1928年(昭和3)5月18日、画家であり彫刻家でもある清水多嘉示Click!は、6年間のパリ留学を終えるとシベリア鉄道経由で帰国した。同年の後半は、留学を支援してくれた人々へのお礼と挨拶まわりや、諏訪高等女学校における滞欧作品展の開催、フィアンセだった今井りんと結婚して高円寺に新居をかまえるなど、多忙な日々を送っている。
もちろん、清水が滞仏中に死去した、中村彝Click!のアトリエClick!も訪ねているだろう。当時、中村彝アトリエは彼の弟子たちなどが中心になって起ち上げた、中村会Click!(のち中村彝会Click!)の拠点になっていたからだ。若い画家志望の学生たちが集まり、イーゼルを持ちこんで制作の場としても活用されていた。『芸術の無限感』Click!(岩波書店/1926年)を刊行するために、編集委員が集ったのも同アトリエだった。たとえば、二科の樗牛賞を受賞した曾宮一念が、1925年(大正14)9月に記者会見Click!を開いたのも、自身のアトリエではなく中村会の彝アトリエだった。
清水が帰国した翌年、1929年(昭和4)に佐伯祐三Click!アトリエを留守番がわりに借りていた鈴木誠Click!は、帰国した米子夫人Click!が下落合に住むため立ち退くことになり、ご遺族の鈴木照子様Click!によれば大八車に鍋釜を積み、雨でぬかるんだ道を引っ越してくるまで、彝アトリエは中村会の事務所兼アトリエとして機能していた。
清水多嘉示は、彝アトリエで知りあった友人たちが多い中村会へも、当然、帰国時に顔を見せているだろう。また、帰国の翌々年1930年(昭和5)1月には、下落合1443番地にあった木星社Click!から『清水多嘉示滞欧作品集』を刊行しているので、曾宮一念アトリエClick!の西、佐伯祐三アトリエClick!の南に位置する同社の福田久道Click!のもとへ、作品集の構成や編集の打ち合わせをしに、少なからず訪れていたとみられる。
以上のように、清水が帰国してから数年間の状況を踏まえると、渡仏前の想い出が詰まった彝アトリエ(中村会)のある、下落合の周辺に拡がる風景をまったく描かなかった……とはいい切れない。むしろ所用で、あるいは友人知人に会うために下落合を訪れた際、付近の風景を写生していた可能性が高いように思われる。すでに、渡仏直前の1922年(大正11)に御留山の谷戸をモチーフにした『下落合風景』Click!を描いてもいる。ましてや、大正末から画題・画因としての「下落合風景」は多くの画家たちClick!を惹きつけ、当時の展覧会では必ずどこかの会場に出品されているケースも多かった。
そのような観点から、清水の作品群を改めて観察していくと、どこを描いたのかが不明な帰国後の風景作品の中に、それらしい画面が少なからず存在している。帰国後の画面は、渡仏前の画面と比べると筆づかいや色彩などが、当時の“現代風”に進化しているのがわかる。冒頭の画面は、『風景(仮)』(作品番号OP595)とタイトルされている作品で、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「不明(帰国後[1928年以降])とされている作品だ。
ところが、この画面と同一のバリエーション作品が、『風景(仮)』(滞仏期[1923-1928年]/OP256)として同資料に収録されている。どちらの作品整理が正しいのかは不明だが、もし前者のケース、すなわち同画面が帰国後の制作によるものだとすれば、この風景に限りなく近い場所を、わたしは下落合で知っている。
1922年(大正11)4月から、下落合東部にある「近衛町」Click!の開発・分譲をスタートした東京土地住宅Click!は、2か月後の6月には林泉園Click!の周囲(おもに西側と南側)を新たに開発し、「近衛新町」Click!と名づけて販売を開始した。ところが、同住宅地の分譲は一般に公開されたものの、約1ヶ月後の7月に東京土地住宅はあわてて「分譲中止」広告を出稿している。東邦電力の松永安左衛門が、林泉園周辺の近衛新町エリアをすべて買い占めてしまったからだ。
そして、林泉園に沿った南側には、社長の松永邸を含む同社の幹部邸などが建てられ、林泉園の湧水源にあたる西側と、七曲坂Click!筋に近い南西側には、社員用に外壁を白ないしはベージュに塗った赤い屋根(ときに家々の意匠が近似しているため、青い屋根の家もあったようだ)の、オシャレな社宅やテラスハウスなどの洋館群が建設されている。これらの社宅(洋館)群の多くは空襲からもまぬがれ、そのうちの1軒が1990年代まで残っていたのだが、残念ながら前世紀末に解体されてしまって現存しない。
わたしが、清水多嘉示のお嬢様・青山敏子様から画面コピーを見せていただいたとき、すぐさま下落合のとあるポイントがピンと浮かんだ。1928年(昭和3)をすぎたあたりで、この風景に一致する場所はたった1ヶ所しか存在していない。林泉園をはさみ、中村彝アトリエから南へわずか40mのところにある、谷戸対岸の斜面上から林泉園の突き当たり、すなわち西側の湧水源を向いて描いた風景だ。画面下に白く見えているのが、林泉園の池へと注ぐ湧水源で、ひな壇状に開発された谷戸の突き当たりは、大正期には東邦電力の「運動場」と呼ばれ、昭和期に入ってしばらくすると整地され直してテニスコートが設けられた敷地だ。
