1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で、第二文化村Click!の下落合4丁目1655番地(現・中落合4丁目)にあった安倍能成邸Click!は、膨大な図書や資料とともに全焼Click!した。このあと、安倍能成は目黒区駒場にあった第一高等学校の同窓会館2階へと避難し、そこで戦後まで“疎開”生活を送っている。当時、安倍は第一高等学校の校長をつとめていた。
一方、近衛町Click!の下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)にアトリエがあった安井曾太郎Click!は、中国への写生旅行で体調を崩し、1945年(昭和20)3月に帰国すると、そのまま秩父鉄道の沿線にある埼玉県大里郡寄居(よりい)へと静養がてら疎開している。近衛町の安井アトリエClick!が焼けたのは、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!のときであり、安井は自宅やアトリエが全焼するのを目にしていない。
敗戦の直後、ふたりの疎開先へ間をおかずに訪ねた人物がいる。当時は第一高等学校の教授だった、フランス文学者で随筆家の市原豊太だ。彼は一高の同窓会館2階へ安倍能成を訪ねた際、安井曾太郎が描いたあちこちが焼け焦げだらけの『安倍能成氏像』(1944年)を目にしている。肖像の顔面は、ほとんど損傷がなかったようだが、白い麻の背広を描いた部分は火の粉をかぶり、キャンパスに点々と焦げ跡や穴をあけていたようだ。現在、カラーで撮影された同作には、そのような損傷は見られないので、おそらく戦後しばらくして修復されたものだろう。
市原豊太は、安井曾太郎が描いたイスに座る全身像の『安倍能成像』(1944年)と、白い麻製の背広を着た半身像の『安倍能成氏像』(同年)の双方を見ているが、一高の同窓会館で傷つきながらも保管されていたのは、半身像の『安倍能成氏像』だったことがわかる。安倍のもとを訪ね、同作と再会したときの様子を1947年(昭和22)に養徳社から出版された、市原豊太『内的風景派』から引用してみよう。
▼
自分は、安井さんの無比な精進の一成果が、他の貴賤さまざまな物財と同じく、人知れぬ間に、黙々として戦禍の犠牲になりかけたことを思つてゐると、この肖像画が恰も一つの生きものでもあるかのやうに、如何にもいぢらしく感ぜられるのであつた。その晩は偶々御馳走で少し酔加減でもあつたが、その暫く前、夏目(漱石)さん御自身の呈辞のある数々の小説の初版本や書画幅を始め、その他の貴いものが、下落合の空襲でムザムザと灰になつてしまつたことに対する愛惜か憤りのやうなものも手伝つて「これは先生だけのおたからではありませんから」といふやうなことを言ひながら、殆ど先生の許諾も待たず、その翌日秩父の山中へこの画を持つて行くことにした。併し先生は、秩父へ行くなら寄居(よりい)に疎開中の安井さんをも訪ねるやうにと言はれた。(カッコ内引用者註)
▲
これによれば、市原豊太は駒場の一高同窓会館2階に避難している安倍能成を訪ねた翌日、秩父Click!の上長瀞駅の付近に住んでいた友人「堀口稔君」を訪ねて、頑丈な蔵の中へ焼け焦げだらけの『安倍能成氏像』を預けると、その足で秩父鉄道に乗って寄居駅近くに疎開していた安井曾太郎を訪ねている。なぜ、そのまま傷んだ絵を持参して、作者の安井曾太郎へ修復を依頼しなかったのかは不明だ。
安井曾太郎が疎開をしていたのは、あちこちに煤けて黒い木材が見える農家を改造した、かなり小さめな2階家だったようだ。家具調度もあまりなかったようだが、市原豊太はタンスの前にポツンと置かれた文楽人形を目にしている。あいにく、安井曾太郎は荒川河畔の写生に出ていて不在で、市原豊太は文楽人形としばらく“対座”することになった。同書から、つづけて引用してみよう。
