1945年(昭和20)3月10日深夜の東京大空襲Click!では、おもに大川(隅田川)の東側である向島・本所・深川一帯がB29による絨毯爆撃の目標とされ、あらかじめ意図的に避難経路を断ち無差別に東京市民の生命をねらう、徹底したジェノサイド(大量虐殺)攻撃が行われた。そのとき、本所側から両国橋をわたり、いち早く日本橋側へと避難した人々の中には「大川の近くにいちゃダメだ」という、1923年(大正12)9月1日の教訓が活かされていたケースが多々見られる。
幅の広い河川沿いは障害物や遮蔽物が少なく、大火災による空気の急激な膨張で、大火流Click!や火事竜巻Click!が起きて巻きこまれやすいという、関東大震災Click!の際に起きた事実を記憶し、教訓化していた人たちだ。ちなみに、大川の川幅は両国橋のところで約143m、大火流や火事竜巻で3万8,000人が亡くなった被服廠跡地Click!(現・震災復興記念館Click!一帯)では約125mほどある。わたしの東日本橋Click!にあった実家でも、もちろんその教訓はしっかり記憶されており、火災の方角と風向きを確認しながら大川(隅田川)とは反対方向へと逃げだした。日本橋人形町から日本橋川、東京駅、さらに山手方面へと逃れて、非常に幸運にも大空襲で命を落とした家族(親戚は除く)はいない。
東京大空襲は、3月10日午前0時8分に第1弾が投下され、焼夷弾や250キロ爆弾、そして空襲の後半には低空飛行でガソリンが住宅街へじかにまき散らされ、2時間半後の午前2時37分に終わった。この間、本所区や深川区、浅草区、向島区の4区(現・台東区/江東区/墨田区)がほぼ全滅し、死者・行方不明者10万人以上、負傷者5万人以上、家を焼かれた罹災者100万人超という空前の犠牲者が出た。特に行方不明者に関しては、一家・姻戚全滅のケースや東京へ単身でやってきた独身者の場合は、親戚や友人など周囲の証言が残りにくく、実際の犠牲者数は1.2倍とも1.5倍ともいわれている。
空襲がはじまるとともに、「大川の近くにいちゃダメだ」という生死を分けた逃避行の様子を、菊池正浩という方が書いた『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。この記録は、2015年(平成27)に日本地図センターが発行した、『1945・昭和20 米軍に撮影された日本』に収録されたものだ。著者は本所区千歳町、つまり両国橋の東詰めに住んでいて罹災している。そして、両国橋をわたりそのまままっすぐ東へ、できるだけ大川から離れるように避難しながら上野山をめざしている。
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祖父母の家は両国橋畔、隅田川沿いにあり、二階建てであった。ここまで辿り着く間の光景はあまり話したくない。これまでも人には話してこなかった。人口10万余人だったこの地が、翌日に確認できたのは僅か1千人ほどであったと知らされた。いかに凄まじい惨劇であったかがわかる。/防空頭巾と衣服が、周りの炎と火の粉で燃えだす。母は真綿入りの「ねんねこ」、私は半纏を着ていたので、布は焦げてもすぐには燃えないことがわかった。防空頭巾を被っていない女の人は、髪の毛が燃え出す。「熱いー助けてー」と叫びながら走っていく。気の毒だがどうすることもできない。コンクリート製か石なのか判らないが用水桶が家々の前にあった。火災に備えての水桶だが、その水を頭から被り濡らしてはまた走った。頭から被ってびしょびしょに濡らしても、すぐに炎の熱さで乾いてしまう。用水桶の中に身を沈め、難を逃れようとした人もいたらしいが、息継ぎのために顔を水面に出した途端、熱風と煙を吸い込み、気管を焼いて焼死したという。逃げる途中の家々では防空壕に避難したが穴の中に閉じ込められて、蒸し焼き状態になった人が多かった。両国橋まで逃げてきたが、すでに祖父母の家も風前の灯火だったので、そのまま両国橋を渡って難を免れた。
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菊池一家は、両国橋を東へわたると、そのまま両国広小路から靖国通り(大正通り)の大通りを進まず、右折して柳橋Click!から神田川をわたり、神田川と総武線にはさまれた道路を、できるだけ大川から離れるように真東へ向かっている。
そして、万世橋から右折して旅籠町から末広町を駆け抜け、黒門町を通って湯島天神Click!の境内をめざした。ところが、本郷や湯島方面からの火の手が迫っていたので、湯島天神には寄らずに上野広小路の交差点を抜け、不忍池へとたどりつくと池沿いに上野山へとようやくたどり着いている。
