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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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「うるさいこと」を書かせてください。

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中村彝アトリエ01.jpg 中村彝アトリエ照明1925.jpg
 中村彝アトリエ記念館Click!の内部に掲示されている、落合地域に去来した芸術家たちのマップClick!については、彝がらみの親しい人物たちの記載が抜けていたため、ご要望というかたちで以前も記事にしている。その後、「中村彝―下落合の画室―」展の図録の58ページにも、同マップが掲載されていることに気がつき、じっくり詳しく見ることができたので、もう少しこだわって書いてみたい。きょうは、ちょっとだけ「うるさいこと」を書かせていただきたいと思っている。
 まず、同マップをご覧になった方はすぐに気づくと思われるのだが、中村彝Click!佐伯祐三Click!などをはじめとする落合地域に在住した画家たちが、すべてブルーのマーキング、すなわち「作家、その他著名人の住宅」に分類されている。そして、尾崎翠Click!林芙美子Click!宮本百合子Click!などの作家たちが、全員「画家の住宅・アトリエ」に分類されている。(爆!) これは、ちょっとありえない誤りだと思われるので、重ねて訂正をお願いしたい。
 さらに、先のご要望に書いた中村彝ゆかりの画家に加え、下落合(4丁目)2096番地の松本竣介Click!や下落合(同)2111番地の林唯一Click!、下落合(同)2191~2194番地あたりの「熊本村」にいた竹中英太郎Click!(まだまだ他にもたくさん気づくのだが)などのアトリエや旧居跡が記載されていない。これは、どのような基準やフィルタリングで制作されているマップなのだろうか?
 また、会津八一Click!の旧居跡(秋艸堂Click!)が下落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!と、目白文化村Click!(第一文化村)にあった旧・安食邸Click!、下落合1321番地の文化村秋艸堂Click!のふたつが収録されているが、その中間に改正道路(山手通り)の下敷きになってしまったあたりにも、会津八一の旧居跡が記されている。もし万が一、拙サイトの最初期の記事「会津八一の不運な引っ越し」Click!をもとに記載されているとすれば、のちに会津八一の手紙やハガキに記載された差出人住所を年代順にたどる細かな検証作業Click!を通じて、1935年(昭和10)前後に落合地域へ実施された大規模な地番変更により、「不運な引っ越し」ではなく最初から第一文化村の旧・安食邸へ移転したことを、改めて規定しなおしていたはずだ。そして、当初の記事や関連する記事などへも、それが判明した時点で逐一註釈を追加していた。出典には、早稲田大学の図録Click!とは異なり、わたしのサイトの記載がないので、どのような資料を参考にされているのだろう?w
マップ記載.jpg
 また先日、ある方から“お怒り”の電話がかかり改めて気になったのだが、中村彝アトリエ記念館の保存事業にかかわった人々の紹介に、中村彝アトリエ保存会Click!のメンバーやボランティアなどのお名前がほとんど掲載されていないのは、いったいどういうわけなのだろう? 気がつけば、アトリエの保存活動にはまったく、あるいはほとんど関係のなかった人たちの名前が並んでいるのがちょっと異様に感じられるのだ。鈴木良三Click!会長のあとを継いだ中村彝会の梶山公平会長も病床から参加され(残念ながら活動途中で逝去)、2007年2月から2010年7月まで3年半にわたる地元・下落合の住民のみなさんや、彝とのゆかりが深い新潟・柏崎などを中心とした中村彝アトリエ保存会の地道な活動も、ずいぶん“安く”見られたものだ。
 1960年代後半に下落合で起ち上げられ、竹田助雄氏Click!を中心とするグループが延々と仕事や生活の時間を割いて展開した、御留山の「秘境」緑地保存活動Click!(おとめ山公園化)も無視同然だったが、こういうところから新宿区が地元の強い反感をかっていくのが、わからないのだろうか? それとも、保存会メンバーの中に「下落合みどりトラスト基金」Click!のメンバーと重なる人物、たとえばわたしや、他の人々が混じっていたせいだからなのだろうか?
 さて、「中村彝―下落合の画室―」展図録のコンテンツにもどろう。再び、早稲田大学の中川武教授が寄稿した「落合のアトリエ建築について」への疑問なのが心苦しい。同論文では、下落合に建っている(いた)各時代ごとのアトリエ建築についての比較検討が論じられている。佐伯祐三アトリエにも触れ、以下のような記述がなされている。同論文から、当該部分を引用してみよう。
  
 旧佐伯祐三アトリエ:佐伯自らの構想と施工によりつくられたと云われている。大正8年(一九一九)に、まず和館住居に住みながら、翌年アトリエが増築されている。画室は、急勾配の切妻屋根の妻壁一杯に開けられた窓と西側屋根面の天窓、そして南京下見板張りの外壁が特徴である。昭和60年(一九八五)に和館が取り壊され、洋館アトリエ棟が改修されていた。
  
