横浜・元町の入り口あたりにあった喫茶店で、カウンターのアルバイトを1年と少しの間していたのは、大学3年生のときだった。なぜ、横浜Click!の石川町界隈なのか・・・? それは、周辺に老舗のJAZZ喫茶やJAZZのライブスポットがたくさんあって、バイトを終えたあと、あるいはバイトがはじまる前に、それらの店へ出かけては好きなだけ音楽を楽しめたからだ。ちなみに、わたしがバイトをしていた喫茶店はとうにつぶれている。
当時、石川町の駅前には、鎌倉のJAZZハウス「IZA」の横浜支店である、「IZAⅡ」Click!がオープンしたばかりだった。鎌倉へ遊びに出かけるたびに「IZA」には立ち寄っていたので、横浜に支店がオープンしたのはとても嬉しかった。先年、鎌倉でJAZZバーに意匠変えした「IZA」に寄ってマスターに訊いたら、「IZAⅡ」はわずか2年ほどしか開店しておらず、すぐに大赤字で閉店しているそうだ。開店してから1年ほどで、横浜へ支店を出したのは経営ミスだと気づいたらしい。わたしは、ちょうどその間だけ、近くでバイトしながらうまく同店へ通っていたことになる。
バイト先の業務は、カウンターの中でサイフォンを使ってコーヒーをいれ、トーストやサンドイッチなどの軽食も作るという、わたしにとってはとても楽しい仕事だった。もともと、コーヒー好きで料理好きだったので世界じゅうのコーヒー豆をオーダーし、それを挽くところからはじめられ(コーヒー豆の種類は、濃いロースト系も含めれば40種類を超えていた)、20種類ぐらいのパン料理を作るのがまったく苦にならなかった。早番の日は、朝6時半に出勤してはモーニングサービス用のゆで卵とサラダ作りからはじまる。遅番の日は、午後3時ごろ出て夜の混雑に備えた仕込みをしていた。その空いた時間や、バイト時間の前後に付近を散歩しまくっていた。
まず、桜木町で降りて野毛の街並みを歩いていくと、吉田衛のおじいちゃんがやっていたJAZZ喫茶「ちぐさ」Click!があった。ここは、言わずと知れた日本最古のJAZZ喫茶で、ときどきレコードだけでなくJAZZコンボのライブも演っていた。戦後すぐのころは、占領軍の米兵たちもたくさん通ってきていたらしい。クレージーキャッツも穐吉敏子Click!も、渡辺貞夫もここから出発している。
明るい店内で、分厚いバインダーを使って綴じたディスコグラフィー(英文タイプライター打ちの手作りだった)から、好きな曲を選んでリクエストする。ふつうは、ひとりLP片面1回きりのリクエストなのだが、ほかにお客がいなくなると、吉田おじいちゃんはわたしにバインダーを持ってきて、「好きなの聴きな」とやさしく言ってくれた。「ちぐさ」では、JAZZピアノの作品をいちばん多く聴いたと思う。特に1970年代末だったから、マッコイ・タイナー(p)+オーケストレーション作品をよくかけた憶えがある。自宅で聴いても迫力がないため、「ちぐさ」の大きなスピーカーで聴きたかったのだ。
次によく通ったのは、やはり桜木町駅に近い花咲町のJAZZハウス「ダウン・ビート」だ。ここでは、オーディオの特性からホーン系の作品をよくリクエストしたけれど、とても居心地のいい店だった。何時間でもゆったりでき、本もここでずいぶん読んだ。細長い、ウナギの寝床のような店内なのだが、何時間いても飽きなかったのはソファの座りごこちが快適だったからだろう。よくかかっていたのは、50年代末から60年代初めにかけてのウェストコースト録音のアート・ペッパー(as)作品だ。この西海岸サウンドは、わたしが子どものころに湘南Click!でマイルスClick!のミュートサウンドとともに、お兄ちゃんやお姉ちゃんたちがよく聴いていた“音”だろう。
対照的なのが、関内駅近くの馬車道にあるJAZZハウス「エアジン」で、背もたれもないボロボロの綿のはみ出たイスで座りごこちは最悪だった。東京の新宿「PIT INN」Click!と並ぶ横浜「エアジン」は、ライブハウスの老舗なのでチャージ料やドリンク代が貧乏学生のわたしにはかなり高く、ちょくちょく寄るというわけにはいかなかったのだが、12月31日の大晦日にここでライブを11時45分まで聴いてから山下公園へ抜け、寒さにふるえながら港内に停泊した艦船の、年越しいっせい「ボーーッ」(汽笛)を聞くのが毎年の楽しみだった。
