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1928年(昭和3)から、会津八一Click!の弟子のひとりが落合地域に住みついている。落合町葛ヶ谷4番地(のち西落合1丁目3番地/現・西落合1丁目9番地)で、創作版画の雑誌「白と黒」や「版芸術」を白と黒社から発行していた美術家の料治熊太だ。料治熊太の名は、このサイトでも曾宮一念Click!の会津八一に関する証言や、中村忠二・伴敏子アトリエClick!をご紹介したときにも、すでに登場している。
料治熊太は、自身でも創作版画を手がけたが、むしろ版画雑誌の発行者としてのほうが知られているだろうか。1928年(昭和3)に博文館を退社すると、葛ヶ谷4番地に家を建てて、翌1929年(昭和4)から「白と黒」を創刊し、つづけて「版芸術」を1941年(昭和16)まで西落合で発行しつづけている。彼が発行する版画雑誌を通じて、平塚運一や谷中安規、棟方志功、前川千帆などが作品を発表していった。
また、料治熊太は古美術に関する評論でも活躍し、浮世絵や焼き物のコレクター・研究家としても知られている。このあたり、古美術に造詣が深いのは師の会津八一ゆずりなのだろう。葛ヶ谷(西落合)に転居してきた、1928年(昭和3)から1935年(昭和10)までは霞坂の秋艸堂Click!に、同年から1945年(昭和20)までは目白文化村Click!の第一文化村にあった秋艸堂Click!(旧・安食邸Click!)へと、足しげく通っていたと思われる。
さて、友人に料治熊太の著名入りの書籍『明治の版画』(光芸出版/1976年)をいただいたので、同書を通じて落合地域における料治熊太の仕事と、彼がもっとも賞揚する小林清親の明治版画について少し書いてみたい。小林清親の光線画については、以前もこちらでご紹介Click!しているが、今回は彼が日本橋の米沢町、つまり両国橋西詰め近くの両国広小路沿いでのちの日本橋区(西)両国、つまりわたしの故郷である現・東日本橋の同じ町内に住んでいたことについて、そこで起きた惨事とともに少し触れてみたい。
料治熊太の活動について、端的に表現していると思われる論文に日本女子大学の近藤夏来『創作版画運動と谷中安規』(2009年)がある。その一部を、少し引用してみよう。
▼
料治は、全6タイトル150冊もの版画雑誌を世に送った人物なのだが、彼が、『白と黒』と同時に手がけた『版芸術』は、機械刷りを採用して、部数を500部に広げ、50銭という安さをもって大衆化の意図をより鮮明にしたものであった。/版画人達が、いかに大衆を惹きつけるかを考え、その答えとしての表現方法に違いはあれど、大衆文化の急成長とは裏腹に、閉塞してゆく創作版画に焦燥感を抱え、多くはかつての錦絵のあり方に範を求めて模索した点は共通している。/そして、彼らの多くに、やがて転機が訪れる。30年代の後半、日本は軍国化への大きな一歩を踏み出す。そうした状況において、料治熊太は1934,5年頃から郷土玩具の採集と記録に傾倒するようになり、1938年には、版画界から身を退いている。
▲
戦後も、料治熊太は創作版画界へ復帰することなく、もっぱら古美術研究に没頭しているように見える。西落合の仕事場は、浮世絵や骨董などの蒐集品であふれ返ることになった。特に浮世絵は、江戸期に定着した浮世絵の手法や“お約束”には縛られないで、自由な表現で描けるようになった「横浜絵」や、新しい感覚の明治東京版画に注目している。
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中でも、もっとも高い評価と賛辞を惜しまないのが光線画の小林清親だった。清親は、洋画風の写実を江戸期からつづく浮世絵の伝統に取り入れ、従来の作品には見られなかった風景や場の“空気感”をみごとにとらえて表現し、奥行きのある明治浮世絵を確立している。以降、浮世絵風の版画で風景を描写する作家たち、たとえば人気が高かった井上安次や小倉柳村たちは、すべて清親を規範とするようになった。
料治熊太の清親に対する評価は、他の版画家たちに比べて群を抜いている。上掲の『明治の版画』から、当該箇所を引用してみよう。ちなみに、1980年代に清親ブームが起きたのは、料治熊太の清親研究や評価がその底流にあったからだろう。
▼
明治時代に小林清親が出たことは、明治の誇りといえるのである。なぜなら、いくら下村観山や狩野芳崖が当時偉い画家であったとしても、彼らの作品が明治の時代を謳歌していたわけでもなければ、その息吹があふれていたわけでもない。しかるに小林清親の作品になると、作品の中に明治十年の息吹が生きている。時が生きているばかりでなく、それを描いたその日の時刻が生きている。その日の気象が生きている。それはとりもなおさず、その時代に確かに生きていたということを物語っているのである。(中略) 明治の版画家として、小林清親の残した仕事は絶対のものであった。それから後、どんな偉大な版画家が出たとしても、清親ほど心の奥底から東京を愛した人は出ないであろう。それほど、彼はふるさと東京を、全霊を捧げて描いた人だった。
