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岩崎家Click!の三菱財閥よりも10年も前に、“スリーダイヤ”の商標登録を行い、日本で最初の鉛筆工場を新宿御苑Click!の東隣り、内藤新宿1番地(現・新宿区内藤又1番地)に起ち上げた眞崎鉛筆(三菱鉛筆)についてご紹介Click!した。当初は工場に接した玉川上水(渋谷川源流)の水車で、あるいは周辺地域の水車小屋で黒鉛の粉砕を行なっていたが、その後同社の事業はどうなったろうか。
大正期に入ると、次々と鉛筆製造企業が台頭してくる。戦前までに数えられる大手企業としては、三菱鉛筆とトンボ鉛筆、コーリン鉛筆、ヨット鉛筆、地球鉛筆、森彌鉛筆などが挙げられる。国産鉛筆の品質のよさが、定着しはじめたのもこのころだ。だが、これらの鉛筆企業は日米戦争が迫るにつれ、鉛筆の原料となる米国産の木材インセンスシダー(オニヒバ)の輸入が困難となり、また黒鉛の輸入も減少して品質が急低下している。同時に、鉛筆は国から配給される統制品となり、自由に生産することが困難になった。そして、これらの鉛筆工場は戦争により、その多くが壊滅している。
戦後の復興は、空襲による都市部の被害がより大きかった東日本のほうが早い。1949年(昭和24)現在、西日本の鉛筆企業が15社に対し、東日本は95社におよんでいる。また、東京には80社(67工場)と集中化がみられた。だが、その多くは中小企業が多く、全体の55%が個人経営の小規模なものであり、全体の71%が従業員20人以下の生産現場だった。鉛筆製造の復興が本格化するのは、1950年代になってからのことだ。
日本の鉛筆が、世界市場でも目立つようになってきたのは、1955年(昭和30)ごろからだ。年間の生産量が90万グロス(1グロス=12ダース=144本)、つまり約1億3,000万本に達し、そのうちの30%が海外へ輸出されている。さらに、1966年(昭和41)にはついに962万グロス(約14億本)となり、生産量と品質ともにドイツや米国と肩を並べる、「鉛筆大国」にまで上りつめている。ちょうど同時期には、“高級鉛筆”と呼ばれる「減らない・折れない・書きやすい」高価な鉛筆も大手2社から売され、これも世界的なヒット商品となった。三菱鉛筆(眞崎鉛筆)でいえば、uni/High-Uniシリーズのことだ。
また、鉛筆に付加価値をつけた香水鉛筆や誕生石鉛筆、細軸鉛筆、祝事用の金箔・銀箔鉛筆なども登場している。わたしが小学生のころ、女子たちはみんなパールカラーで塗装された細軸の香水鉛筆を筆箱の中に入れており、新製品が出ると匂いをかがせてもらったものだ。香水鉛筆には、芯を包む木材に香料を染みこませたものと、芯に香料を混ぜたものとがあったようだ。芯に香りがついていると、書いた紙面にいい匂いが移るので、女子たちには人気だったのだろう。
だが、筆記用具としての鉛筆の役割りは、1960年代後半から1970年代前半にかけてがピークで、その後は徐々に衰退をはじめている。1970年代の半ばには、生産量が500万グロスとピーク時の約半分にまで落ちこんだ。これは、シャープペンシルやボールペンが急速に台頭し、いちいち芯を削らなければならない鉛筆が敬遠されはじめたことによる。シャーペンは、なだらかな曲線を描いて普及していったのに対し、ボールペンの生産量は1970年代半ばから急激なカーブを描いて上昇している。鉛筆市場を侵食していったのは、シャーペンではなくボールペンだった。イベントなどの記念品で配られるのも、鉛筆ではなくボールペンが主流になっていった。
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鉛筆の生産量は、1990年代に入ると300万グロスにまで落ちこみ、それに拍車をかけたのが少子化だった。それでも三菱鉛筆をはじめ大手メーカーは、あの手この手で市場の縮小をくい止めようとしている。そのひとつが、鉛筆の塗装にアニメやゲームの人気キャラクターをプリントしたり、鉛筆自体をゲームのグッズにしてしまうことで、生産量の落ちこみをカバーしようとしている。1990年代の半ば、生産量がやや上向いているのは、キャラクター付きのゲーム鉛筆(勝負鉛筆)が売れに売れたからだ。わが家もそうだが、このブームで各家庭には使わない鉛筆があふれ返ることになった。
