以前、目白坂にある目白台アパート(現・目白台ハウス)へときどき立ち寄っていた、三岸好太郎・節子夫妻Click!の長女・陽子様Click!の連れ合いである、「芸術新潮」の創刊編集者であり三百人劇場のプロデューサーだった、向坂隆一郎様Click!(つまり、三岸アトリエの保存を推進されている山本愛子様Click!のお父様)について書いたことがある。向坂様は、劇団で起きたいろいろな悩みごとの相談に通っていたらしいが、まるでカウンセラーか占い師のような相談相手になっていたのが、同アパートに住んでいた小説家・瀬戸内晴美(のち瀬戸内寂聴)だ。
目白坂については、同坂の中腹に目白不動Click!(新長谷寺)や幸神社(荒神社)Click!が建立されていた関係から、タタラの痕跡とともに大鍛冶集団の軌跡による側面から詳しくご紹介していた。ただし、目白不動は1945年(昭和20)の空襲で新長谷寺が焼失し廃寺となったため、戦後は西へ1kmほどのところにある金乗院Click!へと移転している。
瀬戸内寂聴は、落合・高田(現・目白)の両地域をはさみ、東西両隣りの街に住んでいる。東側は文京区目白台つづきの目白台アパートであり、西側は旧・野方町にあたる西武新宿線・野方駅から歩いてすぐの、妙正寺川が流れる中野区大和町にあった貸家の2階だ。行き止まりの路地にあった貸家1階の8畳間は、愛人の小田仁二郎が仕事場として借りている。きょうは、瀬戸内寂聴が二度にわたって住み、ちょうど同時期には円地文子Click!や谷崎潤一郎Click!などがいっしょに暮らしていた、目白台アパートの様子について書いてみたい。もうお気づきの方も多いと思うけれど、紫式部の『源氏物語』を現代語訳した3人の作家が、目白台アパートに住んでいたことになる。
また、同じ目白崖線を西へたどると、下落合1丁目435番地(現・下落合2丁目)には同じく『源氏物語』を現代語訳した舟橋聖一Click!がいたのも面白い偶然だ。
目白台アパートといっても通常のアパートではなく、今日的な表現でいえば「高級マンション」ということになるのだろう。施工主はマンションという言葉がことのほかキライで、あえて馴染みのあるアパートと名づけたようだ。ただし、アパートのままだと他の名称とまぎらわしく誤解も多かったのか、現在では通称・目白台ハウスと呼ばれることが多い。瀬戸内寂聴が住んでいたころは、すべて賃貸の部屋だったようだが、現在は分譲販売がメインとなり、賃貸の部屋はワンルームを除いてかなり減っているらしい。
目白台アパートは、1962年(昭和37)に竣工しているので、もうすぐ築60年になるが、ていねいなメンテナンスが繰り返されているせいか、外観からはそれほどの古さを感じない。いまでも人気物件のようで、ときどき新聞に空き部屋の分譲チラシが入ってくる。ワンルームでも3,000万円弱の価格が設定されているので、いまだそれなりに人気は高いのだろう。当初、瀬戸内寂聴が支配人から奨められた最上階の広い部屋は、おそらくいまでも億に近い価格帯だと思われる。
彼女が支配人に案内され、初めて目白台アパートを内覧したときの様子を、2001年(平成13)に新潮社から出版された瀬戸内寂聴『場所』から引用しよう。
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二つの空部屋を見せてもらったが、残りそうだというのは最上階の角の部屋で三LDKの大きな部屋は、私の住んでいる練馬の家がすっぽり収って余りが出るほど広く感じられた。南と西にベランダがあり、大きな硝子戸がはめられていた。(中略) 全館賃貸だという、その広い部屋の値を聞いた時、余りの高さに笑い声を立てそうになってあわてて掌で口を押えた。とうてい払える金額ではないと思った。(中略) 部屋を出る前、南の長いベランダに出て下界を見下した。すぐ目の下に新江戸川公園が川沿いに細長くのび、地下二階、地上六階の建物の下は崖になって公園に落ちていた。
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寂聴は「新江戸川公園」と書いているが、神田川沿いの細長い公園は江戸川公園Click!の誤りだ。新江戸川公園は、さらに西側にある現・肥後細川庭園Click!の旧名だ。彼女は年下の恋人へのあてつけから、この「笑い声」が出そうになった高い最上階の部屋に1年間住むことになった。また、二度めは1968~1972年(昭和43~47)の4年間にわたり、同アパートの地階(といっても崖に面した地上)に住んでいる。
さて、目白台アパートのことを調べていると、ここにはさまざまな人々が去来するのだが、ちょうど本郷にあった大正~昭和初期の菊富士ホテルClick!のような存在で、目白台アパートは戦後版「菊富士ホテル」のような趣きだったといえるだろうか。小説家や画家、音楽家、学者、俳優など多種多様な人たちが部屋を借りているが、あまり話題にならないのはいまだ同時代性が強く、現在でも建物がそのままの状態で残っているからだろう。瀬戸内寂聴も同じような感慨をもったらしく、同様のことをエッセイで書いている。同書から、再び引用してみよう。