 下落合661番地の佐伯邸母家が、1919年(大正8)に建てられたというのは、どのような根拠にもとづく記述なのだろうか? これでは、佐伯が池田米子Click!と結婚するかなり前から(というか知り合ったばかりのころから)、下落合へ早々に新居を建設していることになってしまうのだが…。朝日晃が厳密に検証して確認する以前(1980年前後まで)、親族たちの誤記憶(特に兄・祐正)や、佐伯米子の年齢サバ読みによって作成されていた、まちがいだらけの既存年譜の影響だろうか? 米子は佐伯祐三よりも10ヶ月ほど年上(学年では1年上)だが、「わたくし、祐三さんより1歳年下ですのよ」と周囲へ話してしまった関係から、年譜作成の際にどうしてもツジツマが合わなくなり、出来事を千子二運ならぬ1~2年遡上させて、ずいぶん長期にわたり佐伯年譜には大きな誤差が生じていた。(佐伯よりも2歳年上だとする説も、いまだ完全に否定されていなかったように思う) それを朝日晃がようやく指摘・修正できたのは、米子夫人が1972年(昭和47)に死去してのちのことだ。
中村彝アトリエ02.JPG 中村彝アトリエ03.JPG
中村彝アトリエ04.JPG 中村彝アトリエ05.JPG
 三重県立美術館に収蔵されている、1920年(大正9)12月(2日ないしは2X日)に佐伯が山田新一へあてたハガキClick!(朝日晃が山田新一から預かって保存し、のちに三重県立美術館へ寄贈している)には、3ヶ月前の同年9月に死去した父・佐伯祐哲の遺産相続と手に入れたおカネをベースにしているのだろう、結婚したばかりの米子夫人Click!と住む新居を建設するか、それとも兄・祐正Click!が強く奨めるフランス留学をしようか、かなり迷っている様子が記録されている。フランス行きを考慮し、渡航を予定している里見勝蔵Click!に通貨レートを訊いてくれないかとまで書いている。そして、翌年(1921年)に佐伯はパリへはいかずに自邸を建てることに決めたのだろう。佐伯邸は曾宮一念Click!が記憶しているように、曾宮アトリエが竣工したのと同年1921年(大正10)の後半、おそらく晩夏か秋に入ってから竣工していると思われるのだ。この間、同年3月には弟・佐伯祐明の病状が悪化し死去しているので、佐伯が下落合でスムーズに自邸を建設できているとは思えず、米子夫人を連れて大阪へもどっていた期間もあるはずだ。
 つまり、池田米子との結婚前であり、いまだ東京美術学校へ入学して間もない佐伯には、1919年(大正8)に下落合へ自邸を建設する理由も、また経済的な余裕もなかったはずだ。
 ただ、佐伯邸建設の年代規定はともかく、佐伯は母家を先行して建設し、そこへあらかじめ米子夫人や女中と住みながら、母家に接した北側へあとからアトリエを増築している可能性は否定できないと思う。建築中だったアトリエのカラーペインティングについて、下落合623番地の曾宮一念邸を訪ねている際、わたしは近衛町に建っていた下落合523番地の仮住まいと思われる借家Click!から、米子夫人とともに曾宮アトリエを訪れている…と想定したのだが、すでに住んでいた完成済みの母家、つまり下落合661番地の自邸(母家)から増築中のアトリエに関するペンキ塗りの参考にと、1921年(大正10)4月(ときに夏あるいは秋だったという曾宮証言も残っている)に、曾宮アトリエのカラーリングを見学しに訪れた可能性も否定できないからだ。
中村彝アトリエ06.JPG 佐伯祐三アトリエ採光窓.JPG
刑部人アトリエ.jpg 島津一郎アトリエ.JPG
 彝アトリエに展示されているマップは、できるだけ早く修正していただきたい最優先の課題だ。また、「中村彝」展の図録に第2刷が予定されていれば、こちらのマップも修正いただきたい。ただし、いつも新宿区がお世話になっている早大理工学術院の中川武教授の論文に関しては、区側からなかなかご指摘しづらいのであれば、この記事と、先の長崎アトリエ村の成立に関して、時系列が逆だと指摘させていただいた記事とを、「下落合の地元にうるさい人がいまして、ホントに困っているんですよ~、まったく」w…ということで使っていただいてもかまわない。現状のままでは、新宿区における文化事業の品質や信頼性を、問われかねない内容になっていると思われるからだ。

◆写真上:アトリエの照明も当時に近いものが設置され、細やかな復元コンセプトを感じる。
◆写真中上:アトリエ掲示と図録掲載のマップに、ぜひ加えてほしい画家の3人。
◆写真中下上左は、当初の大谷石による礎石が活かされたアトリエの基礎部。上右は、大正ガラスがそのまま活用された勝手口の窓。下左は、忠実に再現された壁龕(へきがん)。下右は、アトリエに置かれた家具・調度類もできるだけ当時に近い状態で復元されている。
◆写真下は、画室北面に設置された採光窓の比較で中村彝アトリエ()と佐伯祐三アトリエClick!()。は、刑部人アトリエClick!()と巨大な島津一郎アトリエClick!()の北面採光窓。


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