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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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中村彝が描いたメーヤー館4部作。

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中村彝「風景」(不詳).jpg
 笠間日動美術館に「秘蔵」されていた中村彝Click!の風景作品()が、新宿歴史博物館で開催されている「中村彝―下落合の画室―」展Click!へ出品されている。もちろん、彝が描いた下落合風景の1作で、またしても彝アトリエの北西に建っていた、目白福音教会Click!の宣教師館(メーヤー館Click!)を風景モチーフの中心にすえて制作している。これで、メーヤー館を描いたタブローは4作めになるので、勝手に中村彝の「メーヤー館4部作」と呼ばせていただくことにする。
 彝のメーヤー館を描いた作品には、もっとも有名で紹介画像も多い『目白の冬』Click!(1920年・大正9/)をはじめ、『目白風景』Click!(1919年・大正8/)、『風景』Click!(1919~20年/)の3作がすでに広く知られている。また、『目白の冬』のスケッチ類や習作も含めると、都合5~6点ほどにもなるだろうか。それに、今回のメーヤー館作品『風景』(制作年不詳)が加わり、タブロー4部作となったわけだ。これら4作の中で、メーヤー館のみならず北側に建っていた角度ちがいの建物、戦前は牧師の宿泊施設などに利用され、大正最初期の建築当初には英語学校として使われていたという伝承が残る建物と、2棟が画面へ同時に描かれているのは、『目白の冬』と今回の笠間日動美術館が収蔵していた『風景』のみだ。おそらく、北側の旧・英語学校として使われていた建物も、ヴォーリズが設計を担当した建築なのだろう。
 また、手前に一吉元結工場Click!の干し場を大きく取り入れて描いているのも、『目白の冬』と同一構図なのだが、メーヤー館の見え方の角度から判断すれば、『目白の冬』よりもほんのわずか南寄りに視点を移した画角となっている。ただし、目白福音教会と元結工場の干し場との境界にあった柵越しに見えている、目白福音教会側の敷地に建てられていたらしい物置小屋に視点をすえて画面を考えると、『目白の冬』よりも描画ポイントがやや北寄りになってしまうことになる。このあたり、中村彝が意識的にメーヤー館の角度を微妙に変えて描いているか、あるいは物置小屋を北ないしは南にあえてずらして描いているものか、実景とは異なる彝の画面構成だろう。
中村彝「目白の冬」1920.jpg
中村彝「風景」1919-20.jpg
 いずれにしても、ちょうど中村彝がイーゼルを据えたすぐ背後に、大正期の一吉元結工場の建物、『雪の朝』Click!(おそらく1919年12月の降雪日)に描かれた建屋があったはずだ。また、干し場や工場で働くこの時期の職人長屋は、干し場の北に接して東西に長い長屋風の建物として建っていたと思われる。元結工場の建物および敷地は、大正末ないしは昭和初期に規模を大幅に縮小して、干し場の南側へ移築され事業を継承している。洋髪の急速な普及で、元結工場は大きなダメージを受け、昭和期に入ると元結ばかりでなく“水引き”の生産もはじめていたかもしれない。
 20~30mほど南南西へ移った一吉元結工場だが、1945年(昭和20)の空襲にも職人長屋ともども焼け残っているので、周辺住民のみなさんの記憶にもハッキリと残る建物だった。近くにお住まいの生江明様によれば、元結工場と職人長屋の前にあった井戸のある中庭で、子どものころよく遊ばれていたらしい。余談だが、「中村彝―下落合の画室―」展では成蹊学園の機関誌『母と子』に掲載された『雪の朝』が展示されており、ネームには「制作年不詳」とされているが、同展図録ではなぜか「1916年(大正5)頃」というキャプションがついている。これは、どのような根拠にもとづくものだろうか? 『雪の朝』の裏面などに、制作年が記載されているならご教示いただきたい。
中村彝「目白風景」1919.jpg
大正期の元結工場跡.JPG 「風景」1919描画位置.JPG
 日動美術館所蔵の『風景』()には、干し場で作業をする元結工場の麦わら帽子をかぶった職人たちも描かれている。『目白の冬』()では、職人や子どもたちが5人ほど描きこまれているが、『風景』ではふたりの職人が、製造した元結を天日乾燥させている情景がとらえられている。風景や人物の服装などから、制作されたのは4~5月ごろだろうか、春ないしは初夏のような趣きを感じる。目白福音教会との敷地境界にある板塀沿いには、ツツジのような紅い花が咲く生垣の低木群が描きこまれている。生垣は教会側にもあったらしく、塀の向こう側にもチラリと低木の上部がのぞいているようだ。目白福音教会の敷地側には、庭の手入れ作業に必要な道具類でもしまっておいたものだろうか、当時、小さな物置きが建っていたのがわかる。
 1919年(大正8)の『目白風景』()は、モノクロの画面しか手元にないので細かく観察はできないが、やはり天日干しの作業をする人物たちがとらえられているように見える。おそらく、周囲をウロウロするニワトリも描かれているのだろう。『目白の冬』には、白色レグホンと思われるニワトリが8~9羽描かれ、1919~1920年(大正8~9)の『風景』()には、メーヤー館へと伸びた袋小路の路地にやはり3羽のニワトリが登場している。いずれも、卵の採集を目的に飼われていたニワトリだと思われるが、初期の佐伯アトリエClick!と同様に彝アトリエの周囲も、ニワトリの鳴き声がうるさかったのではないだろうか。日動の『風景』には、残念ながらニワトリが1羽も描かれていない。w
目白福音教会1936.jpg
 中村彝が描いた1919~1920年(大正8~9)あたりの作品を観ると、アトリエClick!からおよそ半径30m以内の位置から見た風景しか描いていないことがわかる。それだけ、遠出をする体力や気力が、もはや彝には残っていなかったのだろう。中村彝が、メーヤー館の北側に建っていた同じくヴォーリズの設計と思われる、旧・英語学校(昭和期には牧師宿泊施設)を描いた作品を見つけた。この建物は、小島善太郎Click!も大正初期に写生しているのだけれど、それはまた、別の物語…。

◆写真上:日動美術館に収蔵されている、目にしたことがない中村彝『風景』(制作年不詳)。
◆写真中上は、1920年(大正9)に描かれたもっとも有名な中村彝『目白の冬』のメーヤー館。は、メーヤー館をほぼ真東にある袋小路の路地から描いた同『風景』(1919~1920年)。
◆写真中下は、1919年(大正8)に制作された画面右寄りにメーヤー館がある中村彝『目白風景』。下左は、大正期に一吉元結工場があったあたりの現状で彝の死去後に30mほど南へ移転している。下右は、『風景』(1919~1920年)を描いた路地の描画ポイントあたりの現状。
◆写真下:1936年(昭和11)の空中写真にみる、中村彝が描いた各作品の描画ポイント。


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