佐伯祐三Click!の2つ年上の兄・佐伯祐正Click!は、1925年(大正14)の夏から1926年(大正15)の春にかけ、ヨーロッパと米国をまわり先進のセツルメントに関する思想や制度を学んで帰国している。パリでは、弟・祐三のアトリエに滞在して留学費用の漸減から帰国をうながしつつ、同地で開催されていた世界セツルメント大会へも出席しているようだ。パリの次はロンドンに滞在し、世界初の有名なセツルメント「トインビー・ホール」に2ヶ月半にわたりセツラーとして滞在し、その仕組みを精力的に吸収している。また、イギリスから米国にわたり、当時は世界最大のセツルメントだったシカゴの「ハル・ハウス」を視察してから帰国した。
このとき、欧米においては最先端だった社会科学的な視座にもとづく社会福祉思想を、精力的に学んで帰国した佐伯祐正と、フランスにおける前衛芸術の一流派だったフォービズムを身につけ、パリで行われた労働者のパレードにエールを送るような佐伯祐三の帰国は、当然ながら特高Click!の注意をひいた。弟の佐伯祐三は、帰国と同時に福本和夫Click!と同郷で親しい帝展の前田寛治Click!と1930年協会を結成しており、特高の網にひっかかる要素を十分にもってもいた。その様子は、少し前に佐伯兄弟をめぐる内務省の特高資料としてご紹介Click!したとおりだ。
弟の佐伯祐三が早くに死去したのに対し、兄の佐伯祐正はその後も精力的な活動をつづけていたため、1945年(昭和20)の敗戦まで特高から常に監視される立場になったのだろう。佐伯祐正は、弟と同様に1926年(大正15)の春に帰国すると、間をおかず積極的なセツルメント・プロジェクトを起ち上げている。以下、光徳寺の第15代住職・佐伯祐正と、自坊に開設したセツルメント「善隣館」の活動をざっと年譜にまとめてみよう。
1920年 父・佐伯祐哲の死去により光徳寺住職に就任。(佛教大学学生の祐正24歳)
1921年 貧民救済を目的に「善隣館」を設置。
1925~26年 ヨーロッパや米国でセツルメント事業を学ぶために留学
1926年 光徳寺に本格的なセツルメント「善隣館」を開設。幼稚部、乳幼児保育
事業、クラブ活動、授産事業などをスタート。
1926~27年 婦人会を組織して無尽講を結成し、夜学裁縫塾を開設。労働で学校
へ通えない子ども用に日曜学校と図書室を設置。イベントとして定期的に
ピクニック、キャンプ、映画会などを企画・実施。
1927年 光徳寺幼稚園を開設。同幼稚園で母の会による家庭生活改善教育を実施。
1928年 刀根山にカントリーハウス(光風山荘)を建設。弟・祐三がパリで死去。
1929年 5千冊の蔵書を備えた図書館を境内に開設。
1932年 光徳寺門前に3階建ての社会館を建設。
1939年 同寺門前に12組の母子家庭が入居できる母子寮を開設。
こうして、セツルメント「善隣館」の組織も大きくなり宗教部や教育部、会館部、助成部などを備え、従業員やボランティアも多く抱えることになった。1936年(昭和11)4月現在で、有給の職員は13名(事務担当1名・事業担当4名・保母5名・小使い3名)、無給(ボランティア)35名+館長で、総スタッフ数は佐伯祐正も含め49名にものぼった。これらの施設や組織は、イギリスのトインビー・ホールの仕組みを導入し、日本の現状と照らし合わせて構成しているとみられる。
現在の浄土真宗本願寺派において、佐伯祐正のセツルメント「善隣館」の評価は高い。そして、彼が実践した思想は、吉野作造の民本主義や河上肇の『貧乏物語』、賀川豊彦の『死線を越えて』などデモクラシーにおける生存権のテーマを踏まえつつ、日本初の行政による公立セツルメントである大阪市立北市民館の志賀志那人に学んだ思想=志賀イズムの影響を受けた、どこかで社会主義や共産主義へのシンパシーを強く感じさせる側面を備えたものだととらえられている。
2008年(平成10)に真宗文化研究所から発行された年報「真宗文化」第17巻に所収の、小笠原慶彰『寺院地域福祉活動の可能性―セツルメント光徳寺善隣館の実践に学ぶ―』から少し引用してみよう。なお、文中で引用されている佐伯祐正の著作は、顯真学苑出版部から刊行されたものだ。
▼
佐伯自身の著書(『宗教と社会事業』1931年)にも反宗教運動に対する言及がある。
「今や反宗教運動の声の盛んなる時、それは宗教への外形的形態への批判も、多くの材料を提供してゐる時、ここに寺院の社会的活動への一つの暗示として法域を護る人々へ、この貧しき書を捧げる事の厚顔さを許されたい。」
当時の『中外日報』主筆は、佐伯と関わりのあった三浦大我(参玄洞)である。佐伯と三浦、妹尾<義郎>の関係も興味深い。ここでは妹尾と三浦の交友関係から佐伯への影響を推測するしかできないが、それは皆無ではなかろう。さらに妹尾と関わりのある川上貫一と佐伯の関係では、彼が心底では共産主義にさえシンパシーを感じていたのではないかとまで思わせる。(<>内引用者註)