もし、柳橋をわたって浅草橋から蔵前、菊屋橋、松屋町を抜けて上野山方面へ最短コースで逃げようとしていたら、おそらく菊池一家は大火災に巻きこまれて助からなかっただろう。両国橋をわたり、神田川沿いをまず真東に向かって大川からできるだけ遠ざかったのが、大火流に呑みこまれないで済んだ大きな要因だとみられる。
わたしの実家にいた家族たちは、やはり川向こうの本所側に大きな火災が発生しているのを確認すると、大川からできるだけ離れるために東へと向かった。日本橋両国から橘町、久松町、人形町とたどり江戸橋あたりで日本橋川に出ると、日本橋から呉服橋をへて東京駅北口に近い大手町側へと抜ける丸の内ガードをくぐり、東京駅前へと逃れている。そこから、どこで一夜を明かしたのかは聞きそびれているが、おそらく丸の内側の駅前広場か、近くの日比谷公園にでも退避していたのだろう。
燃えるものはすべて燃え尽くし、なんとか火災が下火になってから自宅のあったあたりへと帰ったのは、菊池一家もうちの家族も同じだ。わたしの実家のなにもない焼け跡では、焼け落ちた蔵の中の小銭類までが溶けていた。親からもらったそのときの十銭銅貨Click!を、わたしはいまでも大切に保存している。
つづけて、『戦後70年、東京大空襲の実体験をもとに振り返る』から引用してみよう。
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まだ燻り続ける中を両国千歳町へ戻った。(中略) 筆舌に尽くせない惨劇であった。母は「見るんじゃないよ」と言うが、そんなわけにはいかない。真っ黒焦げになっている人、半焼のような人、隅田川にぷかぷかしている人、水で膨らんでいる溺死体、小さな子供たちの死体、鎖に繋がれたままの犬、猫も毛が焼けて皮が剥き出し、鳥籠だけが燃え爛れて鳥の姿がなくなっている。人が生活していたということが全く嘘のような光景である。/地震、土砂崩れ、台風などの災害で亡くなった光景とは違う。広島、長崎の原爆とも違う。/想像を絶する光景である。読者は何もなくなった見渡す限りの大地、雀や鳥もいない世界、犬や猫もいない世界、樹木が一本もなく植木や草花もない世界。こういう世界を想像できるでしょうか。/どのくらい経過したのか思い出せないが、大人たちはまず生存者の確認、怪我人の保護、死体処理から始めた。臭気と野犬に食べられるのを防ぐため急ぐのだそうである。隅田川、堅川、横十間川に浮いたり沈んでいる溺死体を鳶口で引っかけては大八車やリヤカーに積んで、隅田川畔や公園、空き地に穴を掘って埋めていた。埋めていたというより、どんどん放り込んでいた。
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著者は先にも記しているが、このとき10万余人いた本所区の人口は、数日後にはわずか1,000人ほどしか確認できなくなっていた。おそらく、ほぼ全滅した浅草区や深川区、向島区でも同様の状況だったろう。10万人超とされている、東京大空襲の被害者の中にさえカウントされず、たった一晩でこの世から消滅してしまった人たち、家族全員や独身者、子どもたちがはたして何千人、何万人いたのかは現在にいたるまで、地元の自治体でさえまったく把握できていない。
東京市内(東京35区Click!=現・東京23区内)は、1944年(昭和19)11月から翌1945年(昭和20)8月の敗戦時まで、都合130回にのぼる空襲を受けている。これにより、死傷者・行方不明者は25万人以上にのぼり、罹災者は300万~400万人におよんだ。当時、東京市の人口は687万人だったが、敗戦時には253万人に激減している。もちろん、地方への疎開や徴兵・徴用による移動も含まれているが、消えた434万人のうち、戦後に再び東京へ生きてもどれた人々の数を差し引いても、消えてしまった人々の数に呆然とする。
◆写真上:「猫塚」のある、本所回向院の境内で眠るネコ。証言者の菊池一家は、空襲と同時に関東大震災でも焼け残った回向院の境内へ避難するが、同院の本堂が燃えだしたのを機に急いで両国橋を東へわたって逃げる決心をした。
◆写真中上:上は、1945年(昭和20)3月10日午前10時35分ごろに米軍のF13偵察機から撮影された東京市東部の惨状。中は、両国橋東詰めに近い本所回向院の山門。下は、両国橋西詰めからつづく日本橋側の両国広小路。
◆写真中下:上は、神田川の柳橋から上流の浅草見附跡(浅草橋)を眺めたところ。中は、神田川から万世橋を望む。下は、冬枯れの上野不忍池とミヤコドリ(ユリカモメ)。
◆写真下:上は、菊池家とわたしの実家とがたどった1945年(昭和20)3月10日深夜の大川から離れる逃避経路。菊池家やわが家は逃げのびたので矢印を書けるが、逃げる途中で焼死して途切れた人々の線は10万本をゆうに超える。中は、東京駅丸の内北口で正面は新丸ビル。命からがらたどり着いた親父たちが目にして、一息ついた東京駅はこの意匠だったが、同年5月25日夜半の空襲で駅舎は炎上している。下は、丸の内北口のホール。