刑部人Click!の孫にあたる中島香菜様Click!より、1931年(昭和6)に制作された『睡蓮』の画像をお送りいただいた。ちょうど、吉武東里Click!に依頼していた下落合(4丁目)2096番地(現・中井2丁目)のアトリエが竣工し、刑部人が島津鈴子と結婚した直後に描かれたものだ。キャンバスの裏には、中島様によれば「画題『睡蓮』刑部人(ルビ:オサカベジン)/東京市外下落合二〇九六」と記載されている。100号を超える、180cm(H)×130cm(W)の大画面だ。
描かれた場所は、下落合2096番地にあった刑部人アトリエClick!西側の湧水池だ。このとき、新婚のふたりは刑部人25歳で鈴子夫人は22歳だった。水面(みなも)のスイレンが白い花を咲かせる池の畔に、日傘をさしてたたずむのはもちろん鈴子夫人だ。ふたりは、作品の制作年と同じ1931年(昭和6)3月28日に結婚し、竣工したアトリエへは4月7日に転居してきている。スイレンが咲いているところをみると、結婚から3~4ヶ月後の夏に描かれたもので、右手(南側)からの光線の具合から昼すぎあたりの情景だろう。
画面の右枠外、つまり湧水池の東側には竣工したばかりの刑部人アトリエがあり、画面左手に見えかけている急斜面の上には、鈴子夫人の実家である島津源吉邸Click!の大きな屋敷が建っている。また、池の西側、すなわち画家の背後には島津家が敷地内に造成した階段のある四ノ坂が通い、右手の大谷石による築垣の下には中ノ道Click!(下の道=現・中井通り)が通っているという位置関係だ。
島津家の湧水池は古くから形成されていたとみえ、大正中期にアトリエの敷地を探して下落合を訪れた、金山平三Click!のらく夫人Click!も鮮明に記憶している。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
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現在ではアヴィラ村など言っても誰も知らないであろう。しかし戦前は或る程度俗称として通用したらしく、当時の設計書には「阿比良村」Click!と書かれたものも残っており、私の書架の縮刷『大辞典』(平凡社)には、「アヴィラ…(一)-略(二)東京市下落合にある文化村。文人、画家主として住む。」と記されている。/らくによれば、麦畑に続く裏の草原には野兎が走り廻っていた。前方を見下ろすと、岡の下には滾々と溢れて尽きない天然の泉があり、ひろびろとした原野の中ほどには落合火葬場の煙突だけが目立っていた。
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刑部人の子息である刑部昭一様Click!によれば、戦後でさえ目白崖線の急斜面に鉄パイプを刺しただけで、飲料に適した清廉な地下水が噴出していたということなので、おそらく急斜面に堆積された関東ロームの数十センチ下には、豊富な地下水脈を含むシルト層が露出寸前の状態で横切っていたのではないかと思われる。
![島津源吉1926.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B3B6E6B4A5E6BA90E590891926-63140.jpg)
![刑部人アトリエ1936.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E58891E983A8E4BABAE382A2E38388E383AAE382A81936-76add.jpg)
![島津とみ・源吉・源蔵19320607.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5B3B6E6B4A5E381A8E381BFE383BBE6BA90E59089E383BBE6BA90E894B519320607-b58b1.jpg)
この湧水池は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみられるように、大正期から昭和の最初期にかけ、島津家のテニスコートとして埋め立てられていたようだが、刑部人アトリエの建設とともに改めて庭の睡蓮池として造成されたようだ。
そして、昭和10年代になると再びもとのように埋め立てられ、中島香菜様によれば再度テニスコートとして利用されていた時期があったらしい。厳密にいえば、池のある敷地は刑部人邸の敷地エリアではなく、丘上の島津邸が管理する土地だったとみられる。やがてテニスコートの跡地には、四ノ坂に面してハーフティンバーの印象的な西洋館が建設されている。この家で生まれ、3歳になるころまですごしているのが、刑部人の妹Click!の子息にあたる炭谷太郎様Click!だ。
少し余談だが、目白崖線の斜面や麓に形成された天然の湧水池は、その多くが戦後の宅地開発で埋め立てられ暗渠化(下水道化)されたけれど、現在でもそのいくつかの名残りを観察することができる。下落合だけでも、御留山Click!には弁天池をはじめ昔ながらの池が連なっているが、目白崖線の東端にある椿山Click!には、椿山荘の麓にある池をはじめ蕉雨園の藪中の湧水池(手つかずで天然池のまま)、同じく関口芭蕉庵Click!の湧水池、細川庭園(旧・新江戸川公園)の広い庭園池、旧・田中角栄邸の庭園斜面にある湧水池、学習院の血洗池Click!など、降雨による河川への流出率Click!が高いとはいえ、いまでも崖線斜面からは滾々(こんこん)と清水が湧きつづけているのがわかる。
1931年(昭和6)の『睡蓮』画面に、話をもどそう。先ほど、画家がイーゼルを立てていた位置をおおよそ推定したが、刑部人は湧水池の南西側から北東を向き、池畔にたたずむ鈴子夫人をとらえて描いていると思われる。画面を仔細に観察すると、泉からの小流れをうまく取りこんで造られた池の端には、いまだ造成間もない時期のせいか、分厚い板かトタンのようなものをタテに挿して(仮に?)縁どられているのがわかる。おそらく、刑部人アトリエの西側に改めて造成された池の、最初期の姿ではないだろうか。
![刑部人アトリエ1938.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E58891E983A8E4BABAE382A2E38388E383AAE382A81938.jpg)
