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村山籌子の「三角アトリエ」レポート。

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村山知義アトリエ跡.JPG

 村山知義・籌子夫妻Click!が住んでいた、上落合186番地の三角アトリエClick!について、室内を詳しく紹介した文章を見つけた。アトリエ内の各部屋について、細々としたことまで詳細なレポートを書いているのはほかでもない、そこで暮らしていた村山籌子(かずこ)Click!本人だ。レポートは、1924年(大正13)8月5日に書かれており、どこか訪問記風な表現となっている。
 村山知義が、渡欧前に「たった千円」で建てた家に、自身の設計でアトリエを増築したのは1923年(大正12)5月のこと。村山(岡内)籌子と自由学園明日館Click!で結婚式を挙げたのが、翌1924年(大正13)6月15日なので、彼女のレポートは三角アトリエが竣工してから1年3ヶ月後、村山知義との新婚生活51日目のことだった。
 上落合186番地の「三角の家」は、アトリエ(変形10畳サイズ)に食堂(約4畳半でのち客間を合併して拡大?)、台所(食堂とほぼ同サイズ)、村山知義書斎(約6畳サイズ?)、村山籌子書斎(通称「勉強部屋」で中2階にあり約3畳サイズ)、風呂場(狭く1畳半ほどか?)、便所(五~六角形の妙な空間)、そして庭はかなり広くて多彩な樹木が植えられ、一部はトマト畑などの家庭菜園になっている。また、庭の一画には、村山知義の母親と弟が住む別棟が建っていた。
 村山籌子のレポートが掲載されたのは、1924年(大正13)に発行された「婦人之友」10月1日号(第18巻第10号/婦人之友社)に掲載の村山籌子『三角の家より』だ。さっそく、アトリエ内にある各部屋の様子を、実際に暮らしていた彼女にレポートしてもらおう。
  
 画室のこと/画室だけは、割合に大きくて、十畳敷位の板の間で、まるで工場のやうに荒れ果てゝゐる。方々に、柱のやうな、三角の長い隠戸棚がついてゐて、そのなかには、物尺や、絵具や、丈木や、紙や、原稿や、エハガキが、乱雑にはいつてゐるので活動写真の、変な仕掛のやうな気がして、誰もゐなくなると、一つ一つ開けてみたり、しめてみたりして、考へ込んでしまふ。本棚には、一杯本がつめこんである。壁には、壁画だの意識的構成主義の、髪の毛だの、コンクリートだの、切だの、人形だののぶらさがつた絵が一杯かけてある。そして、何でもかんでも、木の切でも、手袋の片輪でも、針金でも、空瓶でも蓄めこんであるから、物置みたやうで手がつけられない。そして、私が、時々、きたないものを、捨てようとすると、早速おこられてしまふ。
  
 村山知義アトリエの「惨状」が、目に見えるようだ。壁に架けられた木製キャンバスから、髪の毛が生えていたり人形がぶらさがっていたりしたら、夜は怖くてアトリエに入りたくないだろう。それでも片づけたい村山籌子にしてみれば、「これってゲージュツ? それともゴミかガラクタ?」と、いちいち確認したくなったにちがいない。
 モノがなくなると、村山知義は妻のせいにして探させ、「早く。早くつたら。何て、仕末の悪い人間だらう。ものをきれいにする性質なんかちつともないのね」と、自分の整理が悪いのを棚にあげ、ちょっと気持ちの悪いおネエ言葉でマヴォを、いや、ダダをこねたりしている。w
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村山知義自由学園結婚披露19240615.jpg

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村山アトリエ1924.jpg

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村山アトリエ内部1924.jpg
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村山アトリエ内部1925.jpg

  
 食堂のこと/四畳半位で、矢張り板の間で、四角でない形をしてゐるので、敷物を買ふにも、うつかり買へない。壁には、意識的構成主義の大きい壁画がある。その壁画は随分いゝもので、部屋一杯にひろがつてゐる。そんな小さい部屋で、大きい窓一つに戸が五枚もついて外へ開いてゐる。朝晩その、工合の悪いねぢを、開けたり閉めたりする。カーテンが汚いので、取りかへようと、夏地まで、たつてあるのに、まだこしらへないので、時々、はつと立ちどまつて、「おや、夏は、もうすみさうになつてゐるのではないかしら。」と驚く。
  
 「なまけ者。早く、カーテンをぬひなさい。遊んでばかりゐて。勉強をするなら、勉強をしなさい。」と村山知義にいわれ、「ぢや、勉強を致します。」ということになり、結局カーテンは汚れたままいつまでも食堂に吊るされていた。
  
 台所のこと/母さんと、弟の忠夫さんは、私が来た時から、すぐ裏の家に行つてしまつたけれど、お台所は一緒につかつてゐる。私が何でも散らかしまはり、その上、始末が悪いので、母さんの心配も一通でない。あまり、自分がだらしがないので、非常に重々しく台所と自分の性質を考へて、おそろしくなつて来ると、大急ぎで流しをきれいにして、たわしでこすつて、清潔になると、特別、楽しみ深く、美しいものをしたやうな気になつて、感じいつて見てゐる。性質として、何でも、自分はさういふ風な感じ方をするのだけれど、こんな風では、おしまひには、一体、どうなるかしら、今のうちに直さなくては、私は、もう、どうにもならなくなる。と、慄へあがつて考へるのだけれど、こんな風に、心の内で真実に感じたことは、黙つてゐて、決して誰にも話さない。話したいのだけれど、言ふと気がぬけて、ほんとにならない気がするので、だまつてゐる。
  
