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第三府営住宅の11号、すなわち下落合1542番地にアトリエを建てて住んでいた、帝展の洋画家・長野新一Click!のことを改めて調べているとき、ついでに周辺に住む住民についてもチェックしてみた。すると、同じ第三府営住宅の24号つまり下落合1599番地に、同じ帝展画家の江藤純平Click!のアトリエがあったことが判明してご紹介している。
東京府が実施していた府営住宅制度Click!とは、その名称から今日イメージされるような、自治体が住宅を建てて家賃貸しするのではなく、おもにサラリーマンを対象に土地を確実に手に入れ、その上に自分好みの住宅を建てるのをサポートする、持ち家一戸建て建設・取得のための積立金制度のようなものだった。
長野新一や江藤純平も、作品が確実に帝展などの展覧会へ入選するようになり、また美術教師などの収入も堅調だったので、府営住宅制度を利用して下落合にアトリエを建設しているのだろう。長野新一は、1933年(昭和8)に39歳で死去しているが、アトリエ周辺に拡がる大正期の「下落合風景」を制作し、江藤純平はおもにアトリエの中で人物や静物の作品を多く残している。
さて、第三府営住宅を観察しているとき、長野新一アトリエの南側に隣接する住宅(16号=下落合1588番地)についても調べてみた。「若林」という戸名が採取されているので、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)で調べてみると、なんと陸軍参謀本部が所管する陸地測量部の班長で、陸地測量師だった若林鶴三郎の家であることが判明した。
そのことが、頭に隅にずっとひっかかっていたので、改めて府営住宅内を調査すると、目白文化村Click!の第一文化村西側に接している第四府営住宅の20号、すなわち下落合1636番地には、同様に陸地測量部班長で陸地測量師の佐藤武道が住んでいた。第三府営住宅の若林邸と、第四府営住宅の佐藤邸は、直線距離でわずか100m余しか離れていない。このふたりについての記述を、『落合町誌』から引用してみよう。
▼
陸地測量師/陸地測量部班長 若林鶴三郎 下落合一,五八八
陸地測量師/陸地測量部班長/正六位勲三等 佐藤武道 下落合一,六三六
▲
ふたりの班長のうち、佐藤武道は叙位叙勲を受けているので、すでに公務員を退職したか、あるいは退職間近だったのかもしれない。
以前、陸地測量部が1929年(昭和4)10月16日に作成した、1/10,000地形図の校正用紙(第1校紙版)の詳細についてご紹介Click!している。製図科の第1班(水澤班長)および第3班(水谷班長)の班員たちが校正作業に当たり、製図科長を兼務していた第1班の水澤班長が最終決裁を行っている。つまり、製図科内はいくつかの班に分かれており、その中の有力な班の班長が製図科長を兼務するというのが、陸地測量部の部局内における組織的な慣例だったようだ。一般企業の役職に当てはめてみると、班長が「課長」に相当し、科長が「部長」職に相当するだろうか。
つまり班長とは、陸地測量部の業務における実務レベルの最前線に立つ技師たちの責任者であり、現場の仕事をすべて掌握しているエキスパートということになる。今日の官公庁における課長と同様に、現場の仕事を取りまとめて稟議を上げ、決済印をもらって業務を具体的に実行する“実働部隊”のキャップということだ。陸地測量部の班長が、下落合に近接してふたりも住んでいるということは、その周辺には『落合町誌』には収録されていない、陸地測量師(科員や班員)たちが集まって住んではいなかっただろうか。
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当時の陸地測量部の組織には、地図制作に関する主要部局として三角科、地形科、製図科の3つの科が存在した。三角科は、全国にある三角点Click!の管理・運用をする部門であり、地形科は地形測量・調査を行う部門、そして製図科はそれらのデータをもとに各種地図を制作する部門だ。以前ご紹介した1/10,000地形図の校正用紙は、地図制作に携わる製図科の仕事ということになる。上記ふたりの人物が、どこの科に属していたのかは不明だが、わたしは地形科ないしは製図科ではないかと疑っている。
このサイトでは、10年以上前から陸地測量部が作成した1/10,000地形図における、地名(字名)の不可解な移動について、繰り返し何度も触れてきた。そのひとつは、大正初期までの地形図では青柳ヶ原Click!(現・国際聖母病院Click!の丘)の西側に口を開けた谷戸に、「不動谷」とふられていたものが、大正中期になると300mも西へ移動Click!して、第一文化村からつづく前谷戸の位置にふられるようになる。1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡史』付属の地図でも、青柳ヶ原の西側に刻まれた谷戸が「不動谷」とされているし、また1967年(昭和42)に新宿区教育委員会が発行した資料Click!でも、聖母坂の西側に食いこんだ谷戸が「不動谷」と規定されてもいる。
