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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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平和博覧会で売られた1922年の地図。

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平和博ライオン塔1922.jpg
 1922年(大正11)3月10日から7月20日までの4ヶ月わたり、上野公園で平和記念東京博覧会Click!が開催された。同博覧会は、第一次世界大戦が終結し平和をとりもどした記念という名目だが、戦後に招来した不況を打開するための産業振興の目的もあったのだろう。同博覧会については、文化村住宅Click!の展示や画家たちの展覧会Click!にからめて、こちらでも何度かご紹介している。
 同博覧会の会場では、1922年(昭和11)の東京の様子をリアルタイムで記録した、最新の市街地図が販売されている。その大判地図を友人がわざわざコピーしてくれたので、さっそく落合地域を含む新宿周辺の様子を観察してみたい。まず目につくのが、太い赤線で描きこまれた東京市電の路線だ。大正中期ともなると、市電は東京市の区部を突き抜け、すでに郊外の郡部にまで達していたのがわかる。
 たとえば、牛込区を東から突き抜けて戸塚町の早稲田電停まで、同じく牛込区と四谷区を北東や東から突き抜けて淀橋町の新宿電停まで、さらに小石川区を南から突き抜けて巣鴨町の巣鴨二丁目電停や西巣鴨町の大塚駅前電停までと、東京の中心部から市電が延長されて郊外まで連絡していた様子が描かれている。
 さらに、同地図には1922年(大正11)現在の東京市電の計画路線や、計画道路のルートが描きこまれている。市電の計画路線は赤い点線で、道路の計画ルートは赤い実線で描きこまれているが、その後、実際に敷設された市電路線や道路とほとんどまるで一致しない。目白駅から高田馬場駅、新大久保駅の東側、つまり山手線の内側に引かれた市電や道路の計画ルートがメチャクチャなのだ。
 高田町の目白駅Click!東側に通う目白通り(高田大通りClick!)は、学習院の敷地が途切れるあたりから南東へ斜めに直進し、ほどなく市電の早稲田電停へと合流している。戸塚町の高田馬場駅Click!前から計画された道路は、南東へ斜めに直進し現在の早稲田通りとはまったく重ならず、戸山ヶ原Click!近衛騎兵連隊Click!のあたり(現在の諏訪通り)から東へ向きを変えると、矢来町の神楽坂通りへと連結している。また、大久保町の新大久保駅前から南東へ直進する計画道路は、やはり大久保通りとまったく重ならずに、東大久保をへて高久町あたりから東へ向きを変えると、中央線の市ヶ谷駅へと到達している。
 このような道路に共通しているのは、各駅から道路が放射状に拡がっている点だが、大正当時もまた現在も敷設されていない。また、数年たった大正末の地図類にも、このような道路計画はすでに描きこまれていない。いくら博覧会のお祭り気分的な地図にしても、あまりにいい加減かつ適当な描きこみのように思える。計画道路の中には、地元自治体や企業の希望的な道路計画、さらには地域住民たちによる「あったらいいな」と打(ぶ)ち上げた、道路・市電誘致構想までが描きこまれているのではないかと疑いたくなる。
平和博地図1.jpg
京王電気軌道追分駅1923.jpg
京王電車追分駅跡.JPG
平和博地図2.jpg
 だが、東京市が統括しているはずの市電の計画路線もまた、その後、実際に敷設されたルートとはまるでちがっているのだ。西巣鴨町の大塚駅前から計画された市電は、そのまま南へ下ると護国寺の北側あたりで西へと向きを変え、雑司ヶ谷墓地の北辺を西進すると再び南へ下り、やや東へカーブするので現・都電荒川線と同様に早稲田電停へ合流するかと思えば再び南へ向かい、甘泉園の南西で早稲田通りとクロスし、西へほぼ直角に向きを変えて諏訪町を東西に横断している。そのまま高田馬場駅へ向かうかと思えば、山手線の手前で再び直角に南へ折れ、陸軍が戸山ヶ原Click!に敷設した貨物引き込み線Click!のルートを山手線と平行に南へ直進すると、新大久保駅の東側で南東に向きを変え、既設されている市電の新田裏電停に接続して、新宿電停へと連絡している。また、新田裏電停をすぎた同線は、京王電気軌道(現・京王線)の始点である追分駅(のち新宿駅)と連結する予定だった。
 東京市電のこのような計画ルートは、大正期の地図でも、また戦前の地図でもかつて一度も見たことがない。地図の制作者が、当時の道路敷設計画図や市電計画路線図を参照して描きこんだのだろうが、その計画図からしていい加減で適当だったのではないかと思えてくる。だが、平和博が開かれた1922年(大正11)という年に留意すると、これらのメチャクチャな計画路線が、実はなんらかの根拠があって描かれていたのだと推測できる。すなわち、翌1923年(大正12)9月に起きた関東大震災Click!の影響だ。