▲
特高が目をつけたのは、佐伯祐正が1年近くにわたる留学から持ち帰った、階級観に裏打ちされた欧米のセツルメント思想そのものだったろう。今日の修正資本主義社会では、しごく当たり前になった国家や自治体がつかさどる社会福祉の思想や事業(つまり社会主義的な行政要素)に、特高は反国家・反体制の匂いを嗅ぎつけたにちがいない。
日本における社会福祉事業は、1925年(大正14)現在では3,598事業だが、1935年(昭和10)には9,423事業に急拡大している。だが、そのほとんどは宗教団体や財閥・実業家、篤志家などの寄付に依存する運営であって、公的機関による社会福祉事業は微々たるものだった。そのような状況の中、1921年(大正10)に大阪市が自治体としては日本初となる、大阪市立北市民館を設立している。
大正期にはいまだ農村だった、光徳寺周辺に拡がる環境の大きな変化と大阪の急激な工業化について、同論文より再び引用してみよう。
▼
光徳寺善隣館の開設当時、中津はまだ農村であった。その頃の大阪は、今で言うキタ(梅田周辺)、ミナミ(難波周辺)が中心で、その中心部や周辺に工場街を形成しつつあった。燐寸工場、綿糸紡績工場等である。「東洋のマンチェスター」と言われていた。紡績工場では年若い製糸工女が働き、マッチ工場では児童労働が常習であった。そういう社会状況下でまず大阪中心部で極貧・低所得の単身者や家族がいわゆる木賃宿を取り巻くスラム街を形成し、さらにやや周辺部に広がりつつあった。既述のように北市民館周辺は、すでにスラム化が進んでおり、中津でもその変貌は時間の問題であった。都市近郊の農村が都市に吸収されていく都市化の過程である。その状況を目の当たりにして佐伯は、新しい寺院の役割を模索した。
▲
佐伯祐正は、大阪の急速な工業化にともない急増する貧困層の現実を、市内のあちこちで目にしたと思うのだが、これは弟の佐伯祐三にも少なからず大きな影響を与えただろう。おそらく兄の祐正ともども、成長過程では日常的に議論を重ねていたテーマではないかとみられる。荻須高徳Click!が、佐伯祐三の思想を「シン底からの左翼びいき」と証言Click!しているのも、兄からの影響はもちろん、多感な時期をすごした中津とその周辺環境からの影響が強く反映しているものと思われるのだ。
祐正は、1935年(昭和10)に発行された「社会事業研究」10月号へ、『わが信仰とわが事業』という文章を寄せ、「自分はどこまでも形而上学的な久遠の理想を楽しみ、それを理想として一日一日の生活に浄土を移す努力を続けて行かうと思ふ。(中略) ここにわが信仰と事業とは決して離れたものでなくつて相抱いたまま歩み行く白道に乗托されたものだと云ふ落ちつきを味つている」と書いている。男女を問わず、困窮者を集めては救援を行い、ときには組織化して文化活動を展開していくセツルメントの実践に対し、目を光らせる特高や当局に対するどこか牽制ともとれる一文だ。
佐伯祐正のいう「生活に浄土を移す」思想は、凶作つづきで困窮する農村基盤の次男・三男を徴兵した軍隊の中で、陸軍皇道派Click!と呼ばれる軍人たちが唱えた「昭和維新」思想Click!に、どこか近似する社会主義的あるいはマルキシズム的な側面を備えている。佐伯祐正が、大阪で上記の文章を書いた翌年、東京では二二六事件Click!が勃発している。
佐伯祐正の光徳寺善隣館は、日米戦争の激化とともに組織が縮小されていった。そして、1945年(昭和20)6月1日の大阪大空襲で光徳寺と付属するセツルメントは全焼し、佐伯祐正も重傷を負った。彼は近くの済生会中津病院にかつぎこまれたが、同年9月15日に爆撃による負傷が悪化し、49歳で死去している。
◆写真上:パリに到着して間もないころ、1925年(大正14)夏に弟のアトリエで撮影された佐伯祐正(右端)。 米子夫人と娘の彌智子も写り、撮影者は佐伯祐三とみられる。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)に撮影された佐伯祐三一家と佐伯祐正(後列左から3人目)。写真には、のちに第2次渡仏の際に同行しハーピストになる杉邨ていClick!(前列右から2人目)も写っている。下は、1925年(大正14)6月25日にヨーロッパへと向かう日本郵船「白山丸」船上で撮られた記念写真。佐伯祐正(左から3人目)とともに、パリでは佐伯祐三と交流する芹沢光治良Click!(右から3人目)の姿も見える。
◆写真中下:上は、おそらくイギリス留学からもどったあと1925年(大正14)12月にパリの佐伯祐三アトリエで撮影された佐伯祐正(中央)。中は、光徳寺のセツルメント善隣館の外観。下は、セツルメント善隣館の施設の1棟。
◆写真下:いずれも、セツルメント善隣館の内部写真。壁に架かる佐伯祐三の作品から、上は1926年(大正15)ごろ、下は『滞船』から1927年(昭和2)以降の撮影か。