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ようやく見えてきた上野山の古墳群。
いろいろな資料を漁りながら調べているうちに、上野山に展開した古墳群の様子が少しずつ明らかになってきた。以前、上野公園内に唯一残された摺鉢山古墳Click!について、下落合の摺鉢山Click!とからめて触れているが、近年、上野の山も「古墳群」と名づけられるほど、大型古墳が密集して築造されたエリアだったことがわかってきた。...
View Article1945年3月11日のヴァイオリンソナタ。
戦時中、日本本土への空襲が予測されるようになると、各町内には防護団による各分団が組織され、盛んに防空・防火訓練が行われた。以前にもこちらで、淀橋区の落合防護団第二分団の名簿とともに、団内の班組織を詳しくご紹介Click!している。...
View Article雑司ヶ谷で結成された「鬼子母神森の会」。
以前、落合地域の南側にあたる大久保地域で、文学者や画家などが集まって結成され、洋画展覧会も開かれた「大久保文学倶楽部」Click!についてご紹介している。当時、山手線の内側である大久保地域(現・大久保1丁目/新宿6~7丁目/歌舞伎町2丁目)には、二科の正宗得三郎Click!をはじめ藤田嗣治Click!、小寺健吉、鈴木秀雄、中澤弘光、三宅克己Click!、南薫造Click!などが住んでいた。...
View Article贋作に箱書きする満谷国四郎。
下落合753番地(のち741番地)に住んだ満谷蔵四郎Click!は、同じ岡山県賀陽郡門田村(現・総社市)の出身で、故郷の後輩で友人でもある建築家・薬師寺主計Click!に、下落合アトリエの設計を依頼している。おそらく、1917年(大正6)に設計を依頼し、翌1918年(大正7)の夏に竣工した自邸+アトリエClick!へ、谷中の初音町15番地(現・谷中5丁目)から転居してきたのだろう。...
View Article下落合の画家たちと東京藝大正木記念館。
以前、本郷の西片町に清水組の施工で建設された、金澤庸治アトリエClick!をご紹介した。今回は、その金澤庸治が設計した東京美術学校に現存する、正木記念館の建設について少し書いてみたい。なぜなら、同記念館が1935年(昭和10)7月に建設されるに際し、落合地域と周辺域に住む画家たちが、その建設費を支援しているからだ。...
View Article企画されかけて流れた笠原吉太郎展。
笠原吉太郎Click!が1954年(昭和29)に死去したあと、しばらくして遺作の展覧会が企画されかけている。遺作展を企画したのは、『気まぐれ美術館』で知られる洲之内徹Click!だ。だが、笠原吉太郎について情報を集め作品を観て歩くうちに、同展の企画は白紙になってしまった。そのときの経緯を、洲之内徹は「芸術新潮」に連載していた『気まぐれ美術館』の中で触れている。...
View Article明治末の銀座を回顧する佐伯米子。
これまで、日本橋の隣接地域である京橋区は尾張町(銀座)で生まれ育った岸田劉生Click!が書く、子ども時代を回想したエッセイをご紹介Click!したことがある。いかにも、江戸東京の男の子らしい少年時代をすごしていたようだが、男子ではなく銀座で生まれた女子がすごした子どものころの情景は、どのようなものだったのだろうか?...
View Article下落合を描いた画家たち・松本竣介。(5)
わたしは、文学畑の「無頼(ぶらい)」という言葉が好きではない。無頼というのは、寄るべのない身ひとつで暮らしを立て、ときに困窮すれば伝法なことをやらかしながら身すぎ世すぎをしている人間のことをいうのであって、いつでも支援を受けられる故郷の裕福な実家やパトロンを背景に、都会で「好き勝手なことをして暮らしている高等遊民」のことは、無頼とはいわない。...
View Article佐伯祐三は自分のアトリエを描いている。
たまに、佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!を股メガネでのぞくと、とんでもないものが見えてくることがある。佐伯の得意な股メガネは、別に1928年(昭和3)2月のパリ郊外モラン村に限らないのだ。w...
View Article目白崖線を描写する瀬戸内晴美(寂聴)。
下落合をはじめ、落合・目白地域の一帯には数多くの作家たちが住んでいたはずだが、目白崖線の風情を描写した小説作品は意外に少ない。小金井の国分寺崖線Click!、すなわち戦後まもなくハケClick!の斜面に住んだ大岡昇平Click!は、その情景を『武蔵野夫人』Click!の中にふんだんに取りいれ、物語をつむぐ登場人物たちの効果的な“書割”として、作品全体に独自の風景を創り上げている。...
View Article近衛町の入口にあった目白授産場。
現在は、「授産場(所)」というと、国や自治体などの行政機関が運営する障害者あるいは高齢者向けの施設をイメージするが、戦前はまったく異なっていた。授産場は、おもに女性向けに設置された職業訓練所のような存在だったのだ。...
View Article新宿の花畑で暮らした芥川龍之介。
わたしの実家があった、日本橋米沢町(薬研堀Click!=現・東日本橋)から大橋(両国橋)Click!を対角にはさんだ大川向うに、芥川龍之介Click!が住んでいた。本所小泉町(現・両国2丁目)には、発狂した母親・新原フクに代わり彼を引きとることになった、フクの兄にあたる東京府へ勤める芥川道章の家があった。また、彼は東京府を退職後、龍之介の実父が経営する耕牧舎の経理も担当していた。...
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