だが、陸地測量部の1/10,000地形図では、なぜか1918年(大正7)から「不動谷」が前谷戸の位置へと大きく移動している。以降、地元でつくられる地域地図、たとえば「下落合事情明細図」や「落合町全図」などでは、陸地測量部の地図に合わせて「不動谷」は西へ移動したままとなっている。ちなみに、「前谷戸」は谷戸そのものを指すネームであり、谷戸自体ではなく「谷戸の前にある土地」を字名として呼称する場合は、江戸東京の地名に関する“お約束”にならえば、「谷戸前」にならなければおかしい。したがって、落合第一小学校Click!の前に口を開けた谷間は、本来「前谷戸」と呼ばれていたのだろう。
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同じような不可解な地名(字名)に、「中井」Click!がある。江戸期には目白崖線の麓にある、低地の集落(現・中井駅北東100~150mほどの麓域)につけられていた通称「中井村」Click!が、なぜか下落合(旧・中落合/中井含む)でもっとも標高が高い、城北学園(現・目白学園)の東側一帯(標高37.5m)の字名「大上」に取って代わり、大正末から昭和初期のわずかな期間だけ「中井」にされていたからだ。具体的には、1923年(大正12)以前の1/10,000地形図では字「大上」となっていたものが、同年以降に字「中井」に変更され、1930年(昭和5)には再び「大上」へともどされている。すなわち西武電鉄Click!が開通し、下落合駅の次の駅名が「中井」駅に決定してからもどされている。
「不動谷」あるいは「中井」の地名移動は、製図科の校正で記載ミスを発見した際のアカ入れ修正などではなく、明らかに地図制作側の作為的な意思を強く感じるのだ。両地名の移動には、製図科の班員または班長、さらには科長の意向が強く反映していたとすれば、いったい誰の意向を忖度して地名の改竄を行なったものだろうか。w
たとえば、「不動谷」が西へと移動した大正中期は、箱根土地の堤幸次郎Click!が目白文化村の開発を準備し、目白通り沿いの土地を府営住宅地として東京府に寄付するとともに、「不動園」Click!(のち目白文化村の第一文化村エリア)と名づけた郊外遊園地を建設していた。そして、堤は1924年(大正13)には、衆議院議員に初当選している。また、「中井」が丘上の字名「大上」に取って代わったころ、西武鉄道Click!が最終的な軌道コースClick!を企画している最中であり、鉄道駅を誘致したい落合町長は、上落合側から付けられた地名ではなく、ことさら下落合側に記録が残る地名(字名)の実績をつくりたかったのではないか。当時の落合町長は、1903年(明治36)から1928年(昭和2)まで実に25年間も就任していた、ワンマンで有名な川村辰三郎Click!だった。
もし、これらワンマンな地元の有力者たちが個々に、あるいは双方が連携して、下落合に住んでいた陸地測量部の実務責任者へ、地名変更に関する請願を朝な夕なに行ったとしたら、はたして聞く耳をもたずに断りきれるだろうか。あるいは、贈り物・接待攻勢にあっているのかもしれないが、政治的なモメゴトを起こさないために、あるいは「村八分」に遭わないためにも、地図制作上でなんらかの忖度(意向)が働かなかったとは、いいきれないのではないだろうか。
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若林鶴三郎と佐藤武道のふたりが、どれほど1/10,000地形図の制作にかかわっていたかは不明だし、また、いまとなっては地形科ないしは製図科に属していたかもわからない。さらに、あとどれだけ陸地測量部に関わる有力者たちが、大正期の落合地域に住んでいたのかも、『落合町誌』のみの資料では不足している。でも、彼らが現場の実務をこなす“班長”というトップの立場にいる以上、同じ町内から自治体事業をより有利に導くための、なんらかの働きかけや仄めかしがあっても、決して不思議ではないだろう。
