1890年(明治23)1月に新島襄が大磯Click!で死去すると、妻の新島八重は夫の終焉地となった大磯の風光が気に入ったのか、大磯町神明前906番地外に土地を購入している。避寒・避暑Click!の別荘にするつもりだったのか、それとも歳をとってからの隠居邸でも建てる計画だったのかは不明だが、国道1号線へ通じる「佐土原さんの坂」上から眺める相模湾の風情に惹かれたのだろう。
神明前906番地外は、ちょうど大磯駅近くの南東側に位置する森の中で、現在では「パンの蔵」が開店している北側あたりの敷地だ。1927年(昭和2)の夏、佐伯祐三Click!一家が借りてすごした、山王町418番地の別荘Click!へ向かう手前の位置にあたる。見晴らしのいいロケーション抜群の地所なのだが、八重夫人のその後の人生は多忙をきわめ、9年後の1899年(明治32)にはせっかく手に入れた大磯の土地を手放している。
その地所を新島八重から購入したのが、下落合330番地に住んでいた華族(男爵)の箕作(みつくり)俊夫だった。旧・幕臣の家柄である箕作俊夫は、その地所に別荘を建て真夏と真冬に一家で保養がてら、下落合と大磯を往来していたのだろう。下落合330番地は、七曲坂Click!を上がりきった右手の敷地で、現在は落合中学校のグラウンドの下になってしまったとみられる。位置的には、七曲坂に面したグラウンド北側の一画だ。箕作俊夫は、1923年(大正12)1月に下落合で死去している。
同年1月9日発行の、読売新聞の訃報記事から引用してみよう。
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箕作家の/当主逝く 下落合の自邸で
箕作俊夫男(三五)は宿痾の腎臓炎を加療中の処八日午前十一時半市外下落合三三〇の自邸に夫人長江(前陸軍大臣大嶋大将長女)長男祥一(五つ)次男俊次(四つ)を残して逝去した
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文中の「前陸軍大臣大嶋大将」は、大嶋健一中将の誤りだ。これによれば、箕作家は箕作俊夫がいまだ11~12歳のころ、大磯の土地を俊夫名義で購入していることになる。箕作俊夫が死去してから、3年後に作成された「下落合事情明細図」には、すでに箕作邸は採取されておらず空き地表現になっている。
ここで気になるのが、いまは落合中学校が建てられている大倉山(権兵衛山)Click!北側の、丘上に拡がる敷地一帯の課題だ。ここには明治期に、伊藤博文の別荘Click!が建てられていたという伝承が地元に根強く残っており、箕作邸の存在とともに、古い時代の華族別荘地の区画ではなかったか? ……というテーマが改めて浮上する。
さて、事件・事故や犯罪は当時の世相・風俗を映す鏡といわれるけれど、このサイトでは落合地域で起きた多種多様な事件Click!をいままで取りあげてきた。大正初期まで、ほとんどのエリアが田園地帯だったせいか、事件の多くは宅地化が急速に進んだ大正中期以降に起きている。だが、中にはめずらしく明治期に起きた事件もある。1910年(明治43)3月19日発行の、読売新聞から引用してみよう。
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病牛火葬の紛擾/悪煙中野、落合を蔽ふ
牛疫流行につれて病牛の撲殺日に日に盛に是等は悉く北豊島郡落合村の焼場にて火葬に附しつゝあるが一体同焼場は落合村にても窪地に在り之が煙突の如きも随分高いとは云ふものゝ北方に位する同村字上落合並に中野町字原は煙突と殆ど並行の高地に在りて風向が悪いと煙は横なぐりに吹附け村民の迷惑少からず最も人間の死体を焼いた煙は一度低い所に下り水を潜りてから出る様に装置しあれば左程臭気も甚しくないが豚や牛を焼いた煙は油切つた黒い煤を交へて其儘に吹出で黒い雨が降るかとばかり屋根と云はずベタ附き且つ悪臭鋭く鼻を衝くので村民も黙つて居られず前記二字の代表者二十名は落合村村長及び中野町長を先に十六日午後五時頃新宿署へ出頭して只管嘆願し容れられざれば警視庁迄出掛けると敦圉(いきま)きたるも署長の説諭にて一先退出し同夜新宿署長は現所を視察したる上病牛の火葬は夜間に行ふことと定めて無事落着したり
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当時、落合村は豊多摩郡ではなく、いまだ北豊島郡に属していた。明治末の郊外には東京牧場Click!があちこちに開業しており、乳牛が伝染病にかかると感染を防ぐため殺処分にして、火葬にしていた様子がわかる。今日では考えられないが、人間と動物をいっしょの焼却炉で灰にしていたのだ。
いま風にいえば、明らかに悪臭と煤塵をともなう煙害=“公害”事件が発生していたわけだが、当時は環境行政などないに等しいので、この手の苦情の取り締まりは警察にまかされていた。また、この記事からは、明治期の焼却炉の仕組みがわかって興味深い。死者を焼いた排煙は、一度貯水の“フィルター”を通して脱臭・脱塵したうえで、煙突から排出されるシステムだったのがわかる。
大正後期になると、落合地域の各地で宅地開発が盛んになるが、大規模な工事現場の飯場(工事小屋)に常駐していた大工や石工、土工たちの間でいざこざ事件が多く報道されるようになる。以前、箱根土地による目白文化村Click!の大工たちによる傷害事件Click!をご紹介したが、今度は目白文化村の開発(整地作業)にたずさわっていた、土工たちによる暴力事件が発生している。しかも、のちに暴動に近いかたちで駐在所へ押しかけているのは、朝鮮半島から出稼ぎにきていた人々だ。
