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旧・吉屋信子邸が「撃墜王」の実家に。

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飛燕(調布飛行場).jpg

 今年(2017年)の5月11日、京都の洛中Click!西陣局から投函された5月5日付けの1枚のハガキを受けとった。京都から新宿まで、配達に6日もかかっているのは、宛て名書きの住所が曖昧だったからだ。「東京都新宿区下落合/下落合公園近く/落合道人〇〇〇〇様」、地番が書かれていないまるで大正時代に出された下落合住民あてのハガキのようだけれど、なんとか迷子にならず手もとにとどいた。w 差出人名が記されておらず、郵便局では下落合の配達先を一所懸命に探したものだろう。ちなみに、わたしの家は「下落合公園」Click!よりも、「おとめ山公園」Click!のほうがかなり近い。
 ハガキに記された内容は、戦時中に陸軍航空隊の調布基地に勤務していた、B29の迎撃パイロットに関する情報だった。それによれば、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)にあった吉屋信子邸Click!(1926~1935年住)が、敗戦直後より元・陸軍航空隊飛行244戦隊の隊長・小林照彦少佐の実家(大川家)になっていたというものだった。同時に、その詳細を記した書籍として、1970年(昭和45)に養神書院から出版された小林千恵子『ひこうぐも』が紹介され、該当ページまでが記載されていた。
 さっそく、同書を入手して参照してみると、大川家は小林照彦の妻である著者の実家であることがわかり、しかも1945年(昭和20)4月13日夜半から翌朝にかけての第1次山手空襲Click!の際は、上落合の南側である東中野にあった実家で罹災していることも判明した。そして、B29を迎撃(小林照彦日記では「邀撃(ようげき)」)していた飛行第244戦隊の空戦の様子も詳しく知ることができた。10,000m近くの高々度で飛来するB29を迎え撃つため、小林照彦が操縦していたのは三式戦闘機、愛称で「飛燕」と呼ばれた陸軍の新鋭機だった。
 戦闘の様子を、小林千恵子『ひこうぐも』(光人社版)に収録された小林照彦日記より、1944年(昭和19)12月3日の記述から引用してみよう。
  
 敵機大規模に関東地区に侵入す。邀撃のため離陸せるも一撃の下に撃墜さる。発動機に受弾せるなり。/予備機に依り、離陸せるも、完全武装のため、高々度に上れず(七五〇〇メートル以上不能)、銚子沖合に待機せるも、敵を補足するに至らず。/本日四宮中尉以下、特別攻撃隊はがくれ隊員勇戦せり。B29に体当りののち、片翼よく帰還せる四宮中尉。正面衝突ののち、落下傘降下せる板垣伍長。B29の尾部を噛り不時着生還せる中野伍長。全員生還せり。愉快この上もなし。/部隊の戦果。撃墜六機、撃破二機なり。
  
 大きな図体のB29に、小鳥のような戦闘機が機銃弾を浴びせてもなかなか墜ちない。機銃弾を撃ち尽くすと、自身の機体をB29に体当たりさせて撃墜していた様子がわかる。パイロットは、機体をB29めがけて巧みに操縦すると、衝突の直前にコックピットからパラシュートで脱出していた。脱出するタイミングを誤ると、衝突に巻きこまれて生還できなくなる、きわどい賭けのような体当たり攻撃だった。
 以前、山手空襲の際に長崎町にある仲の湯Click!(のち久の湯)の釜場に落ちてきた、日本の迎撃戦闘機Click!について書いたことがあるが、機体にパイロットの姿はなかった。おそらく、上記の「はがくれ隊」のような“特攻”を試みて脱出したものだろう。ただし、この体当たり攻撃は効果が大きい反面、貴重な戦闘機を失う消耗戦でもあった。大本営が「本土決戦」を意識しはじめるとともに、戦闘機を温存するためB29への迎撃は抑えられるようになる。
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飛燕飛行戦隊.jpg

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小林照彦と飛燕.jpg

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小林千恵子「ひこうぐも」1970.jpg
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小林照彦.jpg

 戦闘機をまとめて戦隊で出撃させるのではなく、少数機の飛行隊ごとに出撃させる散発的な迎撃作戦をとるようになると、逆にB29に加え護衛の戦闘機隊(F6F・P51など)が増えるにつれ、多勢に無勢で戦果を上げにくくなっていった。小林照彦は戦闘の現場を知らない司令部の命令に、強い怒りをぶつけている。
  
 昨日の戦斗に於て損害大、戦果僅少なりし所以のものは、部隊戦斗に徹せざりしに依る。少くとも戦隊は、纏りて上り、纏りて戦斗すべきなり。各飛行隊ごとに出動せしめたるは、対戦戦斗の真骨頂を知らざる愚劣極まる指揮たり。師団の戦斗指導の拙劣なりしこと、論外なり。B29に対する邀撃と特色全く異なるを以て、南方に於ける戦訓を活かし、戦隊は常に纏りて、戦斗し得る如く戦斗指導すべきなり。
  