◆写真上:下落合1588番地の、第三府営住宅16号にあった若林鶴三郎邸跡。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)10月26日に行われた1/10.000地形図の校正第1稿。右側には校正を担当した各班員と班長の捺印に、科長「水澤」の決裁印が押されている。中は、同じく校正中の1/10,000地形図の部分拡大で、偶然にも第三府営住宅にある陸地測量部班長・若林邸のヨゴレを「トル」指定が書きこまれている。下は、下落合西部の大上斜面あたりから写生したとみられる長野新一『落合村』(1926年)。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる陸地測量部班長の2邸。中・下は、大正中期に起きた「不動谷」の西への移動。
◆写真下:上は、大正末から昭和初期にかけて短期間に起きた「大上」→「中井」→「大上」の不可解な変更。中は、大上の麓・御霊下(のち下落合5丁目)にあった稲葉の水車小屋Click!と養魚場を描いた長野新一『養魚場』(1924年)。下は、目白文化村に接する下落合1636番地の第四府営住宅20号にあった佐藤武道邸跡。
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第三府営住宅の11号、すなわち下落合1542番地にアトリエを建てて住んでいた、帝展の洋画家・長野新一Click!のことを改めて調べているとき、ついでに周辺に住む住民についてもチェックしてみた。すると、同じ第三府営住宅の24号つまり下落合1599番地に、同じ帝展画家の江藤純平Click!のアトリエがあったことが判明してご紹介している。
東京府が実施していた府営住宅制度Click!とは、その名称から今日イメージされるような、自治体が住宅を建てて家賃貸しするのではなく、おもにサラリーマンを対象に土地を確実に手に入れ、その上に自分好みの住宅を建てるのをサポートする、持ち家一戸建て建設・取得のための積立金制度のようなものだった。
長野新一や江藤純平も、作品が確実に帝展などの展覧会へ入選するようになり、また美術教師などの収入も堅調だったので、府営住宅制度を利用して下落合にアトリエを建設しているのだろう。長野新一は、1933年(昭和8)に39歳で死去しているが、アトリエ周辺に拡がる大正期の「下落合風景」を制作し、江藤純平はおもにアトリエの中で人物や静物の作品を多く残している。
さて、第三府営住宅を観察しているとき、長野新一アトリエの南側に隣接する住宅(16号=下落合1588番地)についても調べてみた。「若林」という戸名が採取されているので、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)で調べてみると、なんと陸軍参謀本部が所管する陸地測量部の班長で、陸地測量師だった若林鶴三郎の家であることが判明した。
そのことが、頭に隅にずっとひっかかっていたので、改めて府営住宅内を調査すると、目白文化村Click!の第一文化村西側に接している第四府営住宅の20号、すなわち下落合1636番地には、同様に陸地測量部班長で陸地測量師の佐藤武道が住んでいた。第三府営住宅の若林邸と、第四府営住宅の佐藤邸は、直線距離でわずか100m余しか離れていない。このふたりについての記述を、『落合町誌』から引用してみよう。
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陸地測量師/陸地測量部班長 若林鶴三郎 下落合一,五八八
陸地測量師/陸地測量部班長/正六位勲三等 佐藤武道 下落合一,六三六
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ふたりの班長のうち、佐藤武道は叙位叙勲を受けているので、すでに公務員を退職したか、あるいは退職間近だったのかもしれない。
以前、陸地測量部が1929年(昭和4)10月16日に作成した、1/10,000地形図の校正用紙(第1校紙版)の詳細についてご紹介Click!している。製図科の第1班(水澤班長)および第3班(水谷班長)の班員たちが校正作業に当たり、製図科長を兼務していた第1班の水澤班長が最終決裁を行っている。つまり、製図科内はいくつかの班に分かれており、その中の有力な班の班長が製図科長を兼務するというのが、陸地測量部の部局内における組織的な慣例だったようだ。一般企業の役職に当てはめてみると、班長が「課長」に相当し、科長が「部長」職に相当するだろうか。
つまり班長とは、陸地測量部の業務における実務レベルの最前線に立つ技師たちの責任者であり、現場の仕事をすべて掌握しているエキスパートということになる。今日の官公庁における課長と同様に、現場の仕事を取りまとめて稟議を上げ、決済印をもらって業務を具体的に実行する“実働部隊”のキャップということだ。陸地測量部の班長が、下落合に近接してふたりも住んでいるということは、その周辺には『落合町誌』には収録されていない、陸地測量師(科員や班員)たちが集まって住んではいなかっただろうか。
