以前、落合地域の南側にあたる大久保地域で、文学者や画家などが集まって結成され、洋画展覧会も開かれた「大久保文学倶楽部」Click!についてご紹介している。当時、山手線の内側である大久保地域(現・大久保1丁目/新宿6~7丁目/歌舞伎町2丁目)には、二科の正宗得三郎Click!をはじめ藤田嗣治Click!、小寺健吉、鈴木秀雄、中澤弘光、三宅克己Click!、南薫造Click!などが住んでいた。
同じような集まりが、明治末の雑司ヶ谷でも結成されていたことが記録されている。雑司ヶ谷に住んでいた文学者には、三木露風Click!や正宗白鳥、相馬御風、小川未明、徳田秋声、内田百閒Click!、楠山正雄、人見東明、谷崎潤一郎Click!、そして秋田雨雀Click!など地域がらからか、おしなべて早稲田文学グループが多かったようだ。
また、画家には坂本繁二郎や斎藤與里Click!、津田青楓Click!、柳敬助Click!、長沼智恵子Click!、森田恒友Click!、戸張孤雁、斎藤豊作、そして正宗得三郎(海老澤邸に一時寄宿)などが住んでいた。秋田雨雀が呼びかけて、彼らが結成した集まりは「鬼子母神森の会」と呼ばれている。鬼子母神森の会は、地域の象徴としての鬼子母神を会名につけたわけでなく、実際に雑司ヶ谷鬼子母神の境内の茶屋に文人や画家たちが参集したので、そう呼ばれるようになった。
1912年(明治45)に博文館から発行された「文章世界」4月号には、そのときの会合の様子が記録されている。当時の思潮論や芸術論が戦わされ、鬼子母神の森が暮れはじめミミズクが鳴くころまで、茶屋の焼き鳥(雑司ヶ谷名物のスズメ焼き鳥だろうか?)を食べながらつづけられたようだ。ちなみに、呼びかけ人だった秋田雨雀のあだ名は、「雑司ヶ谷の梟(フクロウ)」だった。
当時の様子を、1992年(平成4)に弘隆社から出版された、後藤富郎『雑司が谷と私』から引用してみよう。文章は、秋田雨雀の言葉として紹介されている。
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私達はこの森の影の中に長い間住んでいる。この森の周囲には若い文学者や有名な画家の群が入れ替わり来て住んでいた。彼等の中にはもう立派な芸術を作りかけているものもある。年久しく住み慣れたこの森の影を逃れて都会の生活に入っているものもある。/「一旦都会に逃れて再び森の生活を慕って来たものもある。私達のやうに森の中に小さな家を造つてゐるものも亦森の外にゐるものにも、この森は一つの不思議な巣であつた」/御風、東明、未明、それから僕、この四人は現在に於いても、この森には一番深い縁故を持っている。それに近頃斎藤與里、津田青楓、柳敬助この三人の画家がこの森の近くにアトリエを造られた。
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秋田雨雀の自宅は、雑司ヶ谷鬼子母神の東側、本納寺の門前から弦巻川へと下る坂の途中の雑司ヶ谷24番地にあったが、現在は当時の緑深い面影はほとんどなくなっている。ちなみに、秋田雨雀の墓は自宅前の本納寺に分骨建立されている。
1912年(明治45)3月10日の日曜日、鬼子母神森の会は雑司ヶ谷鬼子母神境内の茶屋で集会を開いている。その様子を引用する前に、同書には落合地域についての記述が登場しているので、ためしに当該箇所を引用してみよう。
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落合と目白をはさんで新しく文化村が誕生したのは大正十一年ころのことであった。設計者は新劇の演出家村山知義であり、それ以来目白は少しずつ文化の香りが感じられるようになり、佐伯裕三(ママ:祐三)、大久保作次郎等が住むようになった。
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この一文を読まれた落合地域にお住まいの方々、あるいは拙サイトを以前からお読みの方々は「ウ~ン……」とうなって絶句し、首を傾げられるのではないだろうか。そう、上掲の記述のほとんどすべてが誤りなのだ。