▲
清親の光線画と呼ばれた、およそ95作品の「東京名所図」シリーズは、1876~1881年(明治9~14)のわずか6年間、彼が日本橋米沢町で旗本出身の妻と暮らしているときに描かれている。年齢的には、清親が28歳から33歳までのことだ。米沢町のどこに自宅があったのかは不明だが、本所生まれの彼は大川(隅田川)Click!と大橋(両国橋)Click!の近くを離れがたかったのだろう。
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清親が光線画をやめたのは、1881年(明治14)に起きた両国大火で自宅が全焼してからだ。同年1月26日に、神田松枝町から出火した火事は強い北西風にあおられて、神田岩本町から大和町へ延焼し、やがて日本橋区から大川をわたり本所区、やがては深川区までを焼き尽くし、ようやく16時間後に消し止められた。焼失面積は実に42万m2を超え、焼失家屋1万数千戸という被害は、明治を通じて最大の火事被害となった。
日本橋米沢町にあった小林清親の自宅は全焼しているが、彼は自宅にいた妻子を放り出したまま、火事場の写生に走りまわっていた。同じく、日本橋米沢町(現・東日本橋)にあった明治期のわたしの実家も全焼しているはずだが、両国大火について親父から話を聞いた憶えがない。おそらく、祖父母の世代は話を聞かされていただろうが、その後に起きた関東大震災Click!と東京大空襲Click!の被害があまりにケタ外れだったので、両国大火は相対的に伝承の比重が下がったのだろう。神田区・日本橋区・本所区・深川区の52町を呑みこんだ大火で、4万人近い罹災者が出ている。
以来、清親が「東京名所図」シリーズの制作をやめてしまったのは、大川をはさみ江戸情緒をたたえた街並みが両国大火で丸ごと失われ、モチーフの喪失と失望感から気力が萎えてしまったのかもしれない。それでも、両国大火のあとに再建された街並みは、いまだ江戸の雰囲気を強く継承していたはずだが、清親が再び「東京名所図」(いわゆる光線画)の筆をとることはなかった。同様のことが、関東大震災で再び旧・江戸市街地の情緒が失われた際にも、画家や作家を問わず表現者の間で少なからず起きている。
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さて、料治熊太は描画から彫りや刷りまで作者が手がける、創作版画(新版画)の雑誌「白と黒」や「版美術」を発行していたが、それは1907~1911年(明治40~44)に発行されていた版画雑誌「方寸」(方寸社)を規範とし、その流れの継承を意識したものだろう。「方寸」は、石井伯亭Click!や山本鼎Click!、森田恒友Click!、戸張孤雁、岡本帰一、津田清楓、南薫造Click!、斎藤与里Click!、坂本繁二郎、平福百穂Click!、倉田白羊Click!、太田三郎、織田一麿Click!らが集まって、本格的な創作版画運動を推進する舞台となった。
◆写真上:葛ヶ谷4番地(現・西落合1丁目9番地)にあった、料治熊太邸(白と黒社)跡。
◆写真中上:上は、料治熊太が発行していた版画雑誌「白と黒」(左)と「版芸術」(右)。中は、1976年(昭和51)に光芸出版から刊行された料治熊太『明治の版画』(左)と著者の署名(右)。下は、西落合の自邸で蒐集品に囲まれる料治熊太。
◆写真中下:上は、1929年(昭和4)制作の前川千帆『品川八ツ山』。中は、同年制作の平塚運一『新東京百景/日本橋』。下は、1940年(昭和15)制作の谷中安規『大川端』。本所国技館と大川の角度から、浜町公園から眺めた風景だと思われる。
◆写真下:上は、1881年(明治14)1月26日のスケッチを木版画にした小林清親『両国大火浅草橋』。中は、同日に浜町からスケッチした小林清親『両国大火』で、大橋(両国橋)の左手で炎上するのが清親の自宅やわたしの実家があった日本橋米沢町界隈。右手の水面が大川で、左手の水面が現在は日本橋中学校が建っている埋め立て前の薬研堀Click!の堀口だろう。下は、火災の鎮火後しばらくたってから描かれたとみられる小林清親『両国焼跡』。左手に大橋(両国橋)の仮設橋らしい情景が描かれているので、日本橋側の両国広小路を焼けた吉川町から描いているとみられ、向かいの半焼けの家々が米沢町界隈。
