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これまで、目白中学校Click!で発行されていた校友誌「桂蔭」Click!や、学習院昭和寮Click!の寮誌「昭和」Click!などを引用しながら、大正後期から昭和初期にかけての「下落合散歩」と、その周辺に拡がる風情をご紹介してきた。だが、大正前期に描写された風景は、若山牧水Click!の「下落合散歩」ぐらいしか記事にしていない。
今回は、若山牧水が記録したのとほぼ同時期の、下落合とその周辺域に拡がる風景の中を「散歩」してみたいと思う。大正初期の下落合は、いまだ東京近郊の農村地帯そのものの姿をしていただろう。開墾がむずかしい、目白崖線の斜面沿いには深い森がつづき、その森の中にはところどころに華族の別荘や山荘が点在するような風情だった。
もっとも賑やかだったのは、江戸期からつづく下落合と長崎にはさまれた清戸道Click!(せいとどう=目白通り)沿いの「椎名町」Click!界隈だった。現在の西武池袋線・椎名町駅周辺のことではなく、山手通り(環六)と目白通りの交差点あたりを中心に東西へ250mほど、全長500mほどに細長く開けていた街道沿いの街並みのことだ。目白停車場Click!の駅前Click!や周辺も、ポツポツ開発されはじめてはいたが、繁華な賑わいからいえば長崎村椎名町、あるいは落合村椎名町ほどではなかった。
当時の目白通りの様子を、岩本通雄『江戸彼岸櫻』(私家版)から引用してみよう。岩本通雄は、現在の目白聖公会の並びあたりで生まれ育っている。ただし、同書は改めて当時の状況を正確に調べ直してから執筆されたものではなく、自身の記憶のみに依存して書かれたとみられるので、不正確な記述や錯覚が多いことをあらかじめ了解いただきたい。
▼
目白駅から一丁程西に目白街道を歩いて、落合村の入口にはドイツ風のきびしい鉄門と大理石の柱が立つ戸田子爵邸がありましたが、このお屋敷中が深く砂利道で、二、三町歩いてもお屋敷が見えません。あきらめて、今度は門の所から石塀に沿うて北に歩きますと、四、五町歩いて漸く裏口に出ました。池袋から出る武蔵野鉄道(後の西武鉄道)の椎名町の駅近くになります。そして裏口の傍らには、サーベルをさげたカイゼル髭を立てた老警官が立って辺りを睨んでおりました。/明治、大正の時代はこのようにお金を出して、警官の派出所を設けることが出来たのでした。当時の言葉ではこれを請願巡査派出所と申しました。/この戸田さんのお屋敷は後に、徳川義親公のお屋敷となり、(中略) 私、通雄などは小さかったので、温室にぶらさがっている網かけメロンに目を輝かせておりました。公はクロレラも世にさきがけて研究され、栽培されておりました。/駅通りにあった戸田子爵邸の鉄門の前を南に横丁を辿りますと、近衛篤麿公爵五万坪の広い森に突き当たります。/この森は公の死後、当時の心ある政治家はおおむね、死後、井戸塀だけが残るのでして、近衛さんもこの譬に恥じず遂に、堤康次郎の手に渡り、日本最初の大文化村として小さく分割され、販売されてしまいました。
▲
さて、大正初期の下落合の様子をなんとなく感じとれる文章なのだが、このサイトをいつもお読みの方なら、あちこちに誤記憶やまちがいを発見されるだろう。
確かに、戸田康保邸Click!の正門は下落合村の「入口」、つまり目白通りの北側へ三角形状に張りだした下落合の端にあったけれど、戸田邸は高田町雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)で落合村ではない。また、戸田邸の西端は「椎名町の駅近く」ではなく、同駅までは直線距離でまだ700mも離れている。のちに徳川義親Click!が戸田家から敷地を譲りうけ、邸Click!を建設して転居してくるのは1933~34年(昭和8~9)のことなので、1909年(明治42)生まれの岩本通雄はそのとき、すでに24歳の大人になっていたはずだ。小さい子どもの「私」が、目を輝かせながら見上げた「網かけメロン」は、温室栽培が趣味だった戸田康保の大温室の情景だろう。