「落合と目白をはさんで」は、落合と目白(高田)は隣接していてどの地域も間にはさんではいない。「設計者は新劇の演出家村山知義」となっているが、目白文化村を企画・設計したのは下落合の箱根土地Click!にいた堤康次郎Click!であり、下落合の近衛町Click!やアビラ村Click!も広く「文化村」としてとらえるのなら、企画者は東京土地住宅Click!の常務取締役だった三宅勘一Click!だ。当時、上落合の村山知義Click!は画家と舞台装置家であり、「新劇の演出家」ではないし目白文化村とはまったくなんの関係もない。
また、佐伯祐三Click!や大久保作次郎Click!は文化村には住んでおらず、大久保(1919年建築)や佐伯(1921年建築)が下落合にアトリエを建設して住むようになったころは、すでに多くの画家たちが落合地域にやってきてアトリエをかまえていた。ふたりが落合の画家たちの仲間入りをしたのは、ことさら早い時期のことではない。
このような文章を読むと、なんだか雑司ヶ谷地域に関する記述にも少なからず不安をおぼえるのだけれど、いちおう3月10日午後1時にスタートした鬼子母神森の会の様子を、『雑司が谷と私』よりつづけて引用してみよう。ちなみに、この日の焼き鳥料理は遅れに遅れて、実際に配膳されたのは午後2時30分ごろだったという。
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障子に射す午後の日が一分一秒毎に赤味を帯びて来るように森の会の人々の頬が赤くなって来る。臆病と皮肉を取交ぜた御風の顔もほんのり桜色となり、孤雁は例の如く首を曲げて黙想している。/夢二の絵にありそうな髪を伸ばして黒いネクタイを胸に大きく結んだ洋画家の津田清楓君、少年のような皮膚に黒く柔らかな髪を分けた斎藤與里君、白く四角な顔に濃い髭を生やした柳敬助君、六代目に似てそれよりも少し神経質な表情を持っている谷崎潤一郎君、僧侶のように丸く肥った顔に細い皮肉な目を持っている上司小剣君、整った顔だが惜しい事には少しあばたのある徳田秋声君(先生でもよろしい)。(中略) この騒ぎの次の間から蓄音器がしっきりなしに聞えて来る。夜は段々更けて行く。森にはふくろうが鳴く……/鬼子母神近くに住む森の住人長沼智恵子(高村智恵子)の姿はこの日の会合にはなかった。
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長沼智恵子が、近隣の画家たちも多く参加しているこの日の会合に出なかったのは、同年4月に予定されている太平洋画会展への出品制作に忙しく、のんびりと料理を食べてお酒を飲んでいる余裕がなかったのかもしれない。大久保地域とは異なり、雑司ヶ谷地域で近隣画家たちの展覧会が開かれたという記録は、残念ながら見あたらなかった。
長沼智恵子は、高田村雑司ヶ谷やその周辺に拡がる風景を、ずいぶん写生してまわっていたようだ。後藤富郎の記憶によれば、『鬼子母神境内』や『弦巻川』というタイトルの風景画が存在するようなのだが、わたしはいずれの画面も観たことがない。
◆写真上:かつての雑司ヶ谷の森をほうふつとさせる、晩秋の鬼子母神境内。
◆写真中上:上左は、明治末の文学者たちが多く寄稿した「文章世界」(1911年2月号) 上右は、ルバシカと思われる洋装の秋田雨雀。中は、明治末に撮影された雑司ヶ谷鬼子母神の参道と茶屋。下は、1919年(大正8)撮影の鬼子母神本堂。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる秋田雨雀邸。中・下は、現在の雑司ヶ谷鬼子母神参道と鬼子母神本堂。
◆写真下:上は、明治末に撮影された法明寺の森。長沼智恵子アトリエClick!は、2軒とも法明寺裏の北西150~250mほどのところにあった。中は、1912年(明治45)1月25日の青鞜社新年会で撮影された長沼智恵子。下は、谷中真島町1番地の太平洋画会研究所門前で記念写真に収まる長沼智恵子(左から3人目)。右から2人目には、同研究所の創立者のひとりであり中村彝Click!や亀高文子Click!の師だった満谷国四郎Click!が写っている。