これまで何度も作品を引用しながら、つい紹介しそびれていた画家がいた。江戸の天保年間に斎藤月岑が著し、長谷川雪旦が挿画を担当した『江戸名所図会』(7巻20冊)だ。その中には、落合地域を描いた風景画が遠望も含め6点収録されている。1893年(明治26)に松濤軒斎藤長秋が改めて整理・編集した『江戸名所図会』では、巻4-12の中に落合風景6景が含まれており、今回は同書の原本から画面を直接引用してご紹介したい。
まず、下戸塚側から眺めた「姿見の橋 俤のはし」を紹介した画面の中に、下落合の藤稲荷社と氷川明神社が描きこまれている。そしてこの部分、斎藤月岑は下高田村と下落合村の紹介を区別せず、ごっちゃにして記述しているめずらしい箇所だ。下高田村の南蔵院Click!や氷川明神Click!を紹介したあと、下落合村の「氷川明神社」Click!「七曲坂」Click!「落合土橋」Click!について記述し、再び下高田村の宿坂Click!や八兵衛稲荷Click!(現・豊坂稲荷)の紹介にもどっている。
その記述のうち、下落合村の部分を引用してみよう。
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氷川明神社 同、申酉の方、田島橋より北、杉林の中にあり、祭神奇稲田姫命一座なり、これを女体の宮と称せり、同所薬王院の持ちなり、[高田の氷川明神の祭神、素戔嗚尊なり、よつて当社を合はせて夫婦の宮とす、土俗あやまつて在原業平および二条后の霊を祀るといふ、はなはだ非なり] 七曲坂 同所より鼠山の方へ上る坂をいふ、曲折あるゆゑに名とす、この辺りは下落合村に属せり 落合土橋 同所坤の方、上落合より下落合へ行く道に架す、土人いふ、田島橋より一町ばかり上に、玉川の流れと井頭の池の下流と会流するところあり、このゆゑに落合の名ありといへり(中略) この地は蛍に名あり、形おほいにして光も他に勝れたり、山城の宇治、近江の瀬田にも越えて、玉のごとくまた星のごとくに乱れ飛んで、光景もつとも奇とす、夏月夕涼多し
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文中で、玉川の流れ(玉川上水)と井頭の池の下流(神田上水)とが「会流」する場所とされているところは、妙正寺池からの流れ(北川Click!=妙正寺川)と井頭の池の流れ(神田上水=神田川)の誤りで、明らかに「土人」(地本民)による上水建設の時系列を無視した誤りであり、後世の付会だと斎藤月岑も記している。
さて、下落合につづく目白崖線と下落合氷川明神を描いた雪旦の挿画をみると、源氏雲の向こう側に藤稲荷Click!が記載された御留山Click!と、そのすぐ西側に連なるタヌキの森Click!のピークがとらえられている。画面では、将軍の鷹狩場Click!である御留山がもっとも高く描かれているが、実際には七曲坂の西に接した三角点Click!も設置されていたタヌキの森のピークが、下落合村の東部では36.5mと標高がいちばん高い。ちなみに、目白崖線全体では下落合の西部(現・中落合/中井含む)の西端、字名が大上と呼ばれる目白学園の丘が標高38m弱でもっとも高くなっている。
「落合土橋」は、現存する橋のどれに相当するのか厳密には規定できないが、泰雲寺の了然尼が妙正寺川に架けた「上落合より下落合へ行く道」の土橋は、突き当たりで雑司ヶ谷道Click!とぶつかり東西に分かれる、西ノ橋Click!あたりに存在していたとみられる。
次に雪旦の挿画が登場するのは、上落合にあった泰雲寺の縁起に了然尼の物語Click!が収録されている「泰雲寺古事」と、御留山の「藤森稲荷社 東山いなりともいふ」の全景が描かれた絵だ。つづいて、同書より引用してみよう。
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藤杜稲荷社(ママ) 同所、岡の根に傍ひてあり、また東山稲荷とも称せり、霊験あらたかなりとて、すこぶる参詣の徒多し、落合村の薬王院奉祀す 黄龍山泰雲寺 同所上落合にあり、黄檗派の禅林にして花洛万福寺に属す、本尊如意輪観世音の像は天然の石仏にして、当寺の土中より出現ありしといふ、開山は白翁道泰和尚と号す、[木庵和尚の法嗣にして了然尼の師なり](後略)