![田中邸湧水池.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E794B0E4B8ADE982B8E6B9A7E6B0B4E6B1A0-70045.jpg)
ちょうど1年後の翌1932年(昭和7)6月に撮影された、島津源吉夫妻や2代目・島津源蔵が写る写真(バッケClick!の下にある睡蓮池なので、刑部アトリエ西側の池と同一のものだと思われる)を見ると、すでに池の端には板ではなく、石垣風のしっかりした縁石が組まれ変化している様子が見てとれる。同時に、池全体の規模も縁のカーブなどの様子などから、『睡蓮』に比べて写真のほうがより大きくなっている印象を受ける。ひょっとすると、刑部人の『睡蓮』はあまり人手が入れられず、ほぼ自然のままに形成された湧水池を描いたものであり、翌年の写真にとらえられた池は、庭園池として少しサイズも大きくなり、改めて造成しなおされたあとの姿なのかもしれない。
刑部人アトリエの池については、忘れてはならないエピソードがある。下落合(4丁目)2080番地にアトリエClick!を建てて住んでいた、金山平三Click!の“水遊び”だ。刑部人アトリエの建設とほぼ同時期に、島津家の庭池が整備されてくると、金山平三はさっそく大きなタライを抱えながらやってきた。まるで、佐渡のタライ舟のように池へタライを浮かべると、それに乗っては池の水面で遊んでいる。タライに座りながら、佐渡おけさClick!でも唄って踊っていたのかもしれない。
刑部人は、少々呆気にとられたかもしれないが、鈴子夫人は実家の島津邸で暮らしているころから奇妙奇天烈なことばかりする、“おかしなおかしな金山平三”Click!は周知のことなので、「金山先生、今度はそうきたのね」とニヤニヤしつつ、池の畔でお茶でも用意しながら「あらあら、先生、お気をつけあそばせ。この池、けっこう深くて冷たいんですのよ」と眺めていたのかもしれない。
中島香菜様からは、刑部人が独身時代の1927年(昭和2)、4年後に結婚することになる鈴子夫人を描いた『島津鈴子像』もお送りいただいた。そして、刑部人の子息である刑部佑三様Click!が運営されている「刑部人のアトリエ」Click!には、同作を背景に座る学生服姿の刑部人をとらえた貴重な写真が掲載されている。『島津鈴子像』は、刑部人が東京美術学校の西洋画科4年生のころの作品だ。
![刑部人1927.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E58891E983A8E4BABA1927-90458.jpg)
![刑部人夫妻1931.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E58891E983A8E4BABAE5A4ABE5A6BB1931-2d120.jpg)
![金山平三「蓮」制作年不詳.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E3808CE893AEE3808DE588B6E4BD9CE5B9B4E4B88DE8A9B3.jpg)
![刑部人「睡蓮と金山先生」モノクロ.jpg](http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E58891E983A8E4BABAE3808CE79DA1E893AEE381A8E98791E5B1B1E58588E7949FE3808DE383A2E3838EE382AFE383AD.jpg)
さて、東京土地住宅Click!によるアビラ村(芸術村)Click!計画の進展とともに、金山平三の東隣りには下落合753番地の満谷国四郎Click!が、西隣りには大久保百人町の南薫造Click!がアトリエを建てて転居してくるはずだったが、1925年(大正14)に起きた東京土地住宅の破たんで、アビラ村計画自体も白紙にもどってしまった。だが、その後も画家たちは、島津源吉邸や金山アトリエを訪れつづけている。特に島津源吉の子息である島津一郎Click!が師事していた満谷国四郎は、島津邸を訪問する機会も多かったのだろう。島津邸の庭先を描いたとみられる、特徴的な満谷作品もあるのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:1931年(昭和6)制作の刑部人『睡蓮』。以下、刑部人関連の画面や写真は、中島香菜様と刑部佑三様よりご提供の「刑部人資料」より。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる島津邸と刑部人アトリエ建設予定地。刑部邸敷地の西側に池はなく、いまだ島津家のテニスコートになっている。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる刑部人アトリエ。木々に遮られて見えないが、アトリエの西側に池があった時代だ。下は、同池の畔で撮影されたとみられる記念写真で島津源吉(中)ととみ夫人(左)、そして島津製作所の2代目・島津源蔵(右)。写真の裏には『睡蓮』が描かれた翌年、1932年(昭和7)6月17日の記載がある。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる描画ポイント。池を埋め立てた西洋館は、いまだ建設されていない。中は、刑部人アトリエ解体後(2006年)に撮影した池があったあたりの様子と豊富な地下水脈が横切るバッケ(崖地)。下は、目白崖線のあちこちに見られる泉のひとつで旧・田中角栄邸の庭園にある湧水源。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)に島津邸内で制作された刑部人『島津鈴子像』。中左は、『島津鈴子像』とともに撮影された1927年(昭和2)の刑部人。中右は、1931年(昭和6)に撮影された新婚早々の刑部人・鈴子夫妻。下は、制作年が不詳の金山平三『蓮』。おまけの下の下は、刑部人アトリエ隣接の睡蓮池でタライ舟を浮かべて佐渡おけさを踊る金山平三と、「困っちゃうな。まさか……、毎日やってくるつもりなのかなぁ?」と呆れて見まもる鈴子夫人の想像図。(爆!)