落合地域に荒玉水道Click!が引かれたのは、同水道の野方配水塔Click!が1929年(昭和4)に完成し、つづいて翌1931年(昭和6)に大谷口配水塔Click!ができて、砧村の浄水場から板橋町まで全線が竣工・通水したあとだと考えていた。だが、落合地域への給水は野方配水塔ができる2年前、1928年(昭和3)11月1日からスタートしていることが判明した。
だが、落合地域は富士山の火山灰土壌(関東ローム)で濾過された、清廉で美味しい水Click!が湧く目白崖線沿いの立地だったため、本格的に水道が普及するのは戦後のことであり、水道管はなかなか一般家庭にまでは普及していない。1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』によれば、給水栓装置(いわゆる水道蛇口)の設置個数は、わずか1,880個(1932年7月現在)にすぎない。しかも、この普及数には消火栓や消防署など公共施設、工場、企業などへの給水件数も含まれており、家庭への設置件数はさらに少なかったろう。落合地域における同年現在の戸数は、7,000戸(1931年現在で6,967戸)をゆうに超えていたはずで、一般家庭への水道の普及は1割にも満たなかった可能性が高い。
落合地域の水道事業について、『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
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就中文化生活の普及上、上水道の敷設は、衛生上は勿論防疫防火の上よりも急務とし、大正十三年豊多摩、豊島両郡関係町村上水道敷設調査会に加盟し、爾来着次事業を進め、昭和三年十一月一日を以て本町一般給水を開始するに至つた。現在町内給水栓装置個数は千八百八十個である。(昭和七年五月調)
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東京の西部郊外に位置する、豊多摩郡と豊島郡に上水道が必要になったのは、もちろん関東大震災Click!直後からはじまった、市街地から郊外への人口流入だった。震災が起きた1923年(大正12)現在、すでに両郡の人口は49万2千人をゆうに超えており、震災後は爆発的に人口が増えつづけることになった。おそらく、上水設備を造っても造っても足りなかった、1960年代の神奈川県Click!のような状況だったのだろう。
もうひとつの課題として、人口が増えるほど地下水を汲みあげる量も増え、地下水脈が深く下がってしまい、既存の井戸が枯渇しはじめたことも挙げられる。特に、町村へ誘致した工場の近くでは深刻な問題で、工場や企業へ上水道を引くことにより地下水の深層化を防止するという意味合いも含まれていただろう。当時は「井戸」といっても、モーターで地下水を汲みあげて一度給水タンクClick!にため、家庭の各部屋に設置された蛇口へと給水する、水道と同じような使われ方をしている。
荒玉水道が敷設される予定の町々は、豊多摩郡と豊島郡(計画当初の郡名は北豊島郡)の合わせて13自治体におよんだ。豊多摩郡は中野町をはじめ、野方町、和田堀町、杉並町、落合町の5町。(北)豊島郡は板橋町をはじめ、巣鴨町、瀧野川町、王子町、岩淵町、長崎町、高田町、西巣鴨町にまたがる8町の計画だった。このうち、落合町とその周辺域へ給水する、本線から枝分かれした幹線は、第5幹線から第8幹線までで、落合町に給水していたのは、中でも第5幹線と第7幹線と呼ばれていた支管だった。
第7幹線は、長崎町字五郎窪Click!の武蔵野鉄道・東長崎駅付近で本線から分岐し、高田町字四谷(四ッ家Click!)、つまり現在の目白台あたりに設置された幹線終点までつづいていた。また、第5幹線は中野町青原寺付近で本線から分岐し、上落合八幡神社付近(現・八幡公園付近Click!)まで通水している。つまり、第7幹線は下落合と西落合のエリアを、第5幹線は上落合エリアをカバーしていたことになる。また、第6幹線は落合地域の西に隣接した野方・上高田一帯をカバーし、第8幹線は長崎町の北部から池袋を含む西巣鴨町一帯に給水していた。
