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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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女に怨恨ムキ出しの芳川赳の本。

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大久保作次郎アトリエ跡.JPG
 先に、下落合に住んでいた洋画家・柏原敬弘(けいこう)の記事Click!を書いたとき、若くして統合失調症にかかったらしい経緯から情報量があまりに少なく、国会図書館に保存されていた1918年(大正7)出版の、「画見博士」こと芳川赳の書いた『作品が語る作家の悶(もだえ)』(泰山房)という本を参照した。ところが、同書をよく読んでみると、今日の週刊誌が真っ青になるほどのセンセーショナリズムというか、ホントかウソか、事実かウワサ話なのか、本人へ取材し“ウラ取り”をしたのか、すべて空想世界の講談本のたぐいなのか、よくわからないゴシップ満載の本だったのだ。
 同書には、洋画家・日本画家・彫刻家を問わず美術家が実名で15名ほど登場し、まあ全員がとんでもない醜聞や悲劇をまき散らしながら生活していたことになっている。先の柏原敬弘は、それでもなんとなく本人または親しい友人に取材して、談話をとっているらしいニュアンスがその記述から感じられるのだが、中にはまったくのウワサ話や陰口をもとに書いたとおぼしき文章が多々ある。
 この本が出版された翌年、下落合540番地にアトリエを建設して引っ越してくる大久保作次郎Click!は、1918年(大正7)に開催された第12回文展で『とげ』が特選になっている。ところが、『とげ』が制作された背景には、妖しげな姉妹との交際が画因になっているとされている。同書に収録された、「藍染川の氾濫から生れたローマンス破壊の跡に残る一本の『とげ』」(タイトルからして怪しい)から引用てみよう。
  
 其騒とは没交渉に只絵の研究に没頭しつゝある或る一人の長髪書生が藍染川畔の素人下宿の二階から眺めて居ると其処を通り蒐つた一人の美人があつた。雪よりも白い脛も露はに危げの足取りとぼとぼと濁流を乱して行く間にプツツリと切れた下駄の鼻緒を如何しやうと雨中に途方に暮れて居るのを見た件の長髪の書生は半ば小説に見る邂逅の興味から、二階を飛び下り自分の兵児帯を引割いて彼の女の為めに下駄の緒をすげて与へた、女は心から嬉しげにその厚意を感謝したのが抑も縁の端、二言三言の言葉の交換から、男の期待は首尾よく成功を告げたのである。此不思議な出来事から割ない仲となつた。男は文展に特選となつた洋画「とげ」の作者大久保作次郎氏(以下略)
  
 「藍染川の氾濫」とは、このサイトでもご紹介済みの東京市街地が水につかった東京大洪水Click!のことで、1910年(明治43)8月に来襲した台風が原因だった。
 「あんた、そこで見てたのかい?」というような、「講釈師、見てきたような……」の文章なのだが、大洪水で難儀していた女性は俥屋「松原與作の娘」でお米といい、その後、家計を少しでも助けるために神楽坂で芸者となり、大久保作次郎は神楽坂へほとんど毎日入りびたりになった……ということになっている。
 大久保作次郎は、芸者と逢瀬を重ねるために、大阪の実家から送られてくる学費や生活費を華代へ注ぎこみ、しまいには大阪のパトロンから送られてきた多額の支援金を、そのまま芸者の落籍代としてつかい果たしてしまった……ということにもなっている。そして、彼女と同棲をはじめたのが1915年(大正4)とのこと。そのアトリエへ、元芸者のお米の妹であるお千代が通ってきて、大久保作次郎のモデルをつとめるうち、「殊の外淫奔な女」であったお千代は、彼を誘惑して関係ができてしまい、もうアトリエは姉妹が骨肉相争そう、「執念の蛇」の修羅場と化してしまった……ってなことになっている。
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 その場に居合わせたように講釈を語る芳川赳は、気持ちよさそうに筆を進める。
  
