戸山ヶ原Click!に設置された陸軍兵務局分室Click!(工作員の符牒“ヤマ”Click!)は、1937年(昭和12)の春に防衛課が発足するとともに、同年暮れには「後方勤務要員養成所」(のちの陸軍中野学校)が設立されている。同養成所は、陸軍の3大統括者だった陸軍大臣・参謀総長・教育総監のいずれにも属さず、陸軍の主要組織からは切り離された特異な存在だった。
後方勤務要員養成所の募集は、陸軍士官学校Click!や陸軍大学など主要な学校の出身者ではなく、陸軍内の強い反対を押しきって予備士官学校や普通大学の卒業者、民間の勤労者などが優先して行なわれたのも、当時としては異例中の異例だったようだ。要するに、軍人の臭いがする人物は、すべて不合格としてハネられたことになる。同養成所は、1939年(昭和14)7月に中野区囲町に校舎が完成し、翌8月には第1期生を送りだしている。1940年(昭和15)8月になると、ようやく「陸軍中野学校令」が制定されて、後方勤務要員養成所という名称は消滅した。
陸軍中野学校(養成所時代含む)が、戸山ヶ原の兵務局分室で誕生してから敗戦による消滅まで、その教育方針やカリキュラムをたどってみると、およそ3つの時代に区分できるだろうか。まず、1938~40年(昭和13~15)の3年間は、陸軍内部でも存在が厳密に秘匿され、平時に世界各地で暗躍する工作員(スパイ)を養成していた時期だ。集められた学生たちも、特に軍人らしくない人物から選ばれており、「自由主義」的な傾向の強い教育内容だった。模擬の議論では、天皇批判さえ行なわれていたのもこの時期のことで、軍人臭を徹底して排除するカリキュラムが組まれていた。
つづいて、1940~44年(昭和15~19)の5年間は、陸軍中野学校令の制定でその存在が上層部にも認知され、戦時に戦争を陰で支援する諜報・謀略戦の工作員(スパイ)を養成する方針に変わっている。そして、1945年(昭和20)の敗戦までは、それまでの教育方針とはまったく異なり、日米戦をめぐる敗色が濃い状況下で、遊撃戦(ゲリラ戦)を中心とした教育内容が採用されていた。ルバング島から帰還した小野田寛郎は、陸軍中野学校卒といっても同校本来の教育目的ではなく、戦争末期のゲリラ戦を主体とした中野学校二俣分校(静岡県)の出身だ。したがって、彼のことを陸軍中野学校出身の諜報・謀略戦に通じた「工作員」とする記述は明らかな誤りで、遊撃戦教令にもとづく「ゲリラ戦の専門家」とするほうが正しいだろう。
わずか7年間しか存在しなかった陸軍中野学校だが、その活動の中核的な拠点となっていたのは、一貫して戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)Click!だった。同校の歴史の中で、もっともスポットが当てられやすいのも、やはり1940年(昭和15)からスタートした戦時に諜報・謀略戦を遂行する工作員(スパイ)の養成課程だ。
少し余談だけれど、大映映画に市川雷蔵が主演した『陸軍中野学校』シリーズというのがある。同シリーズがスタートしてしばらくたったころ、陸軍中野学校の出身者たちでつくるグループが、撮影現場の見学に招待されたことがあったそうだ。撮影現場へ出かけていくと、同映画を監修していた「中野学校」OBが、同じ中野にあった憲兵学校の卒業生であることが判明して大笑いになったエピソードが残っている。陸軍憲兵学校は、陸軍中野学校の東側に隣接していたが、その元・憲兵学校の出身者は「中野学校」=憲兵学校だと勘ちがいしていたらしい。憲兵学校側では、西隣りの陸軍施設を参謀本部史実調査部と、アンテナ鉄塔を備えた通信基地だと認識していた。
中野学校の存在は陸軍内でも秘匿され、限られた一部の人々にしか知られていなかったせいか、同映画が撮影された当時でもこのような混乱が多かったらしい。事実、吉田茂邸へ潜入した兵務局分室のスパイClick!(中野学校出身)の存在を、憲兵隊本部でさえまったく把握していなかったことからもうかがえる。したがって、大映の『陸軍中野学校』シリーズは、私服憲兵の諜報活動サスペンス映画として観賞するのが正しいようだ。
さて、陸軍中野学校の最後の実習科目に「卒業演習」というのがあった。教室での講義を履修したあと、実地の訓練をするために商人や観光客に化けて、グループごとに海外(アジア地域)へと旅行する、いわば卒業試験旅行のような演習だ。旅行中には、多種多様な「候察」(レポーティング)の課題が出題され、卒業演習にパスしないと任務には就かせてもらえなかった。
