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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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三昧と「弥勒浄土」思想が重なる古墳域。

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正見寺.JPG
 東京メトロ東西線を落合駅で下り、上落合から上高田を抜ける早稲田通り(旧・昭和通り)を西へ200mほど歩くと、ほどなく寺町が出現する。もっとも東寄りにある正見寺は以前、大江戸の稀代のアイドル・笠森お仙Click!の墓所として紹介していた。
 正見寺から西へ青原寺、高徳寺、龍興寺、松源寺、宗清寺、保善寺、天徳院とつづく寺々の境内には、朱楽菅公や新井白石(ちなみに『折りたく柴の記』は高徳寺で執筆された)、河竹黙阿弥Click!、水野忠徳、新見正興など歴史本でよく目にする人々が眠りについている。ただし、これらの寺院は明治末から大正初期にかけ、江戸東京の(城)下町Click!から上高田地域へ移転してきたもので、もともと同地で建立された縁起ではない。
 街道沿いにつづく寺町について、1982年(昭和57)出版の『ふる里上高田の昔語り』(いなほ書房)より、中村倭武『私の歩んだ道と上高田』から引用してみよう。
  
 まず一番東にある正見寺。ここには江戸第一の美人といわれた、笠森お仙の墓がある。上野谷中の「笠森稲荷」の水茶屋鍵屋五郎兵衛の娘で、のち幕府のお庭番、倉地家に嫁して円満な家庭を作り、武家の妻として九人の子供を育て、文政十年正月二十九日、七十九歳で死した。/源通寺には、近世の大劇作家・河竹黙阿弥の墓がある。/次の西隣りには、江戸時代の儒学者・新井白石の墓がある。墓石は低い石棚で囲まれ、夫人の墓と並んでいる。(中略) 西隣りに龍興寺がある。当時には、徳川秀忠、家綱、綱吉、柳沢吉保、吉保の側室・橘染子などの書が残っている。境内には、染子の墓がある。(中略) 天徳院は、一番西の寺である。墓地には、浅野内匠頭が、江戸城内の松の廊下で吉良上野介に刃傷におよんだ際、内匠頭を抱きとめた梶川与惣兵衛の墓がある。
  
 吉良義央Click!の墓所である功運寺と、松ノ廊下で殺人を防いだ旗本・梶川与惣兵衛の墓がある天徳寺とは、わずか400mしか離れていないのが面白い。12月になると、ふたりはときどき訪ね合っては烏鷺でも囲みながら、「いやいや吉良様、お城の松ノお廊下ではたいへんな目にお遭いなされましたな」、「いやなに、もはや昔話じゃ。ところで梶川殿、わしの墓所もそこもとの墓所も同様じゃが、周囲をめぐる目ざわりな竿はなにかの?」、「電柱でござる」とか、世間話でもしているのかもしれない。
 さて、友人から、正見寺と青原寺の境内にまたがって妙なふくらみがあるよ~……と教えられたのは、つい先だてのことだった。陸地測量部の1/10,000地形図では気づかなかったが、早い時期につくられた1933年(昭和8)の「火保図」には、確かに周辺の地勢を踏まえると自然地形とは思えない人工的なふくらみが採取されている。そのふくらみのある尾根筋から斜面には、両寺院の本堂と墓地が建設されていた。この古くから尾根筋に走る街道(旧・昭和通り→現・早稲田通り)を東へたどると、神田川に架かる小滝橋へと抜けるが、その途中には明治初期に「落合富士」Click!へと改造されていた大塚浅間古墳Click!(昭和初期に山手通り工事で破壊)があり、また小滝橋の東詰めには、境内が150mほどのきれいな鍵穴型をした観音寺の本堂と墓地が確認できる。
 以前から「百八塚」Click!の伝承にからみ、旧・平川(江戸期より神田上水→1966年より神田川)とその周辺域に散在していたとみられる、膨大な古墳群の痕跡について書いてきたけれど、大塚浅間古墳(落合富士)から上高田地域にかけても、そのような大小の墳墓が谷間へ向けた丘上や斜面に展開していたのではないだろうか。1/10,000地形図を細かく観察すると、灌漑用水ではなく湧水流とみられる小流れ(妙正寺川支流)の斜面に沿って、正見寺の西500mほどのところにも、明らかな人工物とみられる楕円形の突起状地形(風化した帆立貝式古墳か?)が、陸地測量隊によって採取されていた。
東西線落合駅工事中196602.jpg
正見寺古墳1921.jpg
正見寺古墳1933.jpg
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 尾根上の街道(現・早稲田通り)をはさみ、江戸期から落合側と中野側の双方に「大塚」Click!の字名がつづいているのは、以前にもこちらで何度かご紹介している。このエリアで唯一、古墳時代の墳墓として認定されているのが、富士講の落合富士へと改造され、昭和初期に行われた環状六号線(山手通り)の敷設工事で破壊されるまで存在した、上落合大塚に位置する大塚浅間古墳だ。
 落合富士に改造される際、前方部が崩されて正円状の塚に整形されるまで、本来は小型の前方後円墳だったのかもしれないが、字名に「大塚」がふられるにしては直径が数十メートルとあまりにも規模が小さすぎる。「大塚」の字名にふさわしい、より巨大な古墳とみられるサークル状の痕跡が上落合Click!に、また下落合Click!にも存在していることも、何度か記事Click!に取りあげてきた。
 正見寺と青原寺の境内にまたがる、全長130mほどの楕円突起も、南側を貫通する街道に削られてはいるものの、墳丘の一部が崩され風化した古墳の痕跡なのかもしれない。さらに、正見寺から西へ500mほどのところにある、全長80mほどの自然地形ではない円形構造物もまた、見晴らしのいい河岸段丘の傾斜地に築造された前方後円墳、または帆立貝式古墳の可能性が高い。後者の突起は、宅地開発で整地・ひな壇化の土木工事が行われて崩され、いまでは住宅街の下になってしまっている。
 さて、青山Click!上大崎Click!、中野から成子Click!角筈Click!などに残る「長者」伝説Click!や、品川Click!あるいは江古田Click!などの例にならえば、なんらかの不吉な伝説や怪談、屍屋にまつわる山(丘)や森、立入禁止の禁忌的なエリアの伝承が、上高田地域に残っているだろうか? 実は、中野区教育委員会が1987年(昭和62)から1997年(平成9)までの10年間かけて蒐集した、口承文芸調査報告書の正・続『中野の昔話・伝説・世間話』には、上高田地域の怪異・霊異譚が圧倒的に多い。それは、古くから寺町が形成されていたのと、なによりも「三昧」地ないしは「荼毘所」としての火葬場が、江戸の後期より隣接する上落合(落合火葬場Click!)に存在していたからにちがいない。
青原寺.JPG
妙正寺川支流跡.JPG
大塚浅間古墳.jpg
観音寺1948.jpg
 しかし、換言すれば、なぜ上落合と上高田の境界にあたるこの地が、あえて三昧(荼毘所)として選ばれているのか?……という、より根が深いテーマにつながってくる。落合火葬場が設置されたのは、『江戸砂子』などを参照すると江戸後期とみられ、三昧として砂村新田、深川(霊厳寺)、小塚原、千駄谷(代々木狼谷)、渋谷、桐ケ谷、そして上落合(法界寺)と7ヶ所の火葬場が確認できる。だが、なぜこれらの地域が選ばれ、三昧(荼毘所)が設置されたのかは特に書きとめられていない。
 それは、なぜ寺町や墓域として古くから青山や品川宿の牛頭天王社(品川神社)の隣接地などが選ばれているのか?……というテーマと、まったく同様の課題が想起されるのだ。しかも、古墳上に築造されたとみられる、あの世とつながる「弥勒浄土」の富士塚とセットになっているケースも少なくない。
 富士塚の「弥勒浄土」思想について、1985年(昭和60)に人文社から出版された新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―戸塚・落合編―』所収の、福田アジオ『高田富士と落合火葬場』から引用してみよう。
  