 妙齢のお千代、夫(それ)が又殊の外淫奔の女であつた、神聖なるべき芸術のモデルが何時しか忌まはしい方面のモデルとなつて此義兄妹がお米の目褄を忍ぶ仲となつた、此一事に平和な家庭の礎は全く破壊されて、お米は嫉妬と無念の余韻から自殺すると云ふ書置を残して家出をした。お米の行方は間もなく知れたが頑として帰宅を拒んだ、お米の無念が執念の蛇となつたのか日頃淫奔な妹のお千代は間もなく忌まはしい病毒に冒された、自ら求めた罪とは云へ洋画の天才大久保氏は今更に孤独の悲哀を感ずる身とはなつた、
  
 もう少しで安珍・清姫Click!か、「姉の因果が妹にむくい~」と、両国橋西詰めClick!に架かった見世物小屋の呼びこみにでもできそうなスゴイ文章なのだが、本人たちへ取材をして、きちんと事実の“ウラ取り”している記述とは、とても思えない。また、当時の画壇では有望株だった大久保作次郎のことは「天才」ともち上げ、決して貶めたりはしない。
 同書に特徴的なのは……、
 (1)画壇で影響力ある重鎮や、活躍中の有名画家は決して貶めたり非難したりしない。
 (2)女は常に男の仕事の邪魔・妨害をし、足を引っぱる存在として登場する。
 (3)女性画家の場合は、これでもかというほど徹底的にこき下ろし貶め卑しめる。
 ……という共通の“お約束”がある。著者の芳川赳は、過去によほど女からひどいふられ方をしたものか、あるいは女性といい関係が築けず不幸な経験しかしてこなかったのか、女性コンプレックス(特に女性憎悪と敵視)のかたまりのような人物だったようだ。だからこそ、柏原敬弘のようなケーススタディ(女への復讐譚)に出あうと、嬉々として文章が活きいきと躍動するのだろう。
 少し余談だが、画家や作家たちのことを取り上げた際に、その恋人や連れ合いが芸術家の足を引っぱり、いい仕事を残すのを妨げた……というような文章に出あうことがある。彼女たちさえいなければ、もっといい仕事を残せただろう、あるいはひどい記述になると、もっと長生きできただろうに……なんてたぐいの文章だ。これって、芸術家本人の主体性は、いったいどこに置き忘れてしまったのだろうか?
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望翠楼ホテル.jpg
 下落合に住んだ画家を例にとれば、佐伯祐三Click!池田米子Click!のケースに多々見られる現象だろうか。本人がそれでいいと満足し、進んで選択した相手と生活をともにして好き勝手に表現しつづけているのだから、本人の主体性をいっさいがっさい無視して、“赤の他人”が結果論的に高みから、とやかくヒョ~ロンする課題ではないだろう。本人が好きで、あるいはホレていっしょにいる女を貶めることは、それをポジティブに選択した芸術家本人をそれ以上に、ことさら貶めているのに気づかないのだ。
 『作品が語る作家の悶』では、会津八一Click!が“追っかけ”をしていた画家・渡辺ふみClick!(宮崎ふみ=亀高文子Click!)がひどい目に遭っている。夫の渡辺與平(宮崎與平)Click!が25歳の若さで急死したあと、未亡人となった渡辺ふみが子育てをしながら前向きに画業をつづけ、文展に入選しつづけているのが「生意気」で気に入らなかったのだろう。同書に収録の「ヨヘイの位牌に積る塵/謎の愛ダニエルの話」(ちなみに現代法に照らせば、まちがいなく告訴レベルの名誉棄損罪に相当するだろう)から、再び引用してみよう。
  
 ヨヘイが死んだ後フミ子は暫くの間愛児を抱いて泣いた、併し夫(それ)も世間体を繕ふ為めであつた。間もなくヨヘイの位牌に白い塵が積もるやうになり、朝夕の御燈明も点らないやうになつた時もう大森のフミ子の家には年若い男が頻りに出入して居るのであつた。併しまたなんぼ多情なフミ子でも、遉に子の愛は別と見え、美代ちやんのあどけない姿をモデルにした画を文展に出品した事もあつたが其子供の愛でさへ日々にフミ子の心から薄らいで行くのである。
  