そして、石川町の「IZAⅡ」だ。ここもライブハウスなので高価だったけれど、「エアジン」ほどではなかった。それに、ここの料理はどれもうまく、特に専門店でもないのにピザがビックリするほど美味だったのを憶えている。「エアジン」とは異なり、日本のミュージシャンが主体だったけれど、ここで聴いた小宅珠美(fl)カルテットがとても強く印象に残っている。
バイト先の喫茶店には、さまざまな国籍のウェイトレスが働いていた。近くの中華街からきている日本に来たばかりの台湾の子もいれば、隣りの山手町に祖父母の代から住んでいる、欧米諸国の生粋浜っ子の娘たちもいた。彼女たちは、日本語の日常会話に困らないよう喫茶店のバイトを通じて会話を練習していたようで、ひょっとすると喫茶店の経営者が外国人たちのコミュニティと親しく、彼女たちの安全なアルバイト先として、優先的に引き受けていたのかもしれない。
大学の講義がなく、早番で終わった日などは彼女たちを誘って、元町の丘上をよく散歩した。現在では、「イタリア山」と呼ばれているイタリア領事館跡あたりから急坂を登り、フェリス通りを港のほうへ歩きながら「フランス山」(当時はこのような呼び方はほとんどしなかった)を降りてくる・・・というコースは、仕事で疲れたスタッフたちのよく歩く気分転換コースだった。いまよりも、もう少し緑が濃くてエリアも広く感じた元町公園から外人墓地も、息抜きには最適なスペースだった。
先日、まさにそのコースを久しぶりに歩いてきたのだが、尾根上のフェリス通り沿いに建っていた西洋館が、どもみんなキレイに整備されているのに驚いた。わたしの学生時代は、ボロボロで朽ち果てそうな、お化け屋敷のような邸もたくさんあったと思うのだが、いまではどれもこれも美しく化粧直しがされて、中には喫茶店になっている西洋館も少なくない。また、当時はけっこう残っていた日本家屋が姿を消し、丘上の住宅街はほとんどモダンな西洋館ばかりになっていた。横浜の住宅街は大磯Click!と同様、大正期ばかりでなく明治建築の西洋館がいくつかみられる貴重な街並みで、特にフェリスの丘上は全体が登録有形文化財のような風情や景観をしている。
休日に出かけたので、もう少し混んでいるかと思ったら、あまり人が歩いておらず静かで快適な散歩ができた。歩いているのは、地元の住民が多そうだ。いまの人たちは、みんなMM21のほうへ出かけてしまうのだろうか。わたしの学生時代に比べたら、元町もかなり空いていた印象だった。
ひとつ、昔と大きくちがうところがあった。フェリス女学院の前に、いかめしいガードマンたちが数十メートルおきに配置されている点だ。フェリスの校舎にカメラを向けるのもはばかられるほどで、こんないかめしい雰囲気はわたしの学生時代にはなかったことだ。ひょっとすると、フェリスへ通う女学生たちへレンズを向ける、“カメラ小僧”たちが急増した時期でもあったのだろうか?
さて先日、今年で27回忌を迎える「落合新聞」Click!の故・竹田助雄様Click!の奥様より、TOSHIROさんを通じてたいへんうれしいコメントをいただいたので、次回からはしばらくの間、再び落合地域の物語やエピソードをご紹介する記事にもどりたい。
◆写真上:領事館跡の「イタリア山」に整備された、渋谷・南平台から移築された明治建築の外交官の家(奥)と山手町から移築されたブラフ18番館(手前)。カメラを向けていたら、近所のイタズラそうな女の子がレンズの画角に入るよう、グルリとまわって走り抜けていったのが横浜らしい。
◆写真中・下:フェリス通りを歩くと、そこらじゅうが重要文化財や登録有形文化財だらけだ。ほとんど地元と思われる人しかおらず、昔の学生時代のようにゆっくりと静かな散歩ができた。