同文の中で、記憶の混乱はまだある。1922年(大正11)に堤康次郎Click!の箱根土地Click!が開発したのは、目白駅から離れた下落合中部の目白文化村Click!であって、目白駅が間近な下落合の丘上にある近衛町Click!ではない。近衛篤麿邸の敷地は、息子の近衛文麿Click!と学習院で同窓だった東京土地住宅Click!の常務取締役・三宅勘一Click!が、協同で近衛町開発プロジェクトを立ち上げ、目白文化村と同年に売り出したものだ。近衛町の開発を箱根土地が引き継いだのは、東京土地住宅の経営が破たんした1925年(大正14)以降のことだ。
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ウロ憶えの情景を、そのまま文章化しているせいか誤記がまま見られるけれど、およそ大正初期の下落合風景をうっすらと感じとることができる。以下、つづけて近衛町が開発される前の近衛篤麿邸跡に拡がる、深い森の情景から引用してみよう。
▼
子供の時の大きな遊び場所、夏など蝉をよくとりに行きました奥深い森は、私達の眼から消えて行ってしまいました。他人のことながら私は残念で、何か覚えていてやろうと考えて、今だ(ママ)に私の頭に残っているのはちっこい二階建の洋館の玄関についていた恨みの表札です。/帆足計。早稲田大学の先生だそうですが、世の中のうつり変り、幸、不幸を見聞きするにつけ、恐らく私には永久に忘れられない名字でしょう。相手は御公卿さんです。恐らくこれが堤さん初期の資産を形成したのではなかったでしょうか。/「上つ方」の話をなしにすると、「目白」の異った特色は又鮮かに現れて来ます。/目白駅から池袋へ向う国鉄は高台を深く掘って崖の下を走ります。/その崖の左側に洋画家、梅原龍三郎氏のアトリエがあり、戸田子爵の裏口、髭の巡査の立っていた所から西へ小半町で、日露戦争の前、ドイツからの帰途ベルリンからシベリアを単騎横断した勇者、福島安正陸軍大将五百坪の家があり、南に向い街道に近づくと、石川家と「お花さん」の家かためて三百坪、これぞ小生生誕の地でありました。
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帆足計の連れ合いである帆足みゆきClick!が設計した、帆足邸Click!がヤリ玉にあげられて「恨み」をかっているが、帆足家が近衛町の敷地を購入したのは東京土地住宅からで、堤康次郎の箱根土地からではない。
国立公文書館に残された、東京土地住宅の「近衛町地割図」Click!を参照すると、1923~24年(大正12~13)の時点、つまり東京土地住宅が破たんする以前に、帆足邸の敷地「近衛町41号」(北半分の三角地)は販売済みであり、すでに帆足家が購入しているのが明らかだ。ここに、中村式コンクリートブロックClick!工法の「ちっこい二階建」の西洋館が竣工するのは、東京土地住宅が経営破たんするのと同年、1925年(大正14)のことだった。堤康次郎とともに帆足計までが、事実誤認のとんだ濡れぎぬで“逆恨み”をかっていたことになる。
また、堤康次郎が「初期の資産を形成した」のは、大正前期から中期にかけての伊豆・箱根や軽井沢での別荘地開発と遊園地の設立、東京護謨の起業、高田農商銀行Click!などをはじめとする金融機関の買収などからであって、下落合の宅地開発はそのあとの時代だ。近衛町の開発を主導していたのは、東京土地住宅の三宅勘一常務とともに、学友だった「相手は御公卿さん」の近衛文麿だ。「御公卿さん」がボンヤリして、世情にうとかった時代はとうに終わっている。
山手線の線路沿いにアトリエがあった「梅原龍三郎」も、高田町大原1673番地(現・目白3丁目)に住んでいた安井曾太郎Click!の誤りだ。安井はこのあと、岩本通雄が堤康次郎の開発と勘違いして忌み嫌った、近衛町の下落合1丁目404番地にアトリエClick!を建設して転居してくる。
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下落合の崖線下の風景も記録されているので、記事が長くなるが引用してみよう。