 これらの道路や市電の敷設計画は、関東大震災を境にすべてが白紙にもどり、震災後の復興計画でイチからの練り直しになった路線ではなかろうか。大正初期から中期にかけての、東京市電や道路計画について詳しくはないので不明だが、東京市あるいは東京府(道路計画の場合)に由来するなんらかの書類で、これらの路線が描きこまれた根拠のある資料を、地図の制作者がどこかで見ているのではないだろうか。そうでなければ、ここまで当時の市街図へ確信的に描きこめるとは思えないからだ。これらの計画は、大震災を契機にすべてがチャラになってしまった……そんな気が強くするのだ。
平和博地図3.jpg
王子電気軌道大塚駅北口(明治末).jpg
平和博地図4.jpg
 さて、同地図に描かれた落合地域を見てみよう。1922年(大正11)現在なので、下落合も上落合も自治体はいまだ落合村(1924年より落合町)の時期だった。同地図では、下落合は東半分までしか採取されておらず、下落合の西半分と西落合、そして上落合の大半は地図の枠外となっている。現・新宿区の東部は東京市(東京15区Click!)の郊外であり、1932年(昭和7)の「大東京」時代(東京35区Click!)を迎えるまでは、まだ少し間がある時代だ。当然、西武線Click!(現・西武新宿線)は存在せず、目白駅始点Click!の敷設計画が陸軍の要望で建設物資の搬入に好都合な、戸山ヶ原Click!に近い高田馬場始点に変更されたばかりとみられるころだ。
 東京府による下落合の道路計画も描きこまれていない。目白通りから南下し、佐伯祐三Click!が描く「八島さんの前通り」Click!を拡幅して西坂を下る補助45号線(中野板橋線)計画は、関東大震災の以前からあったと思われるが、平和博の市街図には描きこまれていない。補助45号線は、1931年(昭和6)になってルートを全面的に変更し、西へ移設Click!された下落合駅前へと向かう聖母坂Click!として敷設されている。
 また、同じく目白通りの子安地蔵から下落合を斜めに南下し、七曲坂を右折して下落合氷川社Click!の北側を境内沿いに通過して、田島橋から栄通りを抜けて早稲田通りへと合流する、東京府補助72号線(戸塚落合線)はすでに描きこまれているけれど、これは昭和期に入ると改めて拡幅をともなう再整備が予定されていたものだろうか。氷川明神社の南側にあった、西武線の旧・下落合駅Click!前を通過する補助72号線(同補助線を意識して旧・下落合駅が設置された可能性もある)は、のち1929年(昭和4)ごろに十三間道路(放射7号線)計画に吸収され、西落合からつづく大道路は旧・下落合駅前から田島橋をわたり、栄通りをへて早稲田通りへと合流する計画になっていた。
 さらに、落合村を細かく見ると、個人邸が3つ採取されている。のちに近衛町となる旧・近衛篤麿邸Click!(当時は近衛文麿Click!邸)と、御留山の相馬孟胤邸Click!、そして西坂の徳川義恕邸Click!だ。1922年(大正11)の当時、すでに東京土地住宅による近衛町開発Click!はスタートし、実際に敷地も販売されはじめていた時期だが、解体されたはずの近衛邸が母家の形状や家令宅とみられる別棟まで含めて採取されている。また、目白通りを越え下落合村に隣接する高田町雑司ヶ谷旭出(現・目白3丁目)には、相馬邸に匹敵するほどの大屋敷だった戸田康保邸Click!(1934年より徳川義親邸Click!)が、ちょうど豊島郡と豊多摩郡の境界線にかかって見にくくなっているが採取されている。
平和博地図5.jpg
落合町市街図1927.jpg
高田馬場仮駅跡.JPG
 平和博と同年の1922年(大正11)に電化された、池袋駅を始点とする武蔵野鉄道Click!(現・西武池袋線)は当然描かれているが、上屋敷駅Click!(1929年設置)も椎名町駅Click!(1924年設置)も存在しないので記載されていない。ちなみに、追分駅を始点とする京王電気軌道は、当時の細かな駅名まで含めて記載されている。1927年(昭和2)に開業する小田原急行鉄道(現・小田急線)は未記載だが、新宿駅の北側には荻窪から淀橋町角筈まで通っていた、西武電気軌道(西武電車)の新宿駅までの延長予定線らしいラインが引かれている。だが、新たな道路計画と軌道が重なるせいか赤点線ではなく、赤実線として記載されている。

◆写真上:平和博第1会場に建てられた、奥から文具館・ライオン塔・建築館・平和館。
◆写真中上は、1922年(大正11)発行の平和記念東京博覧会で販売された地図から新宿周辺の様子。は、1923年(大正12)ごろに撮影された京王電気軌道始点の追分電停に停車する京王電車(上)と、新宿伊勢丹デパート前の追分電停跡の現状(下)。は、同地図より戸山ヶ原から大久保にかけての様子。
◆写真中下は、同地図より池袋から雑司ヶ谷にかけての様子。は、明治末か大正初期に撮影された大塚駅前(北口)で谷端川をわたる王子電気軌道の王子電車。は、同地図の下落合から上落合、戸塚町、高田町あたりの様子。
◆写真下は、同地図より下落合部分の拡大。は、同地図から5年後の1927年(昭和2)に制作された「落合町市街図」。陸軍鉄道連隊の演習で建設Click!された西武電鉄が、山手線・高田馬場駅の東側へと抜ける最後のガード工事Click!を行なっている。そのため、山手線西側には高田馬場仮駅が設置され、駅前から神田川をわたり早稲田通りまで木製とみられる長い連絡桟橋Click!が仮設されていた。は、高田馬場仮駅跡(正面)の現状。

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