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文筆家では、誰よりも早くから原卓也さんが仕事場にしていられた。有馬頼義さんも一頃ここで仕事をされた。アイ・ジョージと嵯峨美智子の愛の巣が営まれていたのも、建って間もない頃のこのアパートだった。田中真紀子さんの新婚時代もここから始まったと聞いている。北大路欣也さんともエレベーターでよく出会った。/大正時代、本郷菊坂にあった菊富士ホテルに、文士や学者や絵描き、革命家などが雑居していたが、規模はとうてい菊富士ホテルには及びもつかないが、それのミニ版にたとえられないこともない。
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寂聴は、歴史や物語的な厚みとしての「規模」と表現していると思われるのだが、単純に住環境の規模からいえば、目白台アパートは菊富士ホテルの比ではないほど規模が大きい。住民の数も、おそらく菊富士ホテルの4倍以上にはなるだろうか。
瀬戸内寂聴の『場所』を読んでいると、結婚生活の破たんから年下の恋人との繰り返す確執、不倫相手とのいきさつに、不倫相手の家庭へ乗りこんでしまったこと……などなど、彼女の作品と同じく例によってもうドロドロのグチャグチャな状況にため息がでるので、そういうところは避けてご紹介したい。彼女は最初に目白台アパートへ住んだとき、二度にわたって自殺未遂事件を起こしている。
谷崎潤一郎と“同居”していたのは、同アパートができて間もない、寂聴が最初に住んでいた時期だった。さすがに言葉を交わすことはなかったようだが、彼女は江戸川公園を散歩する谷崎夫妻をたびたび見かけている。谷崎潤一郎は、地下の部屋を2ブロックにわたって借り、さらに寂聴と同じ最上階にも部屋をもっていたようで、松子夫人と『細雪』Click!の雪子のモデルとなった夫人の妹、それに何人かのお手伝いといっしょに暮らしていた。寂聴は、おそらく谷崎潤一郎の仕事部屋だったとみられる最上階のドアの前を通るとき、緊張しながら足音をしのばせて歩いた。同書より、つづけて引用してみよう。
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廊下に人影のない時は、す早くドアにおでこをくっつけたり、掌で撫でたりした。「あやかれますように」と口の中でつぶやくと、心を閉ざしている日頃の憂悶もその時だけは忘れ、うっとりといい気持になるのだった。/毎朝、決った時間に、中央公論社から差し廻される黒塗りの巨きな車が迎えに来て、文豪夫妻はその車で、公園の入口の江戸川橋の袂まで降りて行く。そこから車を降り、ゆっくりと時間をかけて公園を一廻りして、待たせてある車で、アパートに戻るのだった。その姿をひそかに眺めるのが、私の貴重な愉しみになっていた。/公園の川辺から見上げると、アパートの建物はいかにも巨きかった。地下二階は公園の崖ぞいに建っているので、地上六階がその上に載っていて、正面よりはるかに高く巨大に感じられる。
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目白台アパートから、江戸川橋ぎわの江戸川公園の入口まではわずか300mほどしかないが、目白坂の上り下りがあるため年老いた谷崎夫妻にはきつかったのだろう。目白台アパートは、目白崖線のバッケ(崖地)Click!に建てられているので、地階といっても南を向いた窓があった。神田川沿いから見上げると、同アパートは屋上の建屋も入れると9階建てのビルのように見える。
平林たい子Click!も晩年、目白台アパートに住んで瀬戸内寂聴としじゅう顔を合わせることになった。平林はガンの治療のため、上池袋にあった癌研究会附属病院へと通う都合から、同アパートを契約して住んでいる。彼女はアパート内で寂聴の顔を見ると、「あのね、お互いにここは仕事場ですから、日常的なおつきあいはやめましょうね」といって、さっさと自分の部屋に引きあげていった。
円地文子は、平林たい子と入れちがうようにして目白台アパートに入居し、『源氏物語』の現代語訳に没頭していた。円地文子は平林とは対照的に、「あなたがいるから、何かと頼りになると思って、ここに決めたのよ」といって、ふたりはごく親しく交流している。彼女は“深窓の令嬢”育ちらしく、台所仕事はまったくできなかったので、お茶や菓子の準備はいつも電話で呼ばれた寂聴がやらされていたらしい。
目白台アパートには、地階に喫茶パーラーがオープン(現在は閉店)していて、瀬戸内寂聴は原稿の受けわたしによく利用していたようだ。目白台アパートで暮らした最後の年、喫茶パーラーのTVには「あさま山荘事件」の生中継が映しだされていた。その日、寂聴のもとへ原稿を取りにきた編集者は、小説家になる前の後藤明生だった。
◆写真上:神田川端の江戸川公園側から見た、緑濃い目白台アパート(目白台ハイツ)。
◆写真中上:上・中は、目白台アパートの現状。下左は、2001年(平成13)出版の瀬戸内寂聴『場所』(新潮文庫版)。下右は、同アパートでの撮影らしい瀬戸内晴美(寂聴)。
◆写真中下:目白台アパートの南向きベランダと、そこから眺めた新宿区の街並み。
◆写真下:上は、代表的な部屋の平面図。寂聴が支配人から奨められた部屋は、もっと大きかったろう。中は、崖地にひな壇状の石垣が築かれた江戸川公園。ちなみに、江戸期より1966年(昭和41)までは大洗堰Click!から舩河原橋(外濠出口)までの神田川は江戸川Click!と呼ばれていた。下は、江戸川公園の西にある肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)。