正面の谷戸上、小高いところに描かれている赤い屋根の西洋館は、下落合367番地にあるテラスハウス状の東邦電力社宅2棟であり、画面右手が平田邸で中央が島邸の、それぞれ東側外壁ということになる。樹木に隠れがちな左寄りの洋館は、のちに30棟ほどが順ぐりに建設される、同一規格の一戸建て社宅のうちのひとつだ。位置からすると、早い時期に建設された泉邸ないしは吉田邸かもしれない。また、右寄りの洋館の屋根上に見えている、少し離れたところにありそうな煙突は、時期によって異なるが東邦電力合宿所、ないしは家庭購買組合に備えられた焼却炉の煙突だと思われる。そして、画面の右手枠外には中村彝アトリエ(1929年すぎなら鈴木誠アトリエ)の赤い屋根と焦げ茶色の外壁が、清水多嘉示の視界には見えていたはずだ。
清水多嘉示は、おそらく下落合464番地の中村彝アトリエ(中村会)を、なんらかの用事で訪れたのだろう。中村彝が生きていた、1922年(大正11)の下落合を知っている清水にしてみれば、6年後に訪れた下落合はまるで別世界のように感じたのではないだろうか。山手線の線路に近い近衛町には、竣工したばかりの近衛文麿邸Click!や学習院昭和寮Click!をはじめ、西洋館を中心とした大きな屋敷街が連なり、彝アトリエの周辺では近衛新町=林泉園住宅地が開発され、同様に大小の西洋館が目立って建ち並んでいた。また、国内ではいまだ目にしたことのないような、下落合の中部に展開していた箱根土地によるモダンな目白文化村Click!の光景には、フランス帰りの清水でさえ多少は驚いたかもしれない。なぜなら、描画場所が不明な作品ないしは帰国後の作品には、目白文化村や近衛町を彷彿とさせる画面も少なからず混じっているからだ。
清水多嘉示は彝アトリエを出ると、そのままサクラ並木の道端に口を開けた林泉園の斜面を、谷底へと下りていった。このあたりの谷戸は、湧水源にあたるためそれほど深くはなく、少し高めな2階から1階へ下りるぐらいの高さ(4~5mほど)しかない。清水は、西側の湧水源から東の池へと注ぐ小流れをまたぐと、対面の斜面を上っていった。そこは、東邦電力が買収した宅地造成中の土地で、いまだ家々はそれほど建てられていない。
彝アトリエからは、ちょうど“対岸”にあたる視点から谷戸の奥(西)を眺めると、東邦電力が建設した洋風の社宅群が建てられはじめている。谷戸の突き当たりは、ひな壇状に整地された芝庭のようになっており、左手には彝アトリエのある北側の丘と同様に、西へと向かう林泉園沿いの小道が通っている。清水多嘉示は画因をおぼえ、イーゼルを立てるかスケッチブックを取り出したのだろう。湧水源から勢いよく流れ出る、小流れの水音を聞きながらおもむろに写生しはじめた。
現在、林泉園跡の南側には住宅やマンションが建ち並び、清水多嘉示の描画ポイントには立てない。湧き出た小流れは東京都下水道局により暗渠化され、湧水は地下の下水管の中を流れている。谷底にあったいくつかの池も埋め立てられ、いまは1段低くなった土地に1970年代に建てられた低層マンションが並んでいる。だが、画面に描かれた湧水源の地形や、谷戸の風情はいまでも薄っすらと感じとることができる。
特に、画面の左手(南側)に描かれた小道のあたりには、林泉園へと下りる古いコンクリート階段(写真③)があり、谷底にはカギ状に折れた路地が通っている。すなわち、画面の右下に描かれた水の質感を思わせる白塗りのあたりを東西に通り(写真②)、北側にある同様の階段(写真①)を上ると目の前が中村彝アトリエだ。谷底の路地には、湧水を暗渠化した際に設置したとみられる古いマンホールを、いくつか確認することができる。
◆写真上:資料では帰国後に制作されたとされる、清水多嘉示『風景(仮)』(OP595)。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる林泉園。実際の縮尺とは異なるのでズレがあるが、福田邸の敷地北側から西の湧水源を向いて描いていると思われる。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同所。東邦電力による開発が進み、ほぼすべての社宅を建設し終えている。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる同所で、すでに谷戸の突き当たりがテニスコートになっている。
◆写真中下:上は、中村彝アトリエの前に口を開けた林泉園への下り口階段。(写真①) 清水多嘉示がイーゼルを立てたのは、正面奥に見えるベージュ色をした住宅左手の斜面上あたり。下は、谷底を東西に横切る路地から谷戸の突き当たり方向を眺めたところで、昭和10年代には一帯がテニスコートにされていた。(写真②)
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる林泉園。空襲で焼かれた建物もあるが、東邦電力の社宅の多くが焼け残っているのがわかる。ピンクの番号①②③は、現状写真の撮影ポイント。中は、清水の画面でいうと左手の道の途中から谷底へと下りられる林泉園の南側に設置された階段。(写真③) 下は、滞仏中の作品として分類されているが『風景(仮)』(OP595)のバリエーション作品に見える『風景(仮)』(OP256)。
★掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。