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夏になりますと、連日の貨物運送に馬も疲弊したり、脚を痛めたりします。/古口(こぐち)さんの馬子のじいさんが、私に声を掛けて来ます。/「通ちゃん。川へ行こうか」/私は早速家を飛び出して、馬子のじいちゃんの引出した馬に乗せて貰います。/夏の間のこの馬との散歩は、私には大なる野心があったのです。/馬はかねてから知っている道ですから、落合一丁目古口さんの厩から二丁目の町はずれを南に曲って、少しだらだらと坂を降りて行きますと、目白の裾を流れる神田川(ママ)に突き当ります。/村の人達のお米や粉をひく水車小屋があります。水はきれいで澄んでいます。馬は何もいわれないのに、川の中へ歩み入って、水を飲んだり、あたりを少し歩いたりしておとなしくしていました。/私は馬から降りて、川底を探って見ると、相変らず、手に一杯しじみが掴めました。私の家族三人が朝必要とするしじみの分量位はあっという間にとれてしまいます。/馬子のおじいちゃんは、川岸の堤の所で鉈豆煙管をすぱすぱやったり、掌にすいがらを落したりしています。
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古口運送店は、もともと目白駅が地上駅時代には駅前、すなわち高田町金久保沢1127番地(現・目白3丁目)あたりにあったのだが、1922年(大正11)秋に目白橋西詰めとつながる橋上駅が竣工すると、目白通り沿いに移転している。岩本通雄は「落合一丁目」と書いているが、移転先の正確な地番は高田町金久保沢1114番地だった。同運送店は、1925年(大正14)の「商工地図」Click!(地上駅表現のまま)でも、また翌1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」(橋上駅化後の表現)でも確認することができる。
さて、古口運送店にいた「じいちゃん」の馬子は、馬をどのような道筋で旧・神田上水(1966年より神田川)へ連れていったのだろうか。「二丁目の町はずれ」という曖昧な表現で書かれているが、もちろん大正前期には住所表記の「丁目」など下落合に存在しない。この「丁目」を、江戸期からの“お約束”や感覚にもとづく通称としてとらえるなら、先の「落合一丁目」から類推すると、街並み(商店街や住宅地)がいったん途切れるあたり、つまり「一丁目」は目白中学校Click!の西側接道で途切れ、「二丁目」は目白福音教会の西側接道で途切れるあたり……と解釈できるだろうか。
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古口の「じいちゃん」が、馬の背に岩本通雄を乗せて連れ下りたのは、傾斜が比較的ゆるやかだった七曲坂Click!の道筋であり、坂を下りきった下落合氷川明神社Click!の先、南北に大きく蛇行を繰り返す旧・神田上水には、旧・田島橋Click!の西側に位置する東耕地の水車小屋Click!が、製粉の音をゴットンゴットン響かせていたはずだ。古口の「じいちゃん」は、鎌倉期に拓かれ幕府の騎馬軍団Click!の通行を考慮した切通し状の七曲坂Click!が、馬の上り下りにはやさしいことを知悉していたのだ。
◆写真上:旧・戸田邸の敷地跡に開発された、「徳川ビレッジ」の住宅街。2階建てで7LDKタイプの標準住宅だと、敷金4ヶ月で家賃は150万円/月だとか。
◆写真中上:上は、岩本通雄が生まれた1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる下落合界隈。中は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」に描かれた戸田康保邸。下は、1919年(大正8)に撮影された戸田邸の大温室。
◆写真中下:上は、1925年(大正14)の「商工地図」に掲載された古口運送店の広告。中左は、同年の「商工地図」に採取された地上駅前の古口運送店。中右は、橋上駅化された目白駅前に移転した同店。下は、下落合481番地あたりにあった比留間運送部。1903年(明治36)より目白駅で貨物Click!の扱いがスタートすると、それを当てこんだ運送業と倉庫業が急増しており、同運送部でも馬を飼っていただろう。
◆写真下:上は、古口運送店にいた「じいちゃん」が馬とともに旧・神田上水まで散歩したコース。下は、エレベータ―の設置で解体される旧・目白駅の階段。
