…ということで、前回予告しましたように本日からスケジュールがまったく見えない、夜間や休日に少しずつ実施予定の、So-netブログSSL対応メンテナンスに入りますので、今回が最後の記事になります。また、ここでお会いできる日を、楽しみに……。
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下落合の急坂を着物の裾をふり乱しながら、全力で駈け下りてくる異様な女性に出会い、恥ずかしくて思わず友だちに「知らない人」と答えてしまった小学生がいる。大きめな2階家へのリニューアルを終え、下落合735番地の借家アトリエから上落合186番地にもどっていた、村山知義・籌子夫妻Click!の息子・村山亜土Click!だ。坂を駈け下りてきたのは、村山亜土が「変なおばさん」と呼ぶ詩人・中野鈴子Click!で、母親と親しくしている彼女を亜土はよく知っていた。
2001年(平成13)に出版された村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』(JULA出版局)から、さっそく中野鈴子の様子を引用してみよう。
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中野鈴子さんは、中野重治さんの妹で、詩人であった。だが、子供の私には「変なおばさん」として、思い出される。度の強い黒ぶちの眼鏡をずり落ちそうにかけて、眉間にしわをよせ、油気のない髪の毛をうしろで束ね、恐らく木綿か銘仙の和服をちょっとゆるやかに着ていた。彼女は下落合の斜面の中腹に間借りをしていたのだが、ある日、私が友だちとその近くを歩いていたら、坂の上から女の人が裾をはだけて、勢いよく駈け下りて来た。友だちが、「あのおばさんは頭がおかしいらしいんだ」と言うので、よくよく見ると、鈴子さんだったので、私はあわてて電信柱のかげにかくれて、やりすごした。「君、知ってるの?」と友だちがきくので、私は、「知るもんか!」と答えた。
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戦後の中野鈴子は、小滝橋Click!や上落合もほど近い豊多摩病院Click!の裏にあたる柏木5丁目1130番地(現・北新宿4丁目)、すなわち兄・中野重治・原泉夫妻Click!の家に同居しているが、昭和初期にひとりで暮らしていたとみられる下落合の住所は、村山亜土も書き残していないので不明だ。それ以前か以降か、やはり彼女は上落合481番地で兄夫妻の家に寄宿していた。彼女が駈け下りてきた坂とは、村山亜土が通っていた落合第二尋常小学校Click!(現・落合第五小学校Click!)の近く、下落合(現・中落合/中井含む)の西部に通う坂道の可能性が高いように思う。
「変なおばさん」にされてしまった中野鈴子だが、福井の実家にいたころは地元でも美人の評判が高かった。ワンマンな親たちに、望まない結婚を無理やり二度もさせられ、そのつど彼女の側から夫に「三下り半」を突きつけて離婚している。そんな生活の苦労を重ねるうちに、面立ちがやつれてしまったのだろう。
四高で落第した兄・中野重治Click!のお目付け役として、福井の実家から金沢市古寺町の下宿で兄と同居するようになったとき、17歳だった中野鈴子は四高の短歌会で兄といっしょだった窪川鶴次郎Click!を知るようになる。やがて、彼への思慕とともに実家の“家制度”にとらえられていた彼女は、自我の解放期を迎えることになった。このとき、窪川鶴次郎は中野鈴子のことを「すずさん」と呼んで親しげだったが、窪川にはすでに愛人がいたようだ。1923年(大正12)10月26日、中野鈴子は3首の歌を詠じている。
かなし子等人をしのびつさかり来しこの砂山のやまふかみかも
照陽はげしき浜に居て木を伐る男をしみじみと君はながめり
やまみちに我の姿の見えずなりしとき声高らかに呼び給ひしかな
「すずさん!」という窪川の声が、潮の匂いのする風にのって樹々の間から聞こえてきそうな歌だが、この恋は成就しなかった。東京帝大に進んだ中野重治に連れられ、鈴子は東京にいる窪川鶴次郎へ会いにいったが、「あなたはわがままだ」という窪川の言葉に絶望している。こうして、彼女は望まない一度めの結婚を、父母から無理やり押しつけられることになった。二度めに強制された結婚生活の最中、彼女は1926年(大正15)7月に窪川稲次郎と田島稲子(のち佐多稲子Click!)の結婚を知ることになる。
1925年(大正14)2月28日から翌日にかけて書かれた、中野鈴子から窪川鶴次郎あての手紙が残っている。1997年(平成9)に幻野工房から出版された、大牧冨士夫・編著『中野鈴子-付遺稿・私の日暮らし・他-』から引用してみよう。
