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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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斎藤茂吉をどうでも「じじい」にしたい金山平三。

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金山平三「二月の大石田」1956-60.jpg
 歌人の斎藤茂吉Click!は、本や雑誌の装丁で画家とのつきあいも多かった。木村荘八Click!は戦後、斎藤茂吉が新聞へ書くことになったエッセイの挿画をまかされ、その前に茂吉を連れて東京見物の東道(ガイド)を依頼されている。茂吉が久々に、疎開先の大石田から東京へ出てくることになり、さっそく木村荘八は敗戦の焦土からようやく復興しはじめた東京じゅうを案内している。
 そのとき、斎藤茂吉と木村荘八は初対面だったが、茂吉は「木村センセエ」と呼んでいる。それには理由があって、歌誌「アララギ」記念号の裏表紙に伊藤左千夫の似顔絵を描いたのが機縁になったのと、ダ・ヴィンチの『巌窟の聖母』について書いた木村の文章が、ことのほかわかりやすく斎藤自身が気に入ったせいで、11歳も年下の洋画家・木村荘八を「センセエ」と呼ぶことになったらしい。
 木村荘八は、いまだ焼け跡が残る敗戦後の東京を、銀座から浅草、厩橋、玉の井、永代橋、深川などへ案内しているが、クルマの車窓から見える各地の風景も楽しんだ。クルマが青山界隈にさしかかったとき、斎藤茂吉は病院の焼け跡はイヤだから見にいかないと話している。そして、車中では木村荘八と芥川龍之介Click!や神経衰弱、クスリの話などで話が弾んだようだ。
 1953年(昭和28)10月発行の「アララギ―斎藤茂吉追悼号―」に収録された、木村荘八の『斎藤先生』から引用してみよう。
  
 そんな道中筋を、わざと大廻りして、なんでも青山の方を通つたやうだし、又、永代橋を渡つた(?)やうな記憶もあるが、青山を通つた時に先生は/「あの辺が病院の焼跡です。イヤだから見に行きません。」/と云はれ、何の話のほぐれからか、芥川澄江堂の話が出て、澄江堂もあの時に「私」の病院へでも来てゐると、あんなこともなかつたらうが……ねエ、木村センセエ、長生きした方がああやつて死ぬよりよござんすね。「長生きした方がよござんすねエ」と私の顔を見て、云はれました。私はこの淡々とした先生の言葉にその時「感激」してゐましたが、同時に又、私のことを先生が「センセエ」と呼ぶので返事の仕様がなく、困つてゐました。
  
 澄江堂芥川龍之介の「神経衰弱」が、はたして青山能病院Click!に入院すれば治ったのかどうかは不明だが、ふたりは同じ表現者同士ということで、創作活動をめぐる精神生活上に思いあたるフシでもあったのだろうか。茂吉は病院の焼跡には立ち寄らず、そのままクルマを走らせ銀座へと出ている。
 斎藤茂吉は、東京では「よござんす」に象徴されるような、江戸東京弁の(城)下町言葉Click!を流暢に話していたようだが、故郷の山形に帰るとなにをいっているのか不明で、山形弁の生活言語を文字に表記する際には、記録者の頭をかなり悩ませたようだ。このあと、故郷の山形に疎開した茂吉のしゃべり言葉が出てくるが、文字表記された言葉でさえ早口でいわれたら、わたしもなにを話しているのかわからないだろう。
 木村荘八とともに玉の井を訪れた茂吉は、格子窓の女たちから「サンタクロースが来た」と大歓迎され、夜の銀座のキャバレーでもかなりモテたようだ。玉の井では、帝大の学生時代にやったアルバイトでも思い出したのか、「かういふ所へは昔、夜中に、湯たんぽの湯を売りに来ましたよ。今でも売りに来ますか」と木村荘八に訊ねている。また、銀座では往来する男女の流行の髪型を、いちいち木村に訊いて確認しながら細かくノートに書きとめ、のちのエッセイに引用しているようだ。
アララギ195310.jpg アララギ195311.jpg
金山平三「大石田の最上川」1948.jpg
 さて、斎藤茂吉が東京へ出てくる少し前、疎開先だった山形県の大石田でいっしょになったのが、下落合のアトリエClick!から疎開していた金山平三Click!らく夫人Click!だった。いまだ食糧や物資が欠乏している1947年(昭和22)の春先、病気をしていた茂吉の快気祝いも兼ねていたのだろう、近所の人が茂吉と金山平三夫妻Click!を招待して、特別豪華な夕食をご馳走したことがあったようだ。その席で、金山平三はわずか1歳年上(7ヶ月ちがい)の茂吉のことを、またしても「爺さん」呼ばわりして笑っている。今回は「じじい」ではなく、「お爺さん」とていねいに呼んでいるので、ご馳走を前にしてかなり上機嫌だったのだろう。
 「爺さん」呼ばわりは、斎藤茂吉が鯉の甘煮の皿を金山平三の皿と見比べて、金山のほうが鯉のサイズが大きいと交換を要求したことからはじまった。今日からみると、いい歳をした爺さんが皿上の鯉の大きさで、あれこれ意地きたなく悩んでいるのは滑稽だが、その背景には未曽有の食糧難という時代があったことを忘れてはならないだろう。席上の人々は、おそらく日々すいとんやサツマイモClick!などの代用食ばかりで、鯉の甘煮や白米などしばらく口にしていなかったにちがいない。
斎藤茂吉ウィーン1913.jpg 斎藤茂吉1941.jpg
金山平三「大石田の夏」1945-56.jpg
 同誌に収録された、板垣家子夫『大石田の斎藤先生』から引用してみよう。
  