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これまで、目白中学校Click!で発行されていた校友誌「桂蔭」Click!や、学習院昭和寮Click!の寮誌「昭和」Click!などを引用しながら、大正後期から昭和初期にかけての「下落合散歩」と、その周辺に拡がる風情をご紹介してきた。だが、大正前期に描写された風景は、若山牧水Click!の「下落合散歩」ぐらいしか記事にしていない。
今回は、若山牧水が記録したのとほぼ同時期の、下落合とその周辺域に拡がる風景の中を「散歩」してみたいと思う。大正初期の下落合は、いまだ東京近郊の農村地帯そのものの姿をしていただろう。開墾がむずかしい、目白崖線の斜面沿いには深い森がつづき、その森の中にはところどころに華族の別荘や山荘が点在するような風情だった。
もっとも賑やかだったのは、江戸期からつづく下落合と長崎にはさまれた清戸道Click!(せいとどう=目白通り)沿いの「椎名町」Click!界隈だった。現在の西武池袋線・椎名町駅周辺のことではなく、山手通り(環六)と目白通りの交差点あたりを中心に東西へ250mほど、全長500mほどに細長く開けていた街道沿いの街並みのことだ。目白停車場Click!の駅前Click!や周辺も、ポツポツ開発されはじめてはいたが、繁華な賑わいからいえば長崎村椎名町、あるいは落合村椎名町ほどではなかった。
当時の目白通りの様子を、岩本通雄『江戸彼岸櫻』(私家版)から引用してみよう。岩本通雄は、現在の目白聖公会の並びあたりで生まれ育っている。ただし、同書は改めて当時の状況を正確に調べ直してから執筆されたものではなく、自身の記憶のみに依存して書かれたとみられるので、不正確な記述や錯覚が多いことをあらかじめ了解いただきたい。
▼
目白駅から一丁程西に目白街道を歩いて、落合村の入口にはドイツ風のきびしい鉄門と大理石の柱が立つ戸田子爵邸がありましたが、このお屋敷中が深く砂利道で、二、三町歩いてもお屋敷が見えません。あきらめて、今度は門の所から石塀に沿うて北に歩きますと、四、五町歩いて漸く裏口に出ました。池袋から出る武蔵野鉄道(後の西武鉄道)の椎名町の駅近くになります。そして裏口の傍らには、サーベルをさげたカイゼル髭を立てた老警官が立って辺りを睨んでおりました。/明治、大正の時代はこのようにお金を出して、警官の派出所を設けることが出来たのでした。当時の言葉ではこれを請願巡査派出所と申しました。/この戸田さんのお屋敷は後に、徳川義親公のお屋敷となり、(中略) 私、通雄などは小さかったので、温室にぶらさがっている網かけメロンに目を輝かせておりました。公はクロレラも世にさきがけて研究され、栽培されておりました。/駅通りにあった戸田子爵邸の鉄門の前を南に横丁を辿りますと、近衛篤麿公爵五万坪の広い森に突き当たります。/この森は公の死後、当時の心ある政治家はおおむね、死後、井戸塀だけが残るのでして、近衛さんもこの譬に恥じず遂に、堤康次郎の手に渡り、日本最初の大文化村として小さく分割され、販売されてしまいました。
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さて、大正初期の下落合の様子をなんとなく感じとれる文章なのだが、このサイトをいつもお読みの方なら、あちこちに誤記憶やまちがいを発見されるだろう。
確かに、戸田康保邸Click!の正門は下落合村の「入口」、つまり目白通りの北側へ三角形状に張りだした下落合の端にあったけれど、戸田邸は高田町雑司ヶ谷旭出41番地(現・目白3丁目)で落合村ではない。また、戸田邸の西端は「椎名町の駅近く」ではなく、同駅までは直線距離でまだ700mも離れている。のちに徳川義親Click!が戸田家から敷地を譲りうけ、邸Click!を建設して転居してくるのは1933~34年(昭和8~9)のことなので、1909年(明治42)生まれの岩本通雄はそのとき、すでに24歳の大人になっていたはずだ。小さい子どもの「私」が、目を輝かせながら見上げた「網かけメロン」は、温室栽培が趣味だった戸田康保の大温室の情景だろう。
