いまから10年ほど前、拙記事にロックケーキさんClick!が、また昨年にはお名前は不明だが下落合に住んでいた田辺尚雄Click!について、重ねてコメントをお寄せいただいた。少し前の記事Click!で、取り上げるテーマや人物について美術や文学のカテゴリーばかりでなく、これからは音楽分野についても触れていきたいと書いたばかりだ。
そこで、今回は東洋音楽研究家の田辺尚雄について少し書いてみたい。田辺家は、大正時代から目白通りを北側へとわたった、下落合546番地に住んでいる。下落合540番地にあった、大久保作次郎Click!アトリエの3軒西隣りだ。音楽を研究対象にしているが、田辺尚雄は帝大の理学部物理科を卒業し、物理学の教師をしていた人物だ。田辺が音楽に興味をもったのは、大学院時代に専攻した音響心理学に起因しているのだろう。のちに、田辺は物理学の教師に加え、東京音楽学校(現・東京藝大)でも教鞭をとっている。
1936年(昭和11)に、アジアに伝わる民族音楽の研究を中心に行う東洋音楽学会を設立し、同会は現在でも上野で活動をつづけている。1983年(昭和58)より、優れた研究論文には田辺尚雄賞が授与されているようだ。また、音響学をベースにした楽器の発明者としても知られ、大正期には中国の胡弓または日本の三味、西洋のチェロとを合体させたような「玲琴」を発明している。いかにも理系の音響学を基礎にした、音が効率的に鳴り響くような設計の新楽器だが、あまり普及しているとはいえない。
f型孔つきの、チェロをコンパクトにしたような台形の箱胴に、胡弓または三味に似た竿をつなぎ合わせ、駒上には3本の金属弦を張ってチェロのアルコで弾くという、そのメンテナンスだけでもどこの楽器店へもっていけばいいのか不明な、特異な形状や仕様をしている。音色は、ビオラとチェロの中間のような響きで、弾き方にもよるのだろうがアジアの物悲しい郷愁を誘うようなサウンドで鳴る。西洋楽器風に演奏すれば、またちがった音色で響きそうな、演奏者の腕に依存するデリケートな楽器のように思える。
田辺尚雄は、怪談がなによりも好きだった。授業のはじめや合い間には、落語や怪談話をよく聞かせては、生徒たちを喜ばせている。1909年(明治42)に、当時は四谷区南伊賀町(現・新宿区若葉)に住んでいた、中学4年生になる曾宮一念Click!の証言から聞いてみよう。田辺尚雄は明治末、早稲田中学校Click!の物理学教師をしていた。1985年(昭和60)に文京書房から出版された、曾宮一念『武蔵野挽歌』から引用してみよう。
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新しい洋服を着た先生は色白の面長の美男子で四十近くに見えたが、私より十上だから二十七、八歳であった筈である。第一時間目にはギリシャの哲学者、数学者から音楽家、楽器の変遷、ついで日本物理学者の系列では田中館、寺田、つまり東西科学史を略述し、最後に「田辺尚雄がつづく」と少し頬笑んで話した。我々は烟に巻かれながら先生の小声を静粛に聞いた。ここに先生が少し頬笑んだと記したが、声を出して笑ったことも叱ったこともなかった。笑わない先生はつまらないどころか、一時間が知らぬ間に終るほど面白かった。講義が面白くて騒がぬから叱る必要もなかった。私は科学系は苦手でも田辺先生の時間をたのしみにした。物理そのものはみな忘れたのに、余談や落語の枕とも言えるものは今も憶えている。馬の話から先生は「私の顔も伸びすぎて途中で半分曲がりました」、よく見ると心もち左へ曲って見えた。これから怪談に移った。
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文中の「田中館」は、帝大を退職する際に中村彝Click!が肖像画Click!を描いた田中館愛橘Click!であり、「寺田」はその教え子だった寺田寅彦Click!のことだ。
田辺尚雄が授業で取り上げた物語は、米国で起きた列車事故で死傷者がたくさん出ているのに、後部車両の乗客がそれに気づかず眠っていたのは、列車の連結バネが優れた設計だったのだろうとか、米国の山火事に遭遇した日本人が数年後に渡米すると、いまだに延焼中だったというようなエピソードだ。また、近く地球に接近するハレー彗星について生徒が質問すると、周期的に太陽系へとやってくる彗星の宇宙での軌跡を描いて説明したが、当時の中学生たちにはよく理解できなかったようだ。
今日の高校で教える「物理」の授業よりも、はるかに面白そうな内容だったのが曾宮の文章から伝わってくる。早稲田中学を卒業した曾宮一念は、東京美術学校へと進んでしまうので物理学とは無縁になるが、なぜか恩師とは偶然も含めてときどき遭遇している。つづけて、曾宮の同書より引用してみよう。