 (斎藤)先生が少し遅れて来られたので、ご馳走は既に卓子一ぱい並べられてあつた。先生がこれを見て、座敷に上られるといきなり卓子の所に行き、立たれたまま一つ一つ料理の品を聞かれ、丁寧に視感味覚を堪能しながら、「ホホウこれあ大したごっつおだなつす奥さん、ムウ大したごっつおだつすこれあ、奥さんどうも」と唇をならし舌舐りをし、佇立嘆賞すること稍々久しくしてから、やつと坐られて御挨拶をなされた。挨拶後直ぐ卓子を囲んだが、ご自分の鯉の甘煮をムウムウと唸りながら見られてゐたが、上眼づかひに金山先生の顔を覗ふこと両三度、遂に「金山先生、先生の鯉は俺のより大っけやうだなつす。どうかとかへてけねがっす。」と言はれたんで、金山先生は笑ひくづ(ママ)れながら、「嬉しいことを言ふねえ、このお爺さんは」と、その皿を交換したが、先生はそれを見較べること又両三度、今度は少し怖々と「先生、やつぱりほっつあ大っけがつたす、ほっつの方ばよこしてけらつしやいっすはぁ」と再び交換された。実に何とも言へない自然さで、融通無礙で、先生独特の持味を展示されたやうな気がした。「俺はえやす(卑しい。食ひしん坊の意)でなつす。」と言葉を補はれたのもユーモアそのもので、和やかな笑ひが温く部屋に充満し、楽しい夜を過したのであつた。
  
 斎藤茂吉のかなり卑しげな食いしん坊を、いちがい単純に笑い飛ばすことのできない、戦争をくぐり抜け、ようやく平和な時代を迎えた人たちが味わったであろう感慨も、この笑いの中には深く含まれて「温く部屋に充満」していたのだろう。
金山平三アトリエ.JPG
アトリエの金山平三.jpg
 大石田ですごした斎藤茂吉は、親しみやすい老翁として地元の人々に印象を残したようだ。茶の中折れ帽に、洋服姿で草履をはき、少し前かがみの姿勢で最上川の岸辺や町、山野をトボトボとひとりで歩く姿が、あちこちで目撃されている。同様に、絵を描いていなければ踊ってClick!いた金山平三Click!もまた、斎藤茂吉以上に強い印象を残している。

◆写真上:1956~1960年(昭和31~35)ごろ制作の、金山平三『二月の大石田』。
◆写真中上上左は、1953年(昭和28)に発行された「アララギ―斎藤茂吉追悼号―」10月の裏表紙で挿画は斎藤茂吉。上右は、同じく1953年(昭和28)発行の「アララギ」11月号の表紙。は、1948年(昭和23)に描かれた金山平三『大石田の最上川』。は、戦後に東北へ写生旅行中の金山平三。(刑部人資料Click!より)
◆写真中下上左は、1913年(大正2)に訪欧中のオーストリア・ウィーンで撮影された31歳の斎藤茂吉。上右は、新日米開戦が迫る1941年(昭和16)に撮影された創作中の斎藤茂吉。は、戦後に制作された金山平三『大石田の夏』。
◆写真下は、下落合4丁目2080番地(現・中井2丁目)の金山平三アトリエ(2012年に解体)。は、そのアトリエで「うるさいジジイは、こうしてくれるわ!」と、『夏祭浪花鑑(なつまつり・なにわかがみ)』の団七Click!を真剣に演じる金山平三。w

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