でも、鉛筆の衰退は止めることができず、現在は100万グロスにまで生産量が減少してしまった。日本鉛筆工業協同組合Click!が、鉛筆の誕生から衰退までをまとめた、「鉛筆と日本の鉛筆工業の歴史」(2012年)から引用してみよう。
▼
この少子化、消費低迷の時代にあって平成8年(1996年)、9年は鉛筆の生産が若干伸びている。これは学童文具メーカーによるアニメーション、テレビゲームなどの「漫画やキャラクターがついている鉛筆」、「ゲーム鉛筆」などメディアとタイアップした企画が小学生に受け入れられたことによるが、ブームは一時的であった。/以降、平成13年(2001年)~19年(2007年)の国内生産は、200万グロス台に減少、大手企業が海外に生産拠点を移したこともあって平成18年(2006年)には国内生産と輸入数量が逆転し、平成20年(2008年)からは、100万グロス台となっている。
▲
さて、1985年(昭和60)に福音館書店から出版された、谷川俊太郎・文/堀内誠一・絵/坂井信彦ほか・写真による『いっぽんの鉛筆のむこうに』という絵本がある。小学校の国語教科書にも取り上げられたので、記憶されている方も多いのではないだろうか。鉛筆が、さまざまな国で産出される原料を使い、日本に輸入されて1本の鉛筆に仕上がるまでの経緯を描いたものだ。
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1985年(昭和60)という年は、筆記用具の市場で鉛筆の衰退が誰の目にも明らかになっていたころで、海外を含む多彩な分業や協働によって日本製品は造られている……という教育的な視点によるものだが、特に鉛筆でなくても身近な製品で物語は成立したはずだ。ことさら鉛筆をテーマにしたのは、衰退をつづける鉛筆に対する“鉛筆世代”の愛着からだろうか。この絵本で取り上げられているのが、眞崎仁六がはじめた三菱鉛筆だ。『いっぽんの鉛筆のむこうに』は、いまから32年前の作品であり、すでに現状とは合わない記述も多くなっている。『いっぽんの鉛筆のむこうに』から、少し転用してみよう。
▼
人間は鉛筆いっぽんすら自分ひとりではつくりだせない。いまでは、どこのうちのひきだしのなかにもころがっている鉛筆だが、そのいっぽんの鉛筆をつくるためには、かぞえきれぬほどおおぜいの人がちからをあわせている。
▲
まず、黒鉛の主要輸入先としてスリランカのポディマハッタヤ一家が紹介されているが、現在は中国からの輸入がトップを占めている。次にブラジルがつづき、スリランカは3位に後退している。また、黒鉛に混ぜる粘土の産地は、ドイツとイギリスからの輸入がメインだ。米国のシエラネバダ山脈で産出する、インセンスシダー(Incense Ceder)の輸入はいまも変わらないが、太平洋を乗りこえて木材を日本に運ぶ、絵本に写真や設計図入りで紹介されたメキシコのコンテナ船「ハリスコ(Jalisco)」号(22,000t/広島で建造)は、とうに退役するか売却されたらしく、現在はより大規模な異なるコンテナ船に「ハリスコ」号(40,000t超)の名前が使われている。おそらく旧・「ハリスコ」号は、異なる船名をつけられて、現在でもどこかに就航しているのだろう。
山形県東置賜郡の川西町にある、三菱鉛筆山形工場はいまも健在だ。絵本では、大河原一家が紹介されているが、当時は塗装ラインを担当していた奥さんは、いまでは熟練工となって同工場でそのまま働いているようだ。ただし、同工場の生産品は鉛筆が減少し、ボールペンとシャーペン芯の製造が主流となっている。