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(前略) この世とは、別れがあるばかりなのです。人は常に、過去をなつかしむと言ふ。それは過去の日に幸があつたからでしたでせう。遠い後の日に光を持つものはその光の日に一日も早く達することを急ぐでせう。あなたに別れて一年になるまでに日が流れてゐます。それが私にはありがたい。その間に何をして来たか、忘れ得ないものなどと言ふものは一つもなかつた。多くの人はかう言ふきもちで毎日を水のやうにながれてゐるのか。去るものをして、そのまゝ逝かしめ、来るものをしてそのまゝむかへて、人は眠るのです。かなしみもよろこびも、かまはず日がながれてゆきました。
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窪川稲子Click!(佐多稲子)は結婚後、中野鈴子が切々とつづった手紙を夫から見せられ、彼女の切ない一途さに泣いたと伝えられている。
そんな彼女たちが、わずか5年後、治安維持法違反で逮捕された中野重治や窪川鶴次郎、小林多喜二Click!、村山知義Click!らを支援するグループを形成することになるなど、夢想だにしなかったにちがいない。特に小林多喜二の救援では、村山籌子Click!や原泉Click!とともに、中野鈴子が活動の中心を担った。また、宮本百合子Click!や窪川稲子(佐多稲子)とともに、『働く婦人』の編集部員を引き受け、ときには同誌へ記事を連載している。彼女は、文芸誌の第一線で活躍するプロレタリア詩人に変貌していたのだ。窪川稲子(佐多稲子)とは親しくなり、よく肩を並べて話をしながら落合地域を散歩している。
つづけて、村山亜土『母と歩く時―童話作家村山籌子の肖像―』から引用してみよう。
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だが、母(村山籌子)は、彼女(中野鈴子)の素朴であけっぴろげな人柄を好んだようだ。そして、彼女は時々、とぼけたことを言った。「誰々さんは、私より三つ年上なのよ。だから、あと三年たてば同い年になるんだわ」。母が、「あなた、何を言ってるのよ。三年たてば、向こうも三つ年をとるのよ。同じ年になんかなるわけがないでしょ、永久に」。「あっ、そうか、そうか、そうだった」。彼女はそう言ってヒタイをポンと叩き、歯をむき出し、ゲタゲタ笑うのであった。/私が、彼女が詩人であることを知ったのは、戦後もずっと後のことで、詩集『花も私を知らない』は、北陸の農民の心を素朴に歌って、すばらしい。(カッコ内引用者註)
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なにやら、いつも村山籌子に突っこまれている大ボケかましの中野鈴子を想像してしまうが、こういうところが周囲から愛された彼女の性格(たち)なのだろう。村山亜土が電柱に隠れ、そそくさとくだんの坂道から立ち去らなければ、彼女のあとをいつも通り尾行していた特高Click!が、間をおかずに必死で駈け下りてきたのを目撃できたかもしれない。
落合地域で遅れてきた青春時代を送る、中野鈴子の面白いエピソードはまだまだたくさん眠っていそうだ。いつもおおらかで、“天然”のトンチンカンな彼女の姿ばかりでなく、ときには深刻な課題を抱え、ふだんは穏やかな壺井栄Click!から横っ面を張り飛ばされたりもしている。中野鈴子から壺井栄あてに出された、彼女らしい鄭重な「詫び状」10通が現存しているのだが、それはまた、いつか、別の物語……。
◆写真上:中野鈴子が駈け下りた可能性が高い坂のひとつ、寺斉橋近くの落合第二尋常小学校(現・落合第五小学校)へと抜けられる蘭塔坂Click!(二ノ坂)のイメージ。w
◆写真中上:上左は、1939年(昭和13)ごろ撮影の中野鈴子。上右は、戦後の中野重治・原泉夫妻。米国アニメ「シンプソンズ」のお母さんみたいな中野重治の髪の毛は、もう少しなんとかならないものだろうか。下は、もうひとつの駈け下り坂候補・三ノ坂。
◆写真中下:上は、中野鈴子が東京の兄夫妻邸へ寄宿しはじめたころの記念写真。左から右へ原泉(中野政野)、二度も望まぬ結婚を鈴子に強制した父・中野藤作、中野鈴子、中野重治。下は、上落合481番地の中野重治・原泉邸跡界隈。
◆写真下:上は、川下から眺めた妙正寺川に架かる寺斉橋で、落合第二尋常小学校は橋の左手にあった。寺斉橋の上に見えているのは、山手通り(環六)の高架。下は、旧敷地から南東へ200mほど移動した現在の落合第二小学校。
★おまけ
今年も、下落合の森には夏らしい生き物たちがたくさんもどってきた。左はカナブンの大群で、右はカブトムシ(♂)。ともに、うちの娘が見たら悲鳴をあげて卒倒するだろう。カブトムシとコクワガタClick!の♀は、かつて何度か家のベランダに飛びこんできたが、カブトムシもコクワガタも♂は住宅に近寄らないようだ。
今年三度めに卵がかえった、近くの池のカルガモ親子Click!。今回は、子ガモが最多の11羽も生まれた。またクルマが通る道路を、散歩しなければいいのだが……。