 台所を清潔に保ったり、整理整頓ができない……と村山籌子は悩んでいる。料理は下手でない自覚はあるが、ときどき妙な料理をこしらえては食べ残されて落胆している。要するに、勝手全般のきりもりが面倒で苦手だったらしい。勝手口を訪問する、御用聞きClick!の相手もあまり得意ではなかったようだ。
 のちに、「母さん」こと彼女の姑が「籌子さんが、口をきいてくれないの」と村山知義に訴える“事件”が発生するが、その原因はこの共同で利用していた台所あたりにありそうだ。オカズコ姐ちゃんClick!にしてみれば、よほどアタマにくることがあったのだろう。
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村山アトリエ平面図.jpg

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村山知義1925頃.jpg
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村山知義・籌子夫妻1927頃.jpg

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村山籌子1926.jpg

  
 勉強部屋のこと/台所の真上の屋根部屋が私の勉強部屋になつてゐる。勉強部屋から首を出すと、下は食堂で、活動写真館の二階のやうに見える。勉強部屋は三畳位の広さで、大きい足音をたてると、床が、きいきいなる。食堂の脇に、その、階段があるけれど巾が、二尺位しかない。なかなか細くてひぢがつかへさうで、危いやうだけれど、馴れて来ると、自由に上り下りが出来る 風通しがよくて、静かで、勉強部屋にはとてもよくて、屋根裏の詩人とか哲学者とか、連想がいゝので、すつかり喜んで「これは、いつまでたつても、私の部屋だから。」と、念に念をおして、誰も上へあげないで、ひまがあると、上にあがつて原稿紙をまるめたり、勉強したりしてゐたけれど、此頃は、御用聞が来て、上り下りが度々なので、たうたう台所の隅に本を重ねて、第二の勉強部屋にしてしまつた。
  
 村山籌子は、自身の書斎のことを「勉強部屋」と呼んでいる。上り下りがたいへんなことを夫に訴えると、御用聞きがきたら2階から怒鳴って用件を聞き、とどけものがあれば2階から滑車を使って受け取れるようにしよう……などといっている。
 ちなみに、村山知義が1974年(昭和49)に『演劇的自叙伝2』へ掲載した三角アトリエの平面図では、2階にあった村山籌子の書斎=屋根部屋が省かれて描かれている。「いつまでたつても、私の部屋だから」と宣言した屋根裏の書斎だったが、昭和初期の村山邸全面リニューアルで消滅したのではないかと思われる。
  
 其他のこと/湯殿は少しせますぎる。湯殿に丈は、ちつとも特徴がない。あつても、なくても、別に大したことにはならないやうな平凡な部屋だけれど、それが、意識的構成主義からいつていゝことかも知れない。便所は、矢張り、五角か、六角か、変な形をして、戸のハンドルが逆にまはると開き、普通開けるやうにねぢると、閉るやうになつてゐる。玄関も、細くて変則な六角形をしてゐる。そこにも、絵だの、がらくたが山のやうに積んである。庭は割合に広くて、桃、無花果、葡萄、柿の木がある。今トマトが大分大きくなりかゝつた。母さんが大切にしてゐる。
  
 まともな湯殿はともかく、ドアノブを反対にまわすと開く5~6角形のトイレや、玄関の間も6角形をしているなど、もう十分にマヴォでダダだ。
 この広い庭があったせいで、一家の副収入を考えたのだろう、村山家では大正末ごろから敷地内へ賃貸アパートの建設を含めた、自宅のリニューアル計画を実施することになる。「美術年鑑」によれば、1927年(昭和2)から1930年(昭和5)ごろまでの4年間、村山夫妻はアトリエ兼自宅を下落合735番地Click!に移している。
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村山知義舞踏1923_1.jpg

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 村山夫妻が下落合で暮らしていた1927年(昭和2)3月の初め、「アサヒグラフ」のカメラマンが画室の夫妻をとらえた、書籍などにもよく掲載される写真が2葉残されている。このカメラマンは、前年の1926年(大正15)9月1日、二科展に入選した佐伯祐三・米子夫妻Click!を下落合661番地のアトリエで撮影したのと同一人物の可能性が高そうだ。

◆写真上:月見岡八幡社跡(現・八幡公園)へと抜ける、村山アトリエ(右側)前の小道。
◆写真中上は、1924年(大正13)6月15日撮影の自由学園明日館における村山知義・籌子夫妻結婚披露パーティの様子で、正面に新郎新婦がとらえられている。は、上落合186番地に建っていた「三角の家」こと村山知義・籌子のアトリエ。は、アトリエ内部を1924年(大正13/)と1925年(大正14/)に撮影したもので、下右に写っているのは村山知義と生まれたばかりの村山亜土Click!
◆写真中下は、1974年(昭和49)出版の『演劇的自叙伝2』(東邦出版社)に掲載された三角アトリエの平面図。中左は、1925年(大正14)ごろに撮影された村山知義。中右は、1927年(昭和2)に撮影された村山夫妻で下落合のアトリエかもしれない。は、1926年(大正15)にスケッチされた村山知義『村山籌子と亜土』。
◆写真下は、1923年(大正12)に撮影されたアトリエで踊る村山知義。は、1927年(昭和2)3月の初めに下落合735番地のアトリエで撮影された村山知義・籌子夫妻。


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