▼
竹へぎを編んで黒漆を塗つたつづらのやうな面の箪笥、その扉には大きく「丸に剣酢漿草(けんかたばみ)」の定紋が朱漆で描いてある。この黒い箪笥の前に、そして座敷の隅になる所に文楽の人形が一つ坐つてゐる。丸髷の中年増で薄鼠色の小紋縮緬を着てゐるが、黒繻子の帯の下からはみ出した腰おびは実にやはらかなとき色であつた。「時雨の炬燵」のおさんにでもなれさうなこの人形は、つつましく膝を半ば折るやうにして、稍うつむき加減に手をつかへている。
▲
農家を改造した家らしいから、それほど室内が明るかったとは思えないが、通された座敷に文楽人形があったら、しかも首(かしら)Click!だけでなく心中天網島(しんじゅう・てんのあみじま)の「おさん」のような中年増(ちゅうどしま)が全身で座っていたりしたら、ふつうはギョッとするのではないだろうか。市原豊太は、さすがに不気味で気持ちが悪かったとは書けないので、仔細にすみずみまで観察した様子を記録している。
やがて、荒川の写生からもどった安井曾太郎が、半袖の白シャツに鼠色のズボン姿で現れると、おそらく安倍能成の肖像画についての話が出ただろう。このとき、焼け焦げだらけになってしまった『安倍能成氏像』について、市原豊太は直接安井に修復依頼をしているのかもしれない。このとき、疎開先の画室を案内された市原は、1944年(昭和19)に描かれた安倍能成のデッサンを1枚、安井曾太郎から譲り受けている。寄居に疎開中の安井曾太郎画室の様子を、同書より再び引用してみよう。
▼
暫くして、仕事場を見せて下さるといふ思ひがけない言葉に、心を躍らせながら画伯について急な狭い階段を昇つた。毛布のやうな地にプリミチフな感じのとびとび紋様のある大きな布が----これは蒙古の毛織物ださうであるが----幾つも拡がつて居り「全身像」の灰青色の椅子もあつた。堅い窮屈さうな椅子だ。画架には山の手に赤屋根の多く並んだ港の小品が掛つてゐて、又傍には水彩画のやうな感じのする北京のやはらかな風景も貼つてあつた。
▲
文中の「全身像」とは、半身像の『安倍能成氏像』(1944年)と同時期に制作された『安倍能成像』のことで、安井曾太郎は下落合のアトリエからいくつかの調度や備品を、寄居の疎開先まで運んでいるのがわかる。
市原豊太が、近々一高のキャンパスで校内美術展が開催される予定なのを伝えると、安井曾太郎は「ソレはいいですな」と賛同している。プロの画家たちが満足に仕事もできない、物資が欠乏して食べるのにもこと欠く混乱した世相なのに、若い学生たちが美術に熱心なのは自分自身の励みにもなると感じたらしい。ほどなく、一高で開催された校内美術展には、市原が譲り受けた安井曾太郎のデッサン「安倍能成像」が架けられている。
◆写真上:第一高等学校があった、東京大学の駒場キャンパス。
◆写真中上:上は、1944年(昭和19)2月から夏にかけて制作された安井曾太郎『安倍能成氏像』(左)と、同『安倍能成像』(右)。中は、安倍能成が2階に“疎開”していた現存する旧・一高同窓会館。下は、安井曾太郎(左)と安倍能成(右)。
◆写真中下:上は、寄居へ疎開中の1945年(昭和20)に描かれた安井曾太郎『荒川風景』。中は、1946年(昭和21)制作の同『寄居風景』。下は、寄居の安井邸に置かれていた天網島時雨炬燵に登場する「おさん」に近い中年増の首(かしら)。
◆写真下:上は、秩父鉄道と八高線が乗り入れる寄居駅。中は、1947年(昭和22)に養徳社から刊行された市原豊太『内的風景派』の表紙(左)と中扉(右)。同書の装丁や挿画は、同じフランス文学者の渡辺一夫(六隅許六)が担当している。下は、六隅許六こと渡辺一夫(左)と、六隅許六が装丁した1950年(昭和25)に月曜書房から刊行された加藤周一『ある晴れた日に』(右)。