わたしは、占いをほとんど信じていない。巫術や占術、望記術、卜術、陰陽術、風水、手相、家相、星座、タロット、水晶玉……などなど、占いの名称や方法はどうでもいいのだが、その存在自体は否定しない。それらよって導き出された史的経緯や事実Click!が存在する以上、そして人々がそれらに依存して意思決定を行なったケースが多々ある以上、“単なる迷信”として存在自体まで否定をするつもりはない。
1934年(昭和9)に講談社から発行された「婦人倶楽部」5月号に、当時から高名な占い師(手相見)・永鳥真雄が、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)に住む吉屋信子Click!の手相を占なった記録が残されている。同時に、彼女の手相を写しとりキャプションを加えたイラストも掲載されている。吉屋信子は1973年(昭和48)、77歳ですでに人生を終えているので、これら占いの結果(当否)を彼女が実際に生きた軌跡と照合し、事実にもとづいて検証することができるのだ。
そのときの占いの様子を、同誌に掲載された「女流名士花形のお手相拝見訪問」記事の中の、「女流作家の第一人者/吉屋信子女史」から引用してみよう。
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目下各婦人雑誌から引張り凧になつて、とてもお忙しくていらつしやる吉屋信子先生を丁度お暇の時を狙つて下落合のお宅を訪問いたしました。素晴らしい文化住宅のお庭には愛犬のセパードが耳を立てて頑張つてゐます。応接間には、艶やかなピアノが、張出しの日光室(サンルーム)の硝子を透して来る光にぴかぴかと光つてゐます。/『同じことなら将来の事を見て貰つた方がいいわ。』と流石は吉屋先生、気軽に右手を差出される。/『吉屋さんは一月生れでございましたね。十二月、一月生れの人は大体に骨格がしつかりしてゐて丈夫な筈ですが、生命線の初めがよれよれと鎖のやうになつてゐますから、子供の時は弱かつたやうですねえ。今は少し胃腸が弱くありませんか。』
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庭にいたシェパードは、副業でブリーダーをしていた上落合1丁目186番地の村山籌子Click!から、陸軍への寄付用にと「押し売り」Click!されたものだろう。
ここで、すでにお気づきの方も多いだろう。占い師は、あたかも子どものときは病弱気味だった、いまでも胃腸が弱くないか?……などと、まるで相手を見透かすような口調で話してはいるが、吉屋信子に関する当時の本や出版社の資料をあらかじめ参照しておけば、多くの人々が既知のことを話しているにすぎないのがわかる。彼女の体形を見れば、誰が見ても骨格がしっかりしていることぐらい自明のことだ。
これに対して、父親が胃がんで死去しているので心配だと彼女が答えると(この情報も仕入れていただろう)、以下、占い師は次のように重ねていく。
▼『いや、目下さ(ママ:の)心配はないやうです。曾て山本権兵衛夫人が胃癌で亡くなられましたが、それは手相にちやんと出てゐました。(中略) しかし生命線の先が分れてゐますから、よく御旅行なさいますね。』
ここで、「こんなすごい人物の手相も見たことがある」と自身の占いへ、コケ脅しにも似た権威づけをするのを忘れず、またしても新聞を読んでいれば誰でも知っていることを訊いている。このとき、すでに吉屋信子はヨーロッパや米国など各地を旅行して帰国したあとだった。また、彼女は講演旅行で全国をまわっており、「よく御旅行をなさいますね」は占いでもなんでもなく、ただ事実を述べているにすぎない。
▼『(旅行を)未だこれからもなさいますよ。――運命線が三十歳のあたりからハツキリしてゐます。三十歳位で名声が出来たしるしですね。』
30歳になる大正末、『花物語』や『屋根裏の二処女』が大ヒットしたのは、別に吉屋ファンでなくとも、この時代なら誰でも(特に女性なら)既知のことで、別になにかをいい当てているわけでもなければ、占なっているわけでもない。
▼『感情線が二つに切れてゐますから、親に早く別れましたね。――性質は暗くて考へ込む方です。なるべく朗らかになつていたゞきたいものです。』
これも、公表されている吉屋信子の経歴を参照すれば誰でも知ることができることを、さも手相から読みとっているように話しているだけだ。また、小説家にやたら明るくて考えこまない人種など、ハナから存在しない。占いの常套手段である、「コールドリーディング」にさえなっておらず、吉屋信子の“基礎知識”を披露しているにすぎない。
▼『結婚線が割れてゐてよくないですなあ。恋愛も駄目。たとへ結婚をなすつても、別れるやうなことになり易いですね。――拇指の長いのは意志が強くて一つの事をやり通す人です。しかし神経が過敏ですね。偏食の傾きがありませんか。』