 1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲のとき、著者の小林千恵子は東中野にある実家に身を寄せていた。夫の小林照彦は、前日の4月12日に敵機と交戦して撃墜され、右足に盲貫創を受けて13日夜半の空襲では出撃できなかった。同日の空襲の様子を、同書の小林千恵子の文章から引用してみよう。
  
 妹は、ときどき(防空壕の)入口の戸を開けて父を呼んだ。そのうち、高射砲の音がし始めた。敵機がいよいよ来襲してきたらしい。やがて下腹に響く爆音で、大編隊の来襲と壕の中でも知られた。/「お父さん、危ないから早く中に入って、……早く」/妹と私は、夢中で叫んだ。もうすでに、爆音だけとは見えない投下弾のすさまじい響きが、地面を震わせていた。父がやっと、壕に飛び込んで、入口の戸を締めた瞬間だった。頭上で、/「ばばーん」/と、耳をつんざく大音響がした。同時に、あちこちから、/「焼夷弾落下! 焼夷弾落下!」/狂ったような叫び声が揚がった。人々が壕から飛び出したらしい。/「落ちた! 焼夷弾が落ちた!」/父が、いち早く壕から飛び出した。続いて妹と私が。(カッコ内引用者註)
  
 小林千恵子は、空襲を「四月十五日」と書いているが、4月13日夜から4月14日未明の記憶ちがいだろう。この日、東中野Click!は焦土となり彼女の実家も焼け落ちた。
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飛燕記念写真.jpg

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飛燕.jpg

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調布基地.jpg

 翌朝、東中野から中央線で新宿に向かうと、大久保から先は爆撃の被害で不通になっており、一家は父親の会社がある新宿まで歩くことになった。その途中で、調布の244戦隊マークをつけた軍服を着る士官たちと出会う。兵士を率いていたのは、同隊の家族が多く住む東中野の様子を視察しにきた、整備隊に勤務する芥川比呂志Click!少尉だった。
 1ヶ月あまりののち、5月25日夜半の第2次山手空襲Click!のとき、小林照彦は調布基地から鹿児島の知覧基地へと移り、すでに東京の空には不在だった。同日に「義号作戦」が発動され、知覧から飛び立つ特攻隊を護衛するのが彼の任務となっていた。搭乗機も、三式戦(飛燕)から五式戦(愛称なし)へと変わっている。このあと、小林夫妻は運よく8月15日まで生きのび、やがて東京へともどってくることになる。
 下落合が登場するのは、小林千恵子の実家である市川と東中野の家が焼けてから、新しい住まいを探して移るあたりからだ。同書から、つづけて引用してみよう。
  
 (1946年)八月に入ると、夫は真剣に就職口を探し始めた。家の経済もいよいよ底が見えてきたからでもある。私は、/「お父さまにお願いしてみたら」/と、何度か夫をうながした。父は下落合の高台に家具付きの家をみつけて移っていた。作家の吉屋信子女史の建てた家だそうで、市川の家とはおよそ対照的な洋風の家だった。(カッコ内引用者註)
  
 下落合(4丁目)2108番地に建っていた旧・吉屋信子邸Click!は、かわいいテラスのあるバンガロー風で平屋造りの洋館だったが、二度にわたる山手空襲からも焼け残っていた。彼女が1935年(昭和10)に転居したあと、何度か手が加えられているのかもしれないが、空中写真を年代順に参照する限りは、もと屋根のかたちをしているように見える。
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吉屋信子邸1929.jpg

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吉屋信子邸1947.jpg

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吉屋信子邸1960.jpg

 さて、戦時中に調布基地にいた飛行第244戦隊の小林照彦を取材し、東京朝日新聞に記事を書いていたのは、同紙の矢田喜美雄Click!記者だった。矢田記者もまた、戦後になると下山定則国鉄総裁の謀殺説を追って、南原繁Click!を中心とした「下山事件研究会」のメンバーが住む下落合へと通ってくることになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:調布基地への爆撃で吹き飛ばされたとみられる、調布飛行場の三式戦闘機(飛燕)。敗戦直後の撮影と思われ、付近の子どもが翼に乗って遊んでいる。
◆写真中上は、B29迎撃の「飛燕」を主軸とした飛行戦隊。は、機体に撃墜マークが描かれた小林照彦機。B29と飛燕が重なるマークは、体当たり攻撃による撃墜を意味する。下左は、1970年(昭和45)出版の小林千恵子『ひこうぐも』(光人社版)。下右は、1945年(昭和20)1月27日の体当たり攻撃で鼻を負傷した小林照彦。
◆写真中下は、調布飛行場で撮影された飛行244戦隊の記念写真で印が小林照彦。は、高々度で飛来するB29の迎撃戦闘機として多用された三式戦闘機(飛燕)。は、1944年(昭和19)の空中写真にみる陸軍の調布飛行場。
◆写真下は、1929年(昭和4)に撮影された吉屋信子邸。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる旧・吉屋信子邸。は、1960年(昭和35)に住宅協会から発行された「東京都全住宅案内帳」にみる小林千恵子の実家である大川邸。作家・船山馨邸Click!の3軒南隣り、髙島秀之様Click!の2軒南隣りにあたる。

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