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わたしも、鉛筆を使う機会がほとんどない。いや、ふだんから仕事でも生活でも筆記用具を手にするシーンが非常に少なくなってしまった。たまに使うとすれば、付箋を挿む際のシャーペンかボールペンによるメモ書きで、ほとんどがメモ類やスケジュールまで含めて、PCなどのデバイス入力に移行している。ただし、ときどきイタズラ描きする色鉛筆は手もとに置いているが、いまメーカーを確かめてみたら残念ながらファーバーカステル(ドイツ製)だった。今度買うときは、ぜひ国産の色鉛筆にしてみたいと思う。
◆写真上:製造ラインを流れる塗装待ちの鉛筆で、『いっぽんの鉛筆のむこうに』より。
◆写真中上:上は、眞崎仁六が日本で最初に内藤新宿で量産した鉛筆。柄はそのままに芯を交換できるので、今日のシャープペンシルのような仕様だった。下は、三菱鉛筆の現行品でUniシリーズの高級品「LIRICO」アライアンスバージョン。
◆写真中下:上左は、インセンスシダー(オニヒバ)を伐りだす米国の林業者。(同絵本より) 上右は、空に向けて真っすぐに伸びるインセンスシダーの樹影。下は、いまだ鉛筆が数多く置かれていた1980年代の文具店ペンスタンド。(同絵本より)
◆写真下:上左は、メキシコで1985年(昭和60)現在の旧「ハリスコ」号の船影。(同絵本より) 上右は、1985年(昭和60)に出版された『いっぽんの鉛筆のむこうに』(福音館書店)。中は、1988年(昭和63)に就役した現在の「ハリスコ」号(TMM)で、旧船に比べ40,000t超と約2倍の排水量になっている。下は、鉛筆・シャープペンシル・ボールペンの生産量推移。(日本鉛筆工業協同組合の統計より)
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岩崎家Click!の三菱財閥よりも10年も前に、“スリーダイヤ”の商標登録を行い、日本で最初の鉛筆工場を新宿御苑Click!の東隣り、内藤新宿1番地(現・新宿区内藤又1番地)に起ち上げた眞崎鉛筆(三菱鉛筆)についてご紹介Click!した。当初は工場に接した玉川上水(渋谷川源流)の水車で、あるいは周辺地域の水車小屋で黒鉛の粉砕を行なっていたが、その後同社の事業はどうなったろうか。
大正期に入ると、次々と鉛筆製造企業が台頭してくる。戦前までに数えられる大手企業としては、三菱鉛筆とトンボ鉛筆、コーリン鉛筆、ヨット鉛筆、地球鉛筆、森彌鉛筆などが挙げられる。国産鉛筆の品質のよさが、定着しはじめたのもこのころだ。だが、これらの鉛筆企業は日米戦争が迫るにつれ、鉛筆の原料となる米国産の木材インセンスシダー(オニヒバ)の輸入が困難となり、また黒鉛の輸入も減少して品質が急低下している。同時に、鉛筆は国から配給される統制品となり、自由に生産することが困難になった。そして、これらの鉛筆工場は戦争により、その多くが壊滅している。
戦後の復興は、空襲による都市部の被害がより大きかった東日本のほうが早い。1949年(昭和24)現在、西日本の鉛筆企業が15社に対し、東日本は95社におよんでいる。また、東京には80社(67工場)と集中化がみられた。だが、その多くは中小企業が多く、全体の55%が個人経営の小規模なものであり、全体の71%が従業員20人以下の生産現場だった。鉛筆製造の復興が本格化するのは、1950年代になってからのことだ。
日本の鉛筆が、世界市場でも目立つようになってきたのは、1955年(昭和30)ごろからだ。年間の生産量が90万グロス(1グロス=12ダース=144本)、つまり約1億3,000万本に達し、そのうちの30%が海外へ輸出されている。さらに、1966年(昭和41)にはついに962万グロス(約14億本)となり、生産量と品質ともにドイツや米国と肩を並べる、「鉛筆大国」にまで上りつめている。ちょうど同時期には、“高級鉛筆”と呼ばれる「減らない・折れない・書きやすい」高価な鉛筆も大手2社から売され、これも世界的なヒット商品となった。三菱鉛筆(眞崎鉛筆)でいえば、uni/High-Uniシリーズのことだ。