同文の中で、記憶の混乱はまだある。1922年(大正11)に堤康次郎Click!の箱根土地Click!が開発したのは、目白駅から離れた下落合中部の目白文化村Click!であって、目白駅が間近な下落合の丘上にある近衛町Click!ではない。近衛篤麿邸の敷地は、息子の近衛文麿Click!と学習院で同窓だった東京土地住宅Click!の常務取締役・三宅勘一Click!が、協同で近衛町開発プロジェクトを立ち上げ、目白文化村と同年に売り出したものだ。近衛町の開発を箱根土地が引き継いだのは、東京土地住宅の経営が破たんした1925年(大正14)以降のことだ。
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ウロ憶えの情景を、そのまま文章化しているせいか誤記がまま見られるけれど、およそ大正初期の下落合風景をうっすらと感じとることができる。以下、つづけて近衛町が開発される前の近衛篤麿邸跡に拡がる、深い森の情景から引用してみよう。
▼
子供の時の大きな遊び場所、夏など蝉をよくとりに行きました奥深い森は、私達の眼から消えて行ってしまいました。他人のことながら私は残念で、何か覚えていてやろうと考えて、今だ(ママ)に私の頭に残っているのはちっこい二階建の洋館の玄関についていた恨みの表札です。/帆足計。早稲田大学の先生だそうですが、世の中のうつり変り、幸、不幸を見聞きするにつけ、恐らく私には永久に忘れられない名字でしょう。相手は御公卿さんです。恐らくこれが堤さん初期の資産を形成したのではなかったでしょうか。/「上つ方」の話をなしにすると、「目白」の異った特色は又鮮かに現れて来ます。/目白駅から池袋へ向う国鉄は高台を深く掘って崖の下を走ります。/その崖の左側に洋画家、梅原龍三郎氏のアトリエがあり、戸田子爵の裏口、髭の巡査の立っていた所から西へ小半町で、日露戦争の前、ドイツからの帰途ベルリンからシベリアを単騎横断した勇者、福島安正陸軍大将五百坪の家があり、南に向い街道に近づくと、石川家と「お花さん」の家かためて三百坪、これぞ小生生誕の地でありました。
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帆足計の連れ合いである帆足みゆきClick!が設計した、帆足邸Click!がヤリ玉にあげられて「恨み」をかっているが、帆足家が近衛町の敷地を購入したのは東京土地住宅からで、堤康次郎の箱根土地からではない。
国立公文書館に残された、東京土地住宅の「近衛町地割図」Click!を参照すると、1923~24年(大正12~13)の時点、つまり東京土地住宅が破たんする以前に、帆足邸の敷地「近衛町41号」(北半分の三角地)は販売済みであり、すでに帆足家が購入しているのが明らかだ。ここに、中村式コンクリートブロックClick!工法の「ちっこい二階建」の西洋館が竣工するのは、東京土地住宅が経営破たんするのと同年、1925年(大正14)のことだった。堤康次郎とともに帆足計までが、事実誤認のとんだ濡れぎぬで“逆恨み”をかっていたことになる。
また、堤康次郎が「初期の資産を形成した」のは、大正前期から中期にかけての伊豆・箱根や軽井沢での別荘地開発と遊園地の設立、東京護謨の起業、高田農商銀行Click!などをはじめとする金融機関の買収などからであって、下落合の宅地開発はそのあとの時代だ。近衛町の開発を主導していたのは、東京土地住宅の三宅勘一常務とともに、学友だった「相手は御公卿さん」の近衛文麿だ。「御公卿さん」がボンヤリして、世情にうとかった時代はとうに終わっている。
山手線の線路沿いにアトリエがあった「梅原龍三郎」も、高田町大原1673番地(現・目白3丁目)に住んでいた安井曾太郎Click!の誤りだ。安井はこのあと、岩本通雄が堤康次郎の開発と勘違いして忌み嫌った、近衛町の下落合1丁目404番地にアトリエClick!を建設して転居してくる。
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下落合の崖線下の風景も記録されているので、記事が長くなるが引用してみよう。