ちなみに、第5幹線には口径400mmの水道管が使われ、第7幹線には口径500mmの水道管が採用されている。幹線ごとの給水状況を、1931年(昭和6)に東京府荒玉水道町村組合が出版した、『荒玉水道抄誌』から引用してみよう。
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第五幹線
分岐地点:中野電信聯隊西北隅裏通 経過地:吉祥寺街道ヲ東方ニ進ミ戸塚町境界ニ至ル 給水区域:野方町、落合町及中野町ノ一部
第七幹線
分岐地点:長崎町籾山牧場前(ママ) 経過地:府道第二一号線ヲ東南ニ進ミ落合町下落合ニ出テ省線ヲ横断シ学習院前ヨリ小石川区境界ニ至ル 給水区域:長崎町、落合町、西巣鴨町ノ一部及高田町ノ一部
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配水の本管から支管の一覧では、第7幹線の分岐点が長崎町の籾山牧場Click!となっているが、本文では「東長崎駅付近」が分岐点となっており、両者には200m以上の距離がある。ひょっとすると、本文に書かれているのが実際に工事を終えた分岐点で、支管一覧の表記は計画段階のリストを、そのまま掲載してしまったものだろうか。
本線・幹線含めた水道管の敷設の様子を、『荒玉水道抄誌』から再び引用してみよう。
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配水鉄管は全給水区域を十一区に介(ママ:分)ち各区の中央部に一條宛の幹線を敷設し、之より各種の支管を分岐しつゝ末流部に至るに随ひ漸次管径を縮小し、末端及各支管は隣接幹線と相互に連絡せしめ鉄管網を作り配水機能を完全ならしむ、尚五百粍(mm)以上の幹線に対しては給水副管を設く、給水区域は制水弇(えん)に依り更に九十一の断水区域に区分し非常の際に備ふるものとす、(カッコ内引用者註)
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荒玉水道で敷かれた水道管には、主管用に口径700~900mmのもの、幹線用に口径300~600mmのもの、支管用に口径75~250mmのものなど、11種類の水道管(鉄製)が使用されている。その長さは、実に43万7,286間(約80km)にもおよんだ。
余談だが、落合地域の南と南西に隣接した戸塚町(現・高田馬場地域)は、荒玉水道を利用していない。1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)によれば、当初は荒玉水道事業に加盟しようと、町議会Click!へ加盟案が提出されたが否決され、結局、郡部の水道事業ではなく東京市の水道網を延長して戸塚町内まで引き入れ、東京市へ上水分譲契約料を支払って、戸塚町独自の町営水道としてスタートさせている。水道の延長支管は、おそらく東側に隣接する牛込区から引っぱってきているのだろう。
荒玉水道は、1925年(大正14)4月の水源工事(砧村浄水場の建設)にはじまり、翌1926年(大正15)4月からの送水鉄管と配水鉄管の敷設工事、1927年(昭和2)1月からの配水塔設置を含む給水場と鉄管試験所の工事スタート、そして、1931年(昭和6)の大谷口配水塔の竣工まで、建設リードタイムに6年間を要した一大プロジェクトだった。ただし、工事を終えた区域から通水をはじめたため、1928年(昭和3)8月には試験通水と鉄管内掃除を終え、落合地域では同年11月1日から上水道の利用が可能になっている。
◆写真上:現在は災害時の貯水タンクとして使われている、荒玉水道の野方配水塔。
◆写真中上:上は、1931年(昭和6)撮影の砧村にあった荒玉水道浄水場の空中写真と全景。中は、浄水場の地下内部。下は、杉並町の荒玉水道鉄管試験所。
◆写真中下:上は、竣工間もない野方配水塔。中・下は、建設中の大谷口配水塔。
◆写真下:上は、荒玉水道の送水管埋設工事で、鉄管の口径からみて主管の埋設工事現場と思われる。中は、巣鴨町(現・豊島区巣鴨1丁目)で山手線を横断する江戸橋鉄管橋。下は、西巣鴨町の池袋病院近くで行われた消火栓の水圧テスト。