 富士塚はミロク浄土としての富士山を江戸町人が自分たちの生活の場に実現したものであるという。しかし、富士塚は町人たちの屋敷内にあるわけでもないし、江戸の市中に造られているわけでもない。多くが、江戸の周縁としての町奉行所支配外の朱引内に築造されている。これも空地が都心部になかったからという理由によるものではなく、周縁部に造ることに意味があったものと思われる。ミロク浄土という他界は、都心部から歩くという形の分離儀礼を経ることで達することができるのである。別の考え方をすれば、内と外を明確に区別する地帯は同時に異なる二つの世界を結びつける所であり、そこがミロク浄土としての富士と人々の日常的世界を結びつける地点になったということである。/江戸市中の人々にとって異なる世界に接し、異なる世界に入ることのできる現実の空間が周辺に帯状に存在した。戸塚や落合もその一部であった。
  
 この「分離儀礼」は、漠然とした「江戸市中」と郊外の「周縁部」というテーマだけにとどまらず、富士塚が築かれた地域内にも確実に存在していただろう。三昧(荼毘所)や富士塚が築かれたのは、人が誰も住まない原野でも未耕地でもなく、富士講などを組織できるほどに人々か古くから居住していたエリアだ。つまり、「江戸市中」と「周縁部」との「分離」以前に、それぞれの村や町の中における共同体としての「分離儀礼」が可能な特別の禁忌エリア、死と生との境界を意識できる故事伝承が語られつづけた、「弥勒浄土」にはもってこいのエリアがあったことを物語っていやしないだろうか。
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源通寺.JPG
河竹黙阿弥墓所.JPG
 江戸期から明治期までは、なんとか伝えられていたかもしれない「分離儀礼」や「弥勒浄土」に適合する、すなわち三昧(荼毘所)や墓地の設置、あるいは寺町を勧請し富士塚を構築するには適した地域の「分離儀礼」物語が、換言すれば屍屋あるいは死者が住む山(丘・森)や禁忌的なエリア=古墳時代の墳墓群(落合地域では百八塚など)の伝承が、明治以降の急速な宅地化ですっかり忘れ去られてしまった……そんな気配が強くするのだ。

◆写真上:正見寺境内の東側だが、戦後の本堂再建工事のせいか土地の隆起はない。
◆写真中上は、1966年(昭和41)2月に竹田助雄Click!が撮影した工事中の地下鉄東西線・落合駅。同工事で、なにか出土物はなかっただろうか。は、西側に全長80mほどの人工突起が描かれた1921年(大正10)作成の1/10,000地形図(上)と、正見寺から青原寺の境内にかけてみられる不自然な突起が採取された1933年(昭和8)作成の「火保図」(下)。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる正見寺と青原寺。
◆写真中下は、青原寺の墓地がある北向き斜面(上)と、谷底を流れていた妙正寺川支流跡(下)。は、昭和初期の山手通り工事で消滅した大塚浅間古墳(落合富士)。は、小滝橋をわたった東側の斜面にある1948年(昭和23)撮影の観音寺境内。
◆写真下は、1941年(昭和16)撮影の西側のふくらみあたり。は、住宅街になり痕跡が皆無の同所。は、源通寺(上)と同寺にある河竹黙阿弥一門の墓所(下)。おそらく観劇回数がもっとも多い芝居の作者なので、ていねいにお参りしておく。

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