その貴重な卒業演習の模様を撮影した写真が、元・陸軍中野学校乙Ⅱ短期及特別長期学生だった塚本繁という方の手もとに残されている。中野学校や兵務局分室の資料類は、1945年(昭和20)8月15日の敗戦とともに、ほとんどすべてが証拠隠滅のため焼却されているので、これらの写真類は中野学校の実情を知るうえでは非常に稀少な記録写真ということになる。卒業生たちは、いちおう身分は軍人なのだが長髪で私服を着用しており、言葉づかいや挙動も軍人とはほど遠い様子をしていた。(そもそも当初は、軍人教育を満足に受けていない一般人を募集していた) つまり、怪しまれずに本物の商人やビジネスマン、観光客になりきれる“才能”のある人物でなければ、中野学校を卒業できなかった。
したがって、旅先ではあちこちで憲兵隊や地元警察の不審尋問にあい、繰り返し身体検査や荷物検査を受けることになる。卒業演習は、ほとんど根まわしの行なわれていない、ぶっつけ本番のスパイ旅行だった。その様子を、1979年(昭和54)に毎日新聞社から出版された『日本陸軍史』所収の、塚本繁『中野学校“卒業演習”の旅―開戦直前の大陸をゆく―』から引用してみよう。
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天津、北京、張家口、大同、包頭と足跡をのばし、帰路は奉天を経て朝鮮経由で帰国した。/移動間には必ず兵要地誌の候察が課せられ、宿舎につくと作業に追われ、与えられた課題を消化したものであった。夜の巷に出掛ける時も民情候察がついて回った。(中略) 北京では紫禁城、天壇、天安門等々の歴史的建造物を見学、民族遺産を見てこの国の人々の民情を深く考えさせられた。/これらの見学行動にもいくつかの課題が与えられ、またその土地の憲兵の監視からいかに疑念を持たれずに行動するかも、演習の題目とされていた。不審尋問を受けたグループもあったが、巧みに偽瞞して身分の秘匿は貫き通した。
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この卒業演習は学生18名と教職員数名からなり、1941年(昭和16)8月に広島港を出発している。乗船と同時に乗組員から怪しまれ、すでに奇異の眼で見られはじめた。
旅行の途中では、すでに任務に就いている中野学校OBとひそかに落ちあい、現地での体験談を聞いて取材したり、各地の特務機関のアジトに立ち寄っては研修を受けたりしている。卒業演習は、教官から頻繁に出題されるレポートの消化と、憲兵隊の追尾からいかに逃れるかが大きな課題だったようだ。おそらく、彼ら一行には制服憲兵ばかりでなく、私服憲兵も尾行に張りついていたのではないかとみられる。つづけて、同書から引用してみよう。
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包頭は戦線の第一線で、駐屯する部隊もその住民も緊張していた。奥地より送られてくる麻薬の摘発は、各地とも厳重を極めたが、この包頭では特に厳しく、駅に降りたとたん一行は憲兵の臨検を受けてしまった。団長と憲兵とのやりとりを見ているわれわれの眼前で、嬰児を抱いた姑娘が憲兵に尋問されていた。(中略) 全行程を終わり関釜連絡船で下関に上陸した時点で、各人が携行していた旅行カバンの点検があり、莫大な資料と重要書類の内容を開陳されそうになった危機もあったが、何とかうまく切りぬけてこの集団が何者であったか露見することなく、中野の校舎に帰ったのである。
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この一行は、おもに英語やマレー語を習得した「南方班」と、ロシア語を習得した「北方班」の学生が主体だったので、中国語を話せる人物がほとんどいなかったようだ。中野学校には、対中国作戦用に「中国班」と名づけられた専門クラスが存在したが、1941年(昭和16)8月の卒業演習では「中国班」から学生が選抜され、各チームに通訳として同行していたようだ。中野学校出身の諜報・謀略要員は、兵務局分室(工作室=ヤマ)を通じて陸軍科学研究所Click!の多種多様な「兵器」を装備し、戦地や占領地へと散っていくのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:卒業演習で北京駅ホームに立つ、陸軍中野学校の学生たち一行。
◆写真中上:上は、中野学校の実質“司令部”があった戸山ヶ原の兵務局分室(工作室=ヤマ)跡の現状。中は、1970年代の空中写真にみる兵務局分室跡。下は、戦争末期に遊撃戦(ゲリラ戦)を専門に教授した静岡県の陸軍中野学校二俣分校。
◆写真中下:上は、中野学校校庭で自動車の運転実技演習。そのほか、電車・機関車・飛行機などの実技演習があった。中は、所沢飛行場の飛行学校で行われた飛行機の操縦実技演習。下は、松竹の大船撮影所で実施された宣伝工作実技演習の記念写真。
◆写真下:上から下へ、バスで目的地に到着した中野学校の卒業演習一行。北京の喫茶店にて。特務機関のアジト訪問。大同の石仏前での記念写真。先に潜入している中野学校OBとの接触取材。常に憲兵や軍人からうさん臭げに見られる卒業演習一行。