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藤(森)稲荷は明治以降から1950年代まで、荒れるにまかせるような廃社に近い状態だったが、現在は新たに本殿拝殿も建設されて、御留山の麓にその姿をとどめている。また、了然尼についてはすでに詳しい物語を記事にしているが、泰雲寺は1911年(明治44)に廃寺となった。
長谷川雪旦こと金澤宗秀は、江戸の唐津藩邸で生まれ江戸後期に活躍した絵師のひとりだが、その経歴は当時としては型破りだった。日本画は、流派や師弟関係がことのほか厳しい世界だが、雪旦はそれにほとんどとらわれず、あらゆる流派の絵画表現を学んで自身の技法に吸収している。当初は水墨画の雪舟13代目・長谷川雪嶺に学んだが、それに飽きたらずに琳派や円山四条派、仏画、英(はなぶさ)派、狩野派など、およそ当時の流派が表現する技法を片っ端から学んでいったようだ。それが、描くメディアや対象となるモチーフによって、自由自在な表現法で描き分けられた大きな要因だろう。
『江戸名所図会』の膨大な挿画は、雪旦が56歳から58歳までの晩年の仕事だ。同書の挿画を手がけると同時に、晩年は唐津藩や尾張藩の御用絵師もつとめているが、1843年(天保14)に66歳で死去している。
さて、落合地域を描いた残り3点、「一枚岩」「落合惣図」「落合蛍」の画面を見てみよう。「一枚岩」は「落合惣図」によれば、上落合村の呼称である北川(妙正寺川)と神田上水が合流する位置に描かれているが、現在は昭和初期から1935年(昭和10)すぎまで行われた、両河川の整流化および掘削工事により、具体的な位置を規定することは困難だ。同書より、再び引用してみよう。
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一枚岩 落合の近傍、神田上水の白堀通りにありて、一堆の巨巌水面に彰れ、濫水巌頭にふれて飛灑す、この水流に、鳥居が淵犀が淵等、その余小名多し、この辺はすべて月の名所にて、秋夜幽趣あり 落合蛍 この地の蛍狩りは、芒種の後より夏至の頃までを盛りとす、草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがひ、高くとぶをば、あまつ星かとあやまつ、游人暮るるを待ちてここに逍遥し壮観とす、夜涼しく人定まり、風清く月朗らかなるにおよびて、はじめて帰路をうながさんこと思ひ出でたるも一興とやいはん(後略)
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「白堀通り」という名称が登場しているが、白堀は上水の開渠の一般名称なので、江戸期には神田上水と妙正寺川が合流する近くに、この名称が付された道があったとみられる。また、「鳥居が淵」と「犀が淵」については、すでに釈敬順『十方庵遊歴雑記』の巻之中第64「拾遺高田の拾景」から、当時の田島橋と神田上水の蛇行の情景、そしてUMAとして登場する妖怪「犀」とともに詳しく記事Click!にしている。月の名所としての落合地域は、大田南畝(蜀山人)Click!たちが郊外の観月会の様子を記録した『望月帖』にからめて、すでに詳細をご紹介Click!していた。
「落合惣図」の左端に描かれているのが、『怪談乳房榎』にも登場する妙正寺川の「落合土橋」(比丘尼橋)とみられるが、道筋の先が摺鉢山Click!の山麓があったと思われる位置にぶつかり、二手に分かれているところをみると、やはり現在の下落合駅前に架かる西ノ橋あたりの見当だ。また、名所「落合蛍」についても、三代豊国・二代広重が描いた「江戸自慢三十六興」の1作『落合ほたる』Click!とともに、すでに詳述している。
◆写真上:長谷川雪旦が「落合蛍」を描いた、描画ポイントの現状。視点をかなり上に想定しているが、住宅がなければ正面左寄りに下落合氷川社が見えるはずだ。
◆写真中上:上は、神田上水を手前に入れた「姿見の橋 俤のはし」。中央奥には御留山と藤稲荷、左奥には下落合氷川明神社の杜が描かれている。下左は、1893年(明治26)に松濤軒斎藤長秋が復刻した『江戸名所図会』巻4-12の表紙。落合地域の情景は、同巻に収録されている。下右は、泰雲寺の縁起に挿入された「泰雲寺古事」。
◆写真中下:上は、御留山の藤稲荷を描いた「藤森稲荷社 東山いなりともいふ」。下は、妙正寺川と神田上水の合流点にあったとされる「一枚岩」。
◆写真下:上は、下落合東部の全景および上戸塚村と上落合村を描いた「落合惣図」。下は、御留山の麓から西を向いて描いた「落合蛍」。