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夏になりますと、連日の貨物運送に馬も疲弊したり、脚を痛めたりします。/古口(こぐち)さんの馬子のじいさんが、私に声を掛けて来ます。/「通ちゃん。川へ行こうか」/私は早速家を飛び出して、馬子のじいちゃんの引出した馬に乗せて貰います。/夏の間のこの馬との散歩は、私には大なる野心があったのです。/馬はかねてから知っている道ですから、落合一丁目古口さんの厩から二丁目の町はずれを南に曲って、少しだらだらと坂を降りて行きますと、目白の裾を流れる神田川(ママ)に突き当ります。/村の人達のお米や粉をひく水車小屋があります。水はきれいで澄んでいます。馬は何もいわれないのに、川の中へ歩み入って、水を飲んだり、あたりを少し歩いたりしておとなしくしていました。/私は馬から降りて、川底を探って見ると、相変らず、手に一杯しじみが掴めました。私の家族三人が朝必要とするしじみの分量位はあっという間にとれてしまいます。/馬子のおじいちゃんは、川岸の堤の所で鉈豆煙管をすぱすぱやったり、掌にすいがらを落したりしています。
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古口運送店は、もともと目白駅が地上駅時代には駅前、すなわち高田町金久保沢1127番地(現・目白3丁目)あたりにあったのだが、1922年(大正11)秋に目白橋西詰めとつながる橋上駅が竣工すると、目白通り沿いに移転している。岩本通雄は「落合一丁目」と書いているが、移転先の正確な地番は高田町金久保沢1114番地だった。同運送店は、1925年(大正14)の「商工地図」Click!(地上駅表現のまま)でも、また翌1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」(橋上駅化後の表現)でも確認することができる。
さて、古口運送店にいた「じいちゃん」の馬子は、馬をどのような道筋で旧・神田上水(1966年より神田川)へ連れていったのだろうか。「二丁目の町はずれ」という曖昧な表現で書かれているが、もちろん大正前期には住所表記の「丁目」など下落合に存在しない。この「丁目」を、江戸期からの“お約束”や感覚にもとづく通称としてとらえるなら、先の「落合一丁目」から類推すると、街並み(商店街や住宅地)がいったん途切れるあたり、つまり「一丁目」は目白中学校Click!の西側接道で途切れ、「二丁目」は目白福音教会の西側接道で途切れるあたり……と解釈できるだろうか。
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古口の「じいちゃん」が、馬の背に岩本通雄を乗せて連れ下りたのは、傾斜が比較的ゆるやかだった七曲坂Click!の道筋であり、坂を下りきった下落合氷川明神社Click!の先、南北に大きく蛇行を繰り返す旧・神田上水には、旧・田島橋Click!の西側に位置する東耕地の水車小屋Click!が、製粉の音をゴットンゴットン響かせていたはずだ。古口の「じいちゃん」は、鎌倉期に拓かれ幕府の騎馬軍団Click!の通行を考慮した切通し状の七曲坂Click!が、馬の上り下りにはやさしいことを知悉していたのだ。
◆写真上:旧・戸田邸の敷地跡に開発された、「徳川ビレッジ」の住宅街。2階建てで7LDKタイプの標準住宅だと、敷金4ヶ月で家賃は150万円/月だとか。
◆写真中上:上は、岩本通雄が生まれた1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる下落合界隈。中は、1926年(大正15)の「高田町北部住宅明細図」に描かれた戸田康保邸。下は、1919年(大正8)に撮影された戸田邸の大温室。
◆写真中下:上は、1925年(大正14)の「商工地図」に掲載された古口運送店の広告。中左は、同年の「商工地図」に採取された地上駅前の古口運送店。中右は、橋上駅化された目白駅前に移転した同店。下は、下落合481番地あたりにあった比留間運送部。1903年(明治36)より目白駅で貨物Click!の扱いがスタートすると、それを当てこんだ運送業と倉庫業が急増しており、同運送部でも馬を飼っていただろう。
◆写真下:上は、古口運送店にいた「じいちゃん」が馬とともに旧・神田上水まで散歩したコース。下は、エレベータ―の設置で解体される旧・目白駅の階段。