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1928年(昭和3)から、会津八一Click!の弟子のひとりが落合地域に住みついている。落合町葛ヶ谷4番地(のち西落合1丁目3番地/現・西落合1丁目9番地)で、創作版画の雑誌「白と黒」や「版芸術」を白と黒社から発行していた美術家の料治熊太だ。料治熊太の名は、このサイトでも曾宮一念Click!の会津八一に関する証言や、中村忠二・伴敏子アトリエClick!をご紹介したときにも、すでに登場している。
料治熊太は、自身でも創作版画を手がけたが、むしろ版画雑誌の発行者としてのほうが知られているだろうか。1928年(昭和3)に博文館を退社すると、葛ヶ谷4番地に家を建てて、翌1929年(昭和4)から「白と黒」を創刊し、つづけて「版芸術」を1941年(昭和16)まで西落合で発行しつづけている。彼が発行する版画雑誌を通じて、平塚運一や谷中安規、棟方志功、前川千帆などが作品を発表していった。
また、料治熊太は古美術に関する評論でも活躍し、浮世絵や焼き物のコレクター・研究家としても知られている。このあたり、古美術に造詣が深いのは師の会津八一ゆずりなのだろう。葛ヶ谷(西落合)に転居してきた、1928年(昭和3)から1935年(昭和10)までは霞坂の秋艸堂Click!に、同年から1945年(昭和20)までは目白文化村Click!の第一文化村にあった秋艸堂Click!(旧・安食邸Click!)へと、足しげく通っていたと思われる。
さて、友人に料治熊太の著名入りの書籍『明治の版画』(光芸出版/1976年)をいただいたので、同書を通じて落合地域における料治熊太の仕事と、彼がもっとも賞揚する小林清親の明治版画について少し書いてみたい。小林清親の光線画については、以前もこちらでご紹介Click!しているが、今回は彼が日本橋の米沢町、つまり両国橋西詰め近くの両国広小路沿いでのちの日本橋区(西)両国、つまりわたしの故郷である現・東日本橋の同じ町内に住んでいたことについて、そこで起きた惨事とともに少し触れてみたい。
料治熊太の活動について、端的に表現していると思われる論文に日本女子大学の近藤夏来『創作版画運動と谷中安規』(2009年)がある。その一部を、少し引用してみよう。
▼
料治は、全6タイトル150冊もの版画雑誌を世に送った人物なのだが、彼が、『白と黒』と同時に手がけた『版芸術』は、機械刷りを採用して、部数を500部に広げ、50銭という安さをもって大衆化の意図をより鮮明にしたものであった。/版画人達が、いかに大衆を惹きつけるかを考え、その答えとしての表現方法に違いはあれど、大衆文化の急成長とは裏腹に、閉塞してゆく創作版画に焦燥感を抱え、多くはかつての錦絵のあり方に範を求めて模索した点は共通している。/そして、彼らの多くに、やがて転機が訪れる。30年代の後半、日本は軍国化への大きな一歩を踏み出す。そうした状況において、料治熊太は1934,5年頃から郷土玩具の採集と記録に傾倒するようになり、1938年には、版画界から身を退いている。
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戦後も、料治熊太は創作版画界へ復帰することなく、もっぱら古美術研究に没頭しているように見える。西落合の仕事場は、浮世絵や骨董などの蒐集品であふれ返ることになった。特に浮世絵は、江戸期に定着した浮世絵の手法や“お約束”には縛られないで、自由な表現で描けるようになった「横浜絵」や、新しい感覚の明治東京版画に注目している。
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中でも、もっとも高い評価と賛辞を惜しまないのが光線画の小林清親だった。清親は、洋画風の写実を江戸期からつづく浮世絵の伝統に取り入れ、従来の作品には見られなかった風景や場の“空気感”をみごとにとらえて表現し、奥行きのある明治浮世絵を確立している。以降、浮世絵風の版画で風景を描写する作家たち、たとえば人気が高かった井上安次や小倉柳村たちは、すべて清親を規範とするようになった。
料治熊太の清親に対する評価は、他の版画家たちに比べて群を抜いている。上掲の『明治の版画』から、当該箇所を引用してみよう。ちなみに、1980年代に清親ブームが起きたのは、料治熊太の清親研究や評価がその底流にあったからだろう。
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明治時代に小林清親が出たことは、明治の誇りといえるのである。なぜなら、いくら下村観山や狩野芳崖が当時偉い画家であったとしても、彼らの作品が明治の時代を謳歌していたわけでもなければ、その息吹があふれていたわけでもない。しかるに小林清親の作品になると、作品の中に明治十年の息吹が生きている。時が生きているばかりでなく、それを描いたその日の時刻が生きている。その日の気象が生きている。それはとりもなおさず、その時代に確かに生きていたということを物語っているのである。(中略) 明治の版画家として、小林清親の残した仕事は絶対のものであった。それから後、どんな偉大な版画家が出たとしても、清親ほど心の奥底から東京を愛した人は出ないであろう。それほど、彼はふるさと東京を、全霊を捧げて描いた人だった。