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このサイトでは、10年以上前から陸地測量部が作成した1/10,000地形図における、地名(字名)の不可解な移動について、繰り返し何度も触れてきた。そのひとつは、大正初期までの地形図では青柳ヶ原Click!(現・国際聖母病院Click!の丘)の西側に口を開けた谷戸に、「不動谷」とふられていたものが、大正中期になると300mも西へ移動Click!して、第一文化村からつづく前谷戸の位置にふられるようになる。1916年(大正5)に出版された『豊多摩郡史』付属の地図でも、青柳ヶ原の西側に刻まれた谷戸が「不動谷」とされているし、また1967年(昭和42)に新宿区教育委員会が発行した資料Click!でも、聖母坂の西側に食いこんだ谷戸が「不動谷」と規定されてもいる。
だが、陸地測量部の1/10,000地形図では、なぜか1918年(大正7)から「不動谷」が前谷戸の位置へと大きく移動している。以降、地元でつくられる地域地図、たとえば「下落合事情明細図」や「落合町全図」などでは、陸地測量部の地図に合わせて「不動谷」は西へ移動したままとなっている。ちなみに、「前谷戸」は谷戸そのものを指すネームであり、谷戸自体ではなく「谷戸の前にある土地」を字名として呼称する場合は、江戸東京の地名に関する“お約束”にならえば、「谷戸前」にならなければおかしい。したがって、落合第一小学校Click!の前に口を開けた谷間は、本来「前谷戸」と呼ばれていたのだろう。
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「不動谷」あるいは「中井」の地名移動は、製図科の校正で記載ミスを発見した際のアカ入れ修正などではなく、明らかに地図制作側の作為的な意思を強く感じるのだ。両地名の移動には、製図科の班員または班長、さらには科長の意向が強く反映していたとすれば、いったい誰の意向を忖度して地名の改竄を行なったものだろうか。w
たとえば、「不動谷」が西へと移動した大正中期は、箱根土地の堤幸次郎Click!が目白文化村の開発を準備し、目白通り沿いの土地を府営住宅地として東京府に寄付するとともに、「不動園」Click!(のち目白文化村の第一文化村エリア)と名づけた郊外遊園地を建設していた。そして、堤は1924年(大正13)には、衆議院議員に初当選している。また、「中井」が丘上の字名「大上」に取って代わったころ、西武鉄道Click!が最終的な軌道コースClick!を企画している最中であり、鉄道駅を誘致したい落合町長は、上落合側から付けられた地名ではなく、ことさら下落合側に記録が残る地名(字名)の実績をつくりたかったのではないか。当時の落合町長は、1903年(明治36)から1928年(昭和2)まで実に25年間も就任していた、ワンマンで有名な川村辰三郎Click!だった。
もし、これらワンマンな地元の有力者たちが個々に、あるいは双方が連携して、下落合に住んでいた陸地測量部の実務責任者へ、地名変更に関する請願を朝な夕なに行ったとしたら、はたして聞く耳をもたずに断りきれるだろうか。あるいは、贈り物・接待攻勢にあっているのかもしれないが、政治的なモメゴトを起こさないために、あるいは「村八分」に遭わないためにも、地図制作上でなんらかの忖度(意向)が働かなかったとは、いいきれないのではないだろうか。
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◆写真上:下落合1588番地の、第三府営住宅16号にあった若林鶴三郎邸跡。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)10月26日に行われた1/10.000地形図の校正第1稿。右側には校正を担当した各班員と班長の捺印に、科長「水澤」の決裁印が押されている。中は、同じく校正中の1/10,000地形図の部分拡大で、偶然にも第三府営住宅にある陸地測量部班長・若林邸のヨゴレを「トル」指定が書きこまれている。下は、下落合西部の大上斜面あたりから写生したとみられる長野新一『落合村』(1926年)。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる陸地測量部班長の2邸。中・下は、大正中期に起きた「不動谷」の西への移動。
◆写真下:上は、大正末から昭和初期にかけて短期間に起きた「大上」→「中井」→「大上」の不可解な変更。中は、大上の麓・御霊下(のち下落合5丁目)にあった稲葉の水車小屋Click!と養魚場を描いた長野新一『養魚場』(1924年)。下は、目白文化村に接する下落合1636番地の第四府営住宅20号にあった佐藤武道邸跡。