橋をわたった陸軍病院(現・湯本富士屋ホテル)に設置された。戦争も末期になると、箱根の陸軍病院ばかりでなく箱根にあるほとんどの旅館は、戦地から送還された傷病兵で超満員の状況だった。
湯本の陸軍病院の1室に、「秘密兵器」の材料と称して盗聴に必要な機材や通信線などが運びこまれると、東輝次を含む3名の工作員は活動を開始した。小田原市入生田の山中にある「缶南荘」へ、山麓から延々と盗聴用の通信線を埋設し、近衛文麿が利用しているとみられる居室の縁の下まで引いていく計画だった。すでに缶南荘へは砂糖やバター、食油などを売りに、工作員のA曹長が「便利屋」として台所から接触し、2棟ある別荘内のおおよそ部屋数や見取図を作成していた。
1945年(昭和20)7月10日の深夜0時すぎに、3人の工作員は箱根湯本駅前の陸軍病院を抜け出すと、吊り橋の三枚橋をわたり、国道1号線を小田急線の入生田駅方面へと下りはじめた。3人がかたまって歩くと目立つので、バラバラになって国道を下り、入生田の集落手前にある牛頭天王社の境内を集合場所と決めていた。以下、2001年(平成13)に光人社から出版された東輝次『私は吉田茂のスパイだった』から引用してみよう。
▼
前を行く者も、道をはずれたのであろう。ザラザラ葉ずれの音は、もう闇の中に吸われて聞こえて来ない。ジイジイとなく声の音が気味わるい。落葉の中に燐が星のように光っている。/神社脇に出ると、杉の林もまばらになる。かすかながらも光がさし込んで来る。そこまで最初に来た者が、口笛を吹く。他の者はそれを聞きつけて寄って行く。ここで集合を完了するのである。/三人は携行品を点検して、中腹のこの神社前を国道に沿って進むと、前方に水の音が聞こえてくる。これが工作の起点になる貯水地である。/貯水池は三坪あまりの小さいものである。そこから送水管が二本、国道脇にあるポンプ場に送り込まれている。/その送水管の下から、工事をはじめるのである。(中略)軍用電線の端末を二十メートルばかり残して一ヵ所に埋め、それから缶南荘に向かって埋め進めていく。一人が円匙で方向を決め、土を左右に分ける。次が十字鍬でその中を浚える。次が電線を埋めて土をかむせ、その上に落葉や草を植えて行く。これはまったく手の感覚だけではなく、全神経の集中をしなければできない。
▲
貯水池の脇から外灯のまったくない暗闇の山中を、手探りで泥だらけになりながら円匙(スコップ)を手に通信線を埋設していく、気の遠くなるような作業だった。ポンプ小屋の近くからスタートしたのは、同設備から盗聴機器の電源をとる計画だったのだろう。午前5時になると、周辺が明るくなる夏季のため撤収しなければならず、実質ひと晩に5時間弱の作業しかできなかった。この小さな貯水池から、近衛文麿が滞在する「缶南荘」まで約300mもの距離があった。
通信線の敷設は、缶南荘の周囲をめぐらす1mほどの石垣にはばまれ、その下を突破するのにひと晩かかっている。南西へと拡がる広い芝庭の石垣沿いに、通信線は缶南荘の北側斜面を大きく迂回して、建物の北東側から屋敷の縁の下へ引き入れることにした。芝庭へ入りこむのを避けたのは、番犬に獰猛なシェパードが飼われていたからだ。シェパードは、夜中に東輝次たちの気配を嗅ぎつけると狂ったように吠えたが、彼らは番犬対策に陸軍科学研究所から特別な薬品をもらっていた。以下、同書からつづけて引用してみよう。
▼
われわれは戦場における匍匐(ほふく)前進と変わることなき全身をしなければならなかった。匍ったままにて、同じように線を埋めていった。/この芝生に入る日になると、A曹長はかならず訪問して、犬小屋に薬品をふりかけた。それは理科学研究所にて作った一種の媚薬にて、その薬品の臭いをかぐと、犬の生理に変調を来たして交尾期の状態になるのである。だから、いつもの警戒心もなく、邸の外に飛び回るのである。それでないと、われわれは、その芝生に近寄れないのである。/缶南荘の本家は、二棟からできており、渡り廊下にてつながっていた。「コーゲン」の居室は、その裏の方の一棟にて二間からできていた。そして建物は普通の日本家屋のそれではなく、鎌倉時代の神社仏閣のように縁が高くできていた。しかし、それに入る口を見つけねばならない。/一日、その縁の下を逼い回った。なかなか見つからなかった。(中略) 案の定、渡り廊下の下付近にがんどう返し式の出入り口を発見したのである。
▲
東輝次は「理科学研究所」と書いているが、イヌの媚薬を製造したのは陸軍科学研究所の登戸研究所で、「番犬防御法」を開発していた研究チームだ。ソ連国境に配備されている、国境警備隊の番犬用に開発された「警戒犬突破」用の「発情法」薬だった。
ようやく、缶南荘にいる近衛文麿の居室の縁の下までたどりついた3人だが、使用した通信線は400mに達していた。縁の下には7月27日に到達しているので、工作開始から実に17日間もかかっている。1946年(昭和21)に撮影された空中写真を見ると、缶南荘の前には大きな谷戸が口を開けており、そこへ通信線をわたして山の中腹に建つ缶南荘までたどり着くのは、容易なことではなかっただろう。真鍮パイプの中に通信線を通し、渓流をふたつも越えなければならなかった。翌7月28日、近衛が滞在する二間を分ける敷居の下に支柱となる木材をかませ、マイクロフォンの設置を終えている。
こうして、小さな貯水池のそばにある番小屋へ受信装置を設置し、近衛文麿が現れるのを待ちかまえた。だが、近衛は8月14日まで一度も缶南荘に姿を見せなかった。この日の夜、東輝次たちは早くも敗戦を知り、虚しさを抱きながら翌15日の朝、急いで東京へともどると新宿の伊勢丹前で天皇のラジオ放送を聞いている。そして、ただちに戸山ヶ原にある兵務局の代用分室となった厩舎にもどると、膨大な機密工作の書類を焼却しはじめた。炎暑の中、すべての書類を灰にするまで丸4日もかかっている。
◆写真上:戸山ヶ原の兵務局分室があったあたり(左手)の現状で、右側の浅い穴は敗戦直後に防疫研究室(731部隊本拠地)による人骨埋設証言の発掘調査跡。
◆写真中上:上は、いまも残る近衛騎兵連隊の馬場と兵務局分室の間に遮蔽目的で築かれた土塁。下は、国立国際医療センター(旧・陸軍第一衛戍病院)の上階から撮影した大久保通り沿いの兵務局防衛課跡(矢印の集合住宅あたり)で、向かいのビルは総務省統計局。
◆写真中下:上は、1946年(昭和21)撮影の空中写真にみる箱根湯本駅前の旧・陸軍病院全景。下左は、1944年(昭和19)に撮影された軍人に見えない長髪の東輝次。下右は、いまも残る貯水池と箱根登山鉄道まで下る2本の送水パイプ。
◆写真下:上左は、荻外荘応接室の近衛文麿。上右は、桜井兵五郎。下は、1946年(昭和21)の空中写真に貯水池から缶南荘までの通信線を埋設した想定ルート。
↧
近衛文麿への盗聴工作を終えたら敗戦に。
↧