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清親の光線画と呼ばれた、およそ95作品の「東京名所図」シリーズは、1876~1881年(明治9~14)のわずか6年間、彼が日本橋米沢町で旗本出身の妻と暮らしているときに描かれている。年齢的には、清親が28歳から33歳までのことだ。米沢町のどこに自宅があったのかは不明だが、本所生まれの彼は大川(隅田川)Click!と大橋(両国橋)Click!の近くを離れがたかったのだろう。
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清親が光線画をやめたのは、1881年(明治14)に起きた両国大火で自宅が全焼してからだ。同年1月26日に、神田松枝町から出火した火事は強い北西風にあおられて、神田岩本町から大和町へ延焼し、やがて日本橋区から大川をわたり本所区、やがては深川区までを焼き尽くし、ようやく16時間後に消し止められた。焼失面積は実に42万m2を超え、焼失家屋1万数千戸という被害は、明治を通じて最大の火事被害となった。
日本橋米沢町にあった小林清親の自宅は全焼しているが、彼は自宅にいた妻子を放り出したまま、火事場の写生に走りまわっていた。同じく、日本橋米沢町(現・東日本橋)にあった明治期のわたしの実家も全焼しているはずだが、両国大火について親父から話を聞いた憶えがない。おそらく、祖父母の世代は話を聞かされていただろうが、その後に起きた関東大震災Click!と東京大空襲Click!の被害があまりにケタ外れだったので、両国大火は相対的に伝承の比重が下がったのだろう。神田区・日本橋区・本所区・深川区の52町を呑みこんだ大火で、4万人近い罹災者が出ている。
以来、清親が「東京名所図」シリーズの制作をやめてしまったのは、大川をはさみ江戸情緒をたたえた街並みが両国大火で丸ごと失われ、モチーフの喪失と失望感から気力が萎えてしまったのかもしれない。それでも、両国大火のあとに再建された街並みは、いまだ江戸の雰囲気を強く継承していたはずだが、清親が再び「東京名所図」(いわゆる光線画)の筆をとることはなかった。同様のことが、関東大震災で再び旧・江戸市街地の情緒が失われた際にも、画家や作家を問わず表現者の間で少なからず起きている。
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さて、料治熊太は描画から彫りや刷りまで作者が手がける、創作版画(新版画)の雑誌「白と黒」や「版美術」を発行していたが、それは1907~1911年(明治40~44)に発行されていた版画雑誌「方寸」(方寸社)を規範とし、その流れの継承を意識したものだろう。「方寸」は、石井伯亭Click!や山本鼎Click!、森田恒友Click!、戸張孤雁、岡本帰一、津田清楓、南薫造Click!、斎藤与里Click!、坂本繁二郎、平福百穂Click!、倉田白羊Click!、太田三郎、織田一麿Click!らが集まって、本格的な創作版画運動を推進する舞台となった。
◆写真上:葛ヶ谷4番地(現・西落合1丁目9番地)にあった、料治熊太邸(白と黒社)跡。
◆写真中上:上は、料治熊太が発行していた版画雑誌「白と黒」(左)と「版芸術」(右)。中は、1976年(昭和51)に光芸出版から刊行された料治熊太『明治の版画』(左)と著者の署名(右)。下は、西落合の自邸で蒐集品に囲まれる料治熊太。
◆写真中下:上は、1929年(昭和4)制作の前川千帆『品川八ツ山』。中は、同年制作の平塚運一『新東京百景/日本橋』。下は、1940年(昭和15)制作の谷中安規『大川端』。本所国技館と大川の角度から、浜町公園から眺めた風景だと思われる。
◆写真下:上は、1881年(明治14)1月26日のスケッチを木版画にした小林清親『両国大火浅草橋』。中は、同日に浜町からスケッチした小林清親『両国大火』で、大橋(両国橋)の左手で炎上するのが清親の自宅やわたしの実家があった日本橋米沢町界隈。右手の水面が大川で、左手の水面が現在は日本橋中学校が建っている埋め立て前の薬研堀Click!の堀口だろう。下は、火災の鎮火後しばらくたってから描かれたとみられる小林清親『両国焼跡』。左手に大橋(両国橋)の仮設橋らしい情景が描かれているので、日本橋側の両国広小路を焼けた吉川町から描いているとみられ、向かいの半焼けの家々が米沢町界隈。