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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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大正期に落合地域へ集合する工務店。

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宮川工務店.jpg
 以前、下落合768番地に事務所をかまえていた服部政吉Click!が経営する、服部建築土木請負い事務所Click!(工務店)について記事を書いたことがある。服部工務店は、下落合の同社周辺に建っていた住宅建設を請け負っていると思われ、また新宿中村屋Click!の建築(中村屋会館)なども手がけたことが判明している。
 おそらく、郊外住宅地として注目されはじめた大正中期ごろ、下落合に事務所をかまえて営業をスタートしていると思われ、大正末の1/10,000地形図にはすでに社屋とみられる建物が採取されている。服部工務店は、建築の設計士(2名)から施工の大工たち、屋根を葺く瓦職人まで抱えており、同社に建築を依頼すれば設計から竣工まで、ワンストップで住宅や施設が建てられるような組織になっていた。
 大正期から、下落合のあちこちで確認できる建築土木請負い業(工務店)だが、もっとも早くから進出していたのが、明治末から計画が進み大正初期には建設がはじまっていた、落合府営住宅Click!の周辺域だろう。落合府営住宅の敷地は、堤康次郎Click!が東京府に寄付したもので、郊外遊園地「新宿園」Click!と同様に、遊園地「不動園」Click!のマーケット形成が目的だったとみられる。
 しかし、開発状況の進捗を見つつ、入場者数の推移と維持費との採算が合わないと判断したのか、あるいは当初からの目論見だったのかは曖昧だが、堤康次郎は不動園のプロジェクトを突然中止すると、目白文化村Click!の建設計画に切り替えている。落合府営住宅の連続的な建設(落合第一府営住宅~第四府営住宅)とともに、この箱根土地Click!の大規模な開発計画を知った市街地の工務店は、高い建築需要が見こめると踏んで落合地域への社屋移転を考えただろう。
 落合府営住宅は、東京府の制度を利用して住宅建設資金を積み立ててきたオーナーが、好みの意匠の住宅を建てられる仕組みだった。したがって、工務店も自由に選択することができ、長期にわたり面倒をみてもらえそうな、下落合とその周辺域が地元の工務店に依頼するケースも多かっただろう。箱根土地の建築部にも設計士や大工たちがいて、盛んにモデルハウス(西洋館)も建設し文化村の敷地内に展示していたが、目白文化村に建っていた住宅の大半は同社の仕事ではない。おそらく、地元の工務店が建てた住宅も少なくはなかっただろう。
 冒頭の写真は、落合第三府営住宅の近くで営業をしていた、下落合1536番地の宮川工務店の社屋だ。第一文化村に近接した北西、落合第二府営住宅のすぐ西側にあたる位置で開業していた。1925年(大正14)に撮影されたもので、当時の「大日本職業別明細図」(通称「商工地図」Click!)に広告入りで掲載されている。社屋とはいえ、まるで目白文化村か近衛町Click!に建っていそうな西洋館の意匠をしており、同社のオフィス自体がモデルハウス(自宅兼用)として機能していたのかもしれない。社主は宮川操という人物だが、残念ながら『落合町誌』(1932年)には収録されていない。
宮川操1925.jpg
宮川工務店広告.jpg
宮川工務店1925.jpg
 さて、宮川工務店から東北東へ150mほど、落合第二府営住宅の北側で目白通りに面した位置に、もうひとつ石井菊次郎が経営する石井工務店が営業していた。現在の街並みでいうと、長崎バス通りの出口にある二又交番の、目白通りをはさんで向かいにあたる位置、当時の地番でいうと下落合1521番地で開業していた。社屋の写真が残る宮川工務店よりも、むしろ目白通りに面した石井工務店のほうが、事業の規模が大きかったかもしれない。なぜなら、1926年(大正15)発行の「下落合事情明細図」を参照すると、宮川工務店の南側に「石井石材店」(下落合1597番地)が採取されており、石井工務店の系列会社だった可能性があるからだ。
 石井石材店は、1925年(大正14)発行の「商工地図」や「出前地図」には広告も含め掲載されていないが、翌年の「下落合事情明細図」には店舗が採取されている。また、13年後の「火保図」(1938年)では、すでに石井石材店の敷地へ一般の住宅が2棟建設されているので、おそらく下落合での営業期間は10年ほどではなかったかとみられる。当時の石材店は、宅地開発の築垣や塀、礎石、縁石、側溝のフタなどに用いられた大谷石に代表される石材をはじめ、住宅の庭石までを幅広く手がけているが、同時代の広告でもよく見かけるように、商材にはセメントも扱っていた。
 石井工務店の石井菊次郎もまた、宮川操と同様に『落合町誌』(1932年)の人物事業編には、残念ながら収録されていないので、どのような人物だったかは不明だ。
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 1925年(大正14)発行の「商工地図」には、落合地域から宮川工務店と石井工務店の2社だけが、裏面に広告を掲載している。また、石材店では小野大理石工場と宇田川石材店の2社がエントリーしている。おそらく、大正期に入ると郊外住宅地の大規模開発をあてこんで、多くの工務店や石材店、材木店、塗装店などが市街地から移転してきて、落合地域やその周辺域で事業をスタートしているのだろう。
 最後に余談だが、宮川工務店から第一文化村の方角(東側)へ向かう道をたどり、目白通り(小野田製油所Click!のある角地)へと出られる三間道路の左手に、「下落合事情明細図」(1926年)には「萩ノ湯」Click!(下落合1534番地)という名称で採取されている銭湯があった。この銭湯は、少し前まで「萩ノ湯」→「伊乃湯」→「人生浴場」という店名の変遷だと思っていたが、大正期の「萩ノ湯」のあとに、「第一美名登湯」という店名時代のあったことが、「火保図」を参照していて判明した。
 したがって、近隣の方々にはおなじみのこの銭湯は、大正期(おそらく創業時)から昭和初期にかけては「萩ノ湯」、1930年代後半から戦時中ぐらいまでが「第一美名登湯」、戦後から1960年代末ぐらいまでが「伊乃湯」、そして1970年代から廃業するまでの間が「人生浴場」……という経緯だったようだ。
石井工務店1925.jpg
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 わたしがアパート暮らしをしていた学生時代、最寄りの銭湯「久の湯」(旧・仲の湯)が休業のとき、たまに通った際の店名は「人生浴場」だったことになる。年に数回、ほんのたまにしか出かけない銭湯だったので、目白文化村に直近のこの店名の記憶がない。その裏側わずか40mほどの西寄りに、宮川工務店は開業していたことになる。

◆写真上:1925年(大正14)に撮影された、下落合1536番地の宮川工務店。まるで文化村住宅のような社屋で、同社のモデルハウスも兼ねていたのかもしれない。
◆写真中上は、1925年(大正14)の「商工地図」に掲載された宮川(操)工務店と石井(菊次郎)工務店。宮川工務店の位置を、まちがえて記載している。は、同地図裏面に掲載された宮川工務店と石井工務店の広告で、宮川工務店には電話が引かれていた。は、1925年(大正14)作成の「出前地図」(南北が逆)にみる宮川工務店。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる宮川工務店。は、1938年(昭和13)発行の「火保図」にみる宮川工務店。は、二度にわたる空襲から焼け残った1947年(昭和22)の空中写真にみる宮川工務店。
◆写真下は、1925年(大正14)の「出前地図」(南北が逆)にみる石井工務店。は、同年の「商工地図」裏に掲載された石材店。は、宮川工務店跡の現状。(右手)

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