 夫が死んだのに、おとなしく喪に服して貞操を守りながら、子どもたちを育ててひっそりと暮らすどころか、次々と作品を描いては華々しく文展へ連続入選しつづける女に、芳川赳のコンプレックスはとうに我慢の限界を超えていたのだろう。同書の中では、もっともひどい書かれ方をしている。
 ちなみに、鶴田吾郎Click!をはじめ大森山王に画家たちが参集したのは、渡辺ふみも参加していた画会「木原会」の定例会が、大森の丘上にあった望翠楼ホテルで開催されていたからで、別に渡辺ふみの自宅があるから多くの画家たちが大森へ寄ってきたわけではない。当時は郊外別荘地だった大森・馬込界隈Click!には、アトリエをかまえていた画家・彫刻家や滞在した画家たちも少なからずいたからだろう。たとえば、大森の画家には山本鼎や川端龍子、真野紀太郎、関口隆嗣、田澤八甲、小林古径、青山熊二、佐藤朝山などの名前を挙げることができる。また、渡辺ふみは満谷国四郎Click!の弟子なので、ときには日暮里の初音町15番地か、1918年(大正7)9月以降は下落合753番地の満谷アトリエClick!にも顔を見せていただろう。
 このあと、渡辺ふみは画業だけでは生活や子育てが苦しかったものか、「年若い男」の画家ではなく東洋汽船で貨客船の船長をつとめていた亀高五市と見合いをして再婚し、以降は亀高文子と名のるようになる。今日的にいえば、ストーカーのように渡辺ふみを写生旅行先まで執拗に追いかけつづけた会津八一Click!が、彼女を最終的にあきらめ生涯独身を張り通すことに決めたのは、1918年(大正7)4月のことだ。
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 まあ、それにしても、これほど女性への憎悪や敵意、嫌悪感、“恨み節”をムキ出しにし、「執念の蛇」(爆!)と化して口汚くののしる本もめずらしい。著者の「画見博士」(ペンネームからして野暮だ)こと芳川赳は、よほど女に恵まれなかったか、みずからいい関係を築けなかったか(50%は自分の責任だろうに)、はたまた柏原敬弘と同じく不幸な体験がトラウマになってでもいるのだろうか。書名が「作者が語る作品の」ではなく「作品が語る作者の」としているところも、展覧会で画面を眺めてはウワサ話や陰口に尾ヒレをつけて原稿化しているのが透けて見え、画家たちとはほとんど交流がないことを物語っている。本人に取材するでもなく、よくは知らない他者(女)を嬉々として貶めているところが、もはや薄らみっともないを通りこし、すでに常軌を逸していて気味(きび)が悪い。

◆写真上:下落合540番地(現・下落合3丁目)の、大久保作次郎アトリエ跡。
◆写真中上は、1910年(明治43)8月の東京大洪水にみまわれた本所界隈で、右手に見える2階建て校舎は本所尋常小学校。は、同じく東京大洪水時の下谷金杉の惨状。は、下落合の自邸でくつろぐ大久保作次郎と満喜子夫人。
◆写真中下は、『作品が語る作家の悶』所収の「藍染川の氾濫から生れたローマンス破壊の跡に残る一本の『とげ』」()と、「ヨヘイの位牌に積る塵/謎の愛ダニエルの話」()。は、大規模な建設工事が行われて間もない下落合1296番地にあった秋艸堂Click!へと下る霞坂筋。は、大森にあった望翠楼ホテル。
◆写真下は、大森の自宅兼アトリエで制作する大正期の渡辺ふみ(宮崎ふみ=亀高文子)。は、再婚後の大正中期の制作と思われる亀高文子『キャンバスの女』。は、大森の丘上へと上る典型的なバッケ(崖)Click!階段。

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