第一文化村の開発が一段落し、1922年(大正11)6月20日から販売がスタートする直前の事件だった。同年6月5日発行の、読売新聞から引用してみよう。
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鮮人土方三十余名/駐在所を襲ふ 内十五名は淀橋署に引致取調中
三日午前零時頃府下下落合村駐在所の弘田巡査が同村二〇三五不動園を警邏中同園内の工事小屋より女の悲鳴が聞えるところから駈付けたるに鮮人土方卅余名が一人の日本婦人を捕へて折檻して居るので取鎮めて説諭したところ鮮人等は何れも棍棒を携へ同巡査に打つてかゝつたので内三名を引致しやうとするや今度は三十余名が一団となつて駐在所を襲つたので此の旨淀橋署に急報本署より警官十数名出張の上啓仁義(廿六)京華澤(廿九)外十三名を引致して取調中
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記事中の地番表記が、またしてもおかしい。箱根土地本社Click!の庭園である「不動園」Click!は、本社ビルClick!とともに下落合1340番地にあり、下落合の西部地番である2035番地にはない。下落合2035番地は、アビラ村Click!にある刑部人アトリエClick!前の中ノ道(下の道)Click!をはさんだ南側にあたる敷地だ。ちなみに、「下落合村」は江戸時代の呼称であり、当時は落合村下落合が正しい。
さて、なんの理由もなく日本での仕事や賃金を棒にふってまで、いきなり交番を襲撃するとは思えないので、なにかと悪評の多い箱根土地(堤康次郎Click!)による雇用か給与に関する契約不履行への不満があったものか、あるいは工事小屋に出入りしていた賄い婦による、あからさまな差別に対する怒りでもあったのだろうか。新聞には続報が見あたらないので、その原因はいまだ不明のままだ。
落合地域が住宅地化するにともない、昭和期に入ると東京市街地とさして変わらない悲惨で凶悪な事件が発生しはじめている。大正期までの落合地域は、ケガ人は出ても人が殺されるような事件はめったに起きなかったが、昭和期に入るとさっそく「ピス平事件」Click!が起きて、落合地域はじまって以来の大騒動となった。次の事件も、従来の落合地域では見られなかった事件だ。
1930年(昭和5)2月2日発行の、読売新聞から引用してみよう。
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生活難の凶行か/下落合の幼児絞殺死体
一日午前九時頃府下落合町字葛谷四三一御霊神社境内の密林中に年齢二、三歳位のメリンスの着物を着た男子の絞殺死体が横たはつてゐるのを通行人が発見所轄戸塚署に急報したので浅沼署長、山下警視刑事部から江口捜査課長、田多羅、中村両警部、吉川鑑識課長、万善警部、荒木医学士等現場に急行し千住行李詰事件の二男の死体ではないかとの疑ひで種々検視したが全く別箇のものであることが別(ママ:分)つたが犯人厳探に着手した/現場臨検の結果殺害したのは払暁一時ごろで二歳ではあるが生後五、六ヶ月と推定、栄養状態は良いけれども着衣から見て中流以下の家庭のもので生活難からの凶行とにらみ現場を中心に職人等下層階級を物色してゐるが死体は今二日午前十時東大法医学教室に送つて解剖に付する事になつた
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この記事では「葛谷」と記載されているが、正確には葛ヶ谷(のち西落合)だ。被害者が「二歳ではあるが生後五、六ヶ月」とは、数えの年齢表記だろう。嬰児の死体発見にしては、戸塚署の対応が署長が出動するなどかなり大仰だが、どうやら嬰児の遺棄死体に関連して、すでに「千住行李詰事件」というのが発生していたらしい。
大正期以前には、いまだ農村共同体としての“しばり”や密なコミュニケーションがあったせいか、「大事件」といっても水利争いClick!や畑地の境界線争い、火事・失火Click!、ケンカ、痴情のもつれによる傷害、窃盗Click!、空き巣……と、人命にかかわる重大犯罪はほとんど見られないが、昭和期に入ると一気に強盗や殺人といった凶悪犯罪が目立つようになり、落合地域とその周辺域では「都市型」事件が増えていくことになる。
◆写真上:左手の落合中学グラウンドに設置された青い金網あたりが、下落合330番地にあった箕作俊夫男爵邸の跡。その東側には、伊藤博文別荘の伝承が残っている。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)1月9日発行の読売新聞に掲載された箕作俊夫の訃報。中は、1925年(大正14)作成の「落合町市街図」にみる下落合330番地。下は、1910年(明治43)3月19日発行の読売新聞に掲載された排煙公害記事。
◆写真中下:上は、かなり前から煙突がなくなり最新設備が導入されている落合斎場。中は、第一文化村の販売開始15日前の1922年(大正11)6月5日に発行された読売新聞の「土工駐在所襲撃」事件。下は、佐伯祐三が1926年(大正15)ごろ制作の『雪景色』Click!(部分)に描く目白文化村の“簡易スキー場”で、箱根土地本社の「不動園」南側つづきの前谷戸上に建っていた工事小屋(飯場)とみられる長屋群。
◆写真下:上は、1930年(昭和5)2月2日発行の読売新聞にみる「幼児絞殺」事件の記事。中は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる緑が濃い葛ヶ谷御霊社の杜とその周辺。下は、1932年(昭和7)から「西落合」に地名が変わった葛ヶ谷御霊社の現状。