また、鉛筆に付加価値をつけた香水鉛筆や誕生石鉛筆、細軸鉛筆、祝事用の金箔・銀箔鉛筆なども登場している。わたしが小学生のころ、女子たちはみんなパールカラーで塗装された細軸の香水鉛筆を筆箱の中に入れており、新製品が出ると匂いをかがせてもらったものだ。香水鉛筆には、芯を包む木材に香料を染みこませたものと、芯に香料を混ぜたものとがあったようだ。芯に香りがついていると、書いた紙面にいい匂いが移るので、女子たちには人気だったのだろう。
だが、筆記用具としての鉛筆の役割りは、1960年代後半から1970年代前半にかけてがピークで、その後は徐々に衰退をはじめている。1970年代の半ばには、生産量が500万グロスとピーク時の約半分にまで落ちこんだ。これは、シャープペンシルやボールペンが急速に台頭し、いちいち芯を削らなければならない鉛筆が敬遠されはじめたことによる。シャーペンは、なだらかな曲線を描いて普及していったのに対し、ボールペンの生産量は1970年代半ばから急激なカーブを描いて上昇している。鉛筆市場を侵食していったのは、シャーペンではなくボールペンだった。イベントなどの記念品で配られるのも、鉛筆ではなくボールペンが主流になっていった。
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鉛筆の生産量は、1990年代に入ると300万グロスにまで落ちこみ、それに拍車をかけたのが少子化だった。それでも三菱鉛筆をはじめ大手メーカーは、あの手この手で市場の縮小をくい止めようとしている。そのひとつが、鉛筆の塗装にアニメやゲームの人気キャラクターをプリントしたり、鉛筆自体をゲームのグッズにしてしまうことで、生産量の落ちこみをカバーしようとしている。1990年代の半ば、生産量がやや上向いているのは、キャラクター付きのゲーム鉛筆(勝負鉛筆)が売れに売れたからだ。わが家もそうだが、このブームで各家庭には使わない鉛筆があふれ返ることになった。
でも、鉛筆の衰退は止めることができず、現在は100万グロスにまで生産量が減少してしまった。日本鉛筆工業協同組合Click!が、鉛筆の誕生から衰退までをまとめた、「鉛筆と日本の鉛筆工業の歴史」(2012年)から引用してみよう。
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この少子化、消費低迷の時代にあって平成8年(1996年)、9年は鉛筆の生産が若干伸びている。これは学童文具メーカーによるアニメーション、テレビゲームなどの「漫画やキャラクターがついている鉛筆」、「ゲーム鉛筆」などメディアとタイアップした企画が小学生に受け入れられたことによるが、ブームは一時的であった。/以降、平成13年(2001年)~19年(2007年)の国内生産は、200万グロス台に減少、大手企業が海外に生産拠点を移したこともあって平成18年(2006年)には国内生産と輸入数量が逆転し、平成20年(2008年)からは、100万グロス台となっている。
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さて、1985年(昭和60)に福音館書店から出版された、谷川俊太郎・文/堀内誠一・絵/坂井信彦ほか・写真による『いっぽんの鉛筆のむこうに』という絵本がある。小学校の国語教科書にも取り上げられたので、記憶されている方も多いのではないだろうか。鉛筆が、さまざまな国で産出される原料を使い、日本に輸入されて1本の鉛筆に仕上がるまでの経緯を描いたものだ。