同性の門馬千代と、下落合で公然と同棲している吉屋信子に対して、異性との結婚や恋愛は「駄目」といったところで、どれほどの意味があるのだろうか。「駄目」だから、女性の伴侶と暮らしていたのではなかったっけ? 意志が弱くて、ひとつのことをやり通せない小説家は稀有だし、彼女が神経質で食べ物に好き嫌いがあるのも、すでに女性誌などのインタビューで既知のことだったろう。
▼『(前略)手が大体小さいですね。かういふ手の方は、物事に几帳面ですが、手先の事は不器用で、むしろ頭を働かして仕事をなさる方です。』
だから、永鳥真雄がもっともらしく占なっているその相手は、日々原稿用紙に向かい、頭を働かせて仕事をしている小説家の吉屋信子なのだ。
▼『動物や花などはお好きですね。――最後にもう一つ遠慮のないところを云はして頂くと頭脳線の端が分れてゐるから文才があつて筆は達者(後略)』
だからだから、あんたが占なっているのは文筆をなりわいとする小説家の吉屋信子センセだってば。w ほとんど、おきゃがれもんClick!の占いだ。こんないい加減な言質で、よく手相見や占い師がつとまったものだ。花が好きなのは、『花物語』をパラパラめくれば自明のことだし、動物がキライなら庭でシェパードなど飼ったりはしない。
一連の手相「占い」は、「90日間、わたしは天に祈りつづけ、ついに雨を降らせることに成功したのだ」「3ヶ月も祈ってりゃ、いつか降るだろ!」とほとんど同レベルの稚拙さであり、ニコニコ聞いてはいても吉屋信子自身も呆れはてたのではないだろうか?
さて、この手相占いの中で唯一、当時の誰でもが知ってそうな人気作家の基本情報ではなく、未来を占なった箇所がある。再び、同誌より引用してみよう。
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『太陽線をみると、今後も大変好運です。今後約十年は益々よろしいでせう。四十二歳頃が一番頂上で大変な好運に見舞はれます。』/『それは有難いわね。そのつもりで大いに努力しますわ。四十二の時、素晴らしい事があるつていふのは一体何んでせうね? ノーベル賞でも貰へるのかしら? ホゝゝゝゝゝ。』
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吉屋信子が42歳を迎えたのは、1938~39年(昭和13~14)にかけてのことだった。当時は存在した「文壇」からは、彼女の作品は「子供がよむもの」で文学ではないと執拗に攻撃され、その急先鋒にいた小林秀雄Click!からは「どうせ通俗小説だ。そろ盤を弾いて書いてゐるといふ様なさつぱりとした感じではない。何かしら厭な感じだ」と、さんざんな嫌がらせの言葉を投げつけられた。
「純文学」のみを相手にする「高踏的」な小林秀雄が、ことさら吉屋信子の作品へ執拗な攻撃を繰り返したのは、そこに明治以降の国家ではあってはならない「女性解放」の思想、今日的にいうならジェンダーフリーとフェミニズムの臭いを敏感に嗅ぎとったからだろう。彼女は小林秀雄と、正面から衝突していくことになる。
同様に、天皇を頂点とする大日本帝国の家族主義的国家を支える政府当局は、吉屋信子の作品群を貫く経糸に、きわめて由々しき「危険思想・不良思想」Click!を読みとっていた。彼女は特高Click!から執拗にマークされ、1939年(昭和14)ごろから検閲で次々とクレームがつき、既存の作品までが警察からの圧力で事実上「発禁」Click!になっていく。自らペンを折り、鎌倉へ引きこもる時代が迫っていた。
つまり、彼女にとって42歳を迎えた年は、作家生命を脅かされる人生最悪の状況だったわけだ。永鳥真雄の手相占いは、みごとに大ハズレということになる。彼女が再びペンをとり、戦後の代表作を次々と執筆するまで、およそ10年の歳月が必要だった。
最後に余談だが、吉屋信子が下落合から牛込砂土原町3丁目18番地の新邸へ引っ越したあとも、門馬千代の姻戚は下落合に残ったものだろうか。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、吉屋邸の2軒西隣りに「門馬」邸を確認することができる。めずらしい苗字なので、吉屋信子の連れ合いである門馬千代と、なんらかの関係がありそうだ。
◆写真上:吉屋信子邸Click!が建っていた、下落合4丁目2108番地の敷地跡の現状。
◆写真中上:上は、1934年(昭和9)発行の「婦人倶楽部」5月号(講談社)に掲載された吉屋信子の右手相。下は、書斎の本棚で記念撮影をする吉屋信子。上部の壁に架かった油絵は、甲斐仁代Click!が描いた作品の可能性がきわめて高い。
◆写真中下:上は、1934年(昭和9)の「婦人倶楽部」5月号に掲載された手相占いの記事。下は、庭に面したテラスで編み物をする吉屋信子。
◆写真下:上は、下落合の庭で撮影されたとみられる吉屋信子と門馬千代。下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる吉屋信子邸とその周辺。