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私は挨拶もせずに卒業して後、二度先生に会った。一度は大正四年頃、本郷会館で先生が手巻蓄音機で西洋音楽の説明をした時で、少女姿の中条百合子が来ていた。次は目白駅近くのバスで先生と偶然同席した。或いは一時学習院に出講の帰途であったか。/大正十年私は落合村にうつった。先生が同じ落合に居ることを知ったのは昭和の初めで、友人長尾雄が田辺先生の隣と知った。彼に連れられて一度先生の門を潜った日は不在で、その後無沙汰のままに過ぎた。どうして田辺先生を訪ねなかったのか、決して怖れも嫌いもせず、一つには私が不明の頭痛病にて鬱病を伴っていたからである。
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文中に登場する、曾宮の友人である長尾雄とは田辺尚雄邸の東隣り、すなわち下落合542番地に住んでいた長尾収一の息子のことだ。長尾邸は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にも収録されており、東西を大久保アトリエと田辺邸にはさまれた敷地にあたる。長尾雄は、昭和初期には慶應大学の教授をしており、「三田文学」に参加してのちに小説やエッセイ、演芸評論などを手がける文筆家だ。
父親の長尾収一は、陸軍の軍医だった人物で、在郷軍人会落合村(町)分会を組織したり町会「協和会」の会長をつとめており、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』にも写真入りで、息子の長尾修ともども紹介されている。『落合町誌』より引用してみよう。
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正五位勲三等功四級/在郷陸軍一等軍医正/協和会長 長尾収一 下落合五四二
氏は鳥取旧池田藩士にして、万延元年を以て出生、若くして笈を負ふて東上し、明治十四年内務省医術開業試験に合格し、同十六年陸軍々医学校を終了す、而して同十七年陸軍三等軍医に任ぜられ同四十二年一等軍医正に累進す、(中略) 退職後は専ら現地に在りて田園生活に浸つてゐたが落合在郷軍人分会の組織に率先して協賛し、その設立に寄与し会長たること二度、克く同会の基礎時代に盡瘁せり、現に協和会々長に推され今尚ほ公的信望を収む。家庭夫人は子爵石山基弘氏の伯母君に当られ、嗣子雄氏は慶應大学英文科の出身にて現時同校教授たり。
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ちなみに、田辺尚雄は残念ながら『落合町誌』(1932年)には収録されていない。
なぜ、訪問好きな曾宮一念が、田辺邸の訪問をたった一度だけでやめてしまったのかは、病気のせいとしているものの不明だ。曾宮は大正中期、田辺邸近く下落合544番地の借家Click!に住んでいたこともあり、周囲の街並みには馴染みがあったはずだ。田辺尚雄は教え子が訪ねてきたら、またなにか物語を語って聞かせていたのではないかと思うとちょっと残念だ。昭和初期のこの時期、田辺は音楽に関する研究へ本格的に取り組んでいたころであり、物理学のみならず音楽に関連した面白いエピソードを、たくさん知っていたと思われるからだ。
音楽にまつわる怪談や、地元の落合地域で語られていた幽霊・化け物譚などを、田辺尚雄は仕入れていやしなかっただろうか。少年だった曾宮一念が「物理」の授業中、目を輝かせながら聞き入っていた田辺尚雄の怪談だが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:下落合546番地に住んでいた、東洋音楽研究家・田辺尚雄の旧居跡。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる田辺尚雄邸と長尾収一(長尾雄)邸。下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にとらえられた田辺邸。
◆写真中下:上左は、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』収録の長尾収一。上右は、1985年(昭和60)に出版された曾宮一念『武蔵野挽歌』(文京書房)の表紙。下は、下落合542番地にあった長尾収一・長尾修邸跡(左手)の現状。
◆写真下:上左は、1951年(昭和26)に音楽之友社から出版された田辺尚雄『音楽音響学』。上右は、晩年の田辺尚雄。下は、1951年(昭和26)に「沖縄芸術使節団」の一員で沖縄を訪問した田辺尚雄(右から3番目)。田辺尚雄からひとりおいて左隣りには、「下落合風景」を描いた落合在住のニシムイClick!の洋画家・南風原朝光Click!の姿が見える。