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1985年(昭和60)という年は、筆記用具の市場で鉛筆の衰退が誰の目にも明らかになっていたころで、海外を含む多彩な分業や協働によって日本製品は造られている……という教育的な視点によるものだが、特に鉛筆でなくても身近な製品で物語は成立したはずだ。ことさら鉛筆をテーマにしたのは、衰退をつづける鉛筆に対する“鉛筆世代”の愛着からだろうか。この絵本で取り上げられているのが、眞崎仁六がはじめた三菱鉛筆だ。『いっぽんの鉛筆のむこうに』は、いまから32年前の作品であり、すでに現状とは合わない記述も多くなっている。『いっぽんの鉛筆のむこうに』から、少し転用してみよう。
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人間は鉛筆いっぽんすら自分ひとりではつくりだせない。いまでは、どこのうちのひきだしのなかにもころがっている鉛筆だが、そのいっぽんの鉛筆をつくるためには、かぞえきれぬほどおおぜいの人がちからをあわせている。
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まず、黒鉛の主要輸入先としてスリランカのポディマハッタヤ一家が紹介されているが、現在は中国からの輸入がトップを占めている。次にブラジルがつづき、スリランカは3位に後退している。また、黒鉛に混ぜる粘土の産地は、ドイツとイギリスからの輸入がメインだ。米国のシエラネバダ山脈で産出する、インセンスシダー(Incense Ceder)の輸入はいまも変わらないが、太平洋を乗りこえて木材を日本に運ぶ、絵本に写真や設計図入りで紹介されたメキシコのコンテナ船「ハリスコ(Jalisco)」号(22,000t/広島で建造)は、とうに退役するか売却されたらしく、現在はより大規模な異なるコンテナ船に「ハリスコ」号(40,000t超)の名前が使われている。おそらく旧・「ハリスコ」号は、異なる船名をつけられて、現在でもどこかに就航しているのだろう。
山形県東置賜郡の川西町にある、三菱鉛筆山形工場はいまも健在だ。絵本では、大河原一家が紹介されているが、当時は塗装ラインを担当していた奥さんは、いまでは熟練工となって同工場でそのまま働いているようだ。ただし、同工場の生産品は鉛筆が減少し、ボールペンとシャーペン芯の製造が主流となっている。
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わたしも、鉛筆を使う機会がほとんどない。いや、ふだんから仕事でも生活でも筆記用具を手にするシーンが非常に少なくなってしまった。たまに使うとすれば、付箋を挿む際のシャーペンかボールペンによるメモ書きで、ほとんどがメモ類やスケジュールまで含めて、PCなどのデバイス入力に移行している。ただし、ときどきイタズラ描きする色鉛筆は手もとに置いているが、いまメーカーを確かめてみたら残念ながらファーバーカステル(ドイツ製)だった。今度買うときは、ぜひ国産の色鉛筆にしてみたいと思う。
◆写真上:製造ラインを流れる塗装待ちの鉛筆で、『いっぽんの鉛筆のむこうに』より。
◆写真中上:上は、眞崎仁六が日本で最初に内藤新宿で量産した鉛筆。柄はそのままに芯を交換できるので、今日のシャープペンシルのような仕様だった。下は、三菱鉛筆の現行品でUniシリーズの高級品「LIRICO」アライアンスバージョン。
◆写真中下:上左は、インセンスシダー(オニヒバ)を伐りだす米国の林業者。(同絵本より) 上右は、空に向けて真っすぐに伸びるインセンスシダーの樹影。下は、いまだ鉛筆が数多く置かれていた1980年代の文具店ペンスタンド。(同絵本より)
◆写真下:上左は、メキシコで1985年(昭和60)現在の旧「ハリスコ」号の船影。(同絵本より) 上右は、1985年(昭和60)に出版された『いっぽんの鉛筆のむこうに』(福音館書店)。中は、1988年(昭和63)に就役した現在の「ハリスコ」号(TMM)で、旧船に比べ40,000t超と約2倍の排水量になっている。下は、鉛筆・シャープペンシル・ボールペンの生産量推移。(日本鉛筆工業協同組合の統計より)