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目白崖線を描写する瀬戸内晴美(寂聴)。

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目白台アパート(神田川).jpg

 下落合をはじめ、落合・目白地域の一帯には数多くの作家たちが住んでいたはずだが、目白崖線の風情を描写した小説作品は意外に少ない。小金井の国分寺崖線Click!、すなわち戦後まもなくハケClick!の斜面に住んだ大岡昇平Click!は、その情景を『武蔵野夫人』Click!の中にふんだんに取りいれ、物語をつむぐ登場人物たちの効果的な“書割”として、作品全体に独自の風景を創り上げている。
 だが、落合地域だけに限ってみても、目白崖線に顕著なバッケ(崖地)Click!の様子を、効果的かつ印象的に小説へ取りいれているのは、尾崎翠Click!『歩行』Click!中井英夫Click!『虚無への供物』Click!ぐらいしか思い当たらない。たとえば、これがエッセイとなると中井英夫Click!をはじめ高群逸枝Click!檀一雄Click!吉屋信子Click!矢田津世子Click!船山馨Click!宮本百合子Click!林芙美子Click!などの文章に、しばしば目白崖線の風景が登場しているが、小説となると思いのほか少ないのだ。
 視界を落合地域からずらし、視線を崖線の斜面沿いに東へとはわせていくと、目白崖線の風景を細かく描写した作家が、本来の目白不動Click!があった目白坂沿いのバッケに住んでいた。少し前にご紹介した、目白台アパートClick!(通称:目白台ハウス)に二度にわたって住んだ瀬戸内晴美Click!(現・瀬戸内寂聴)だ。瀬戸内晴美は、ここに住んでいた1970年(昭和45)に長編小説『おだやかな部屋』を仕上げている。
 小説といっても、彼女の作品はリアルそのものの私小説だし、ときに登場人物たち(つまり恋愛対象となった男たち)が実名で登場するなど、ほとんど本人の「日記」か「忘備録」を読んでいるような具合で、わたしとしては敬遠したい作品群なのだけれど、見方を変えると、作品に描かれた周囲の環境や周辺の風景は、きわめて精緻かつ正確な描写でとらえられていることになる。
 事実、目白台アパートのある目白崖線沿いの描写は、1970年代の同所をほうふつとさせる空気を醸しだしており、わたしにとってはどこか懐かしい雰囲気さえ感じられた。では、『おだやかな部屋』から当該部分を少し引用してみよう。
  
 部屋から、そんな街を見下していると、女は、自分も広い海にただよっている長い航海中の船の一室にいるような孤独な気持がしてくる。/その上、気がつけば、四六時中、絶えることなく響いている川音が、舳先に砕かれる波音のような伴奏までつとめていた。川は、アパートの真下の丘の裾をめぐってつくられた細長い公園を、縁どり流れている。高い水音は、その運河に流れこむ幾筋もの下水口からほとばしり落ちる水があげていた。近くで見れば、汚物であふれる灰色の下水も、女の部屋の高さから見下すと、ひたすら白い飛沫をあげながら運河になだれこんでは、いくつもの激しい渦にわかれ、たちまち流れの中に融けこみ、ひと色の水の色に染めあげられてしまう。/黄昏と共に、川は闇の中に沈みこみ、川音だけが深山の滝のようにとどろきながら立ち上ってくる。空と街の境界もひとつに融け、漆黒の海にちらばる無数の漁火か、波に落ちた星影のように家々の灯がともる。
  
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江戸川公園1.JPG

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目白台アパート1975.jpg

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尾崎翠「第七官界彷徨」.jpg
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瀬戸内晴美「おだやかな部屋」.jpg

 瀬戸内晴美が眼下に見下ろす公園が、江戸川橋から椿山Click!の麓までつづく、神田川(旧・江戸川:1966年より神田川)沿いの江戸川公園であり、「下水口」から流れる「高い水音」は、当時は護岸沿いにうがたれていた下水の細い排出口ではなく、まるで滝のような音を立てるおそらく堰堤の水音だろう。この堰堤は、目白台アパートのすぐ西側、大滝橋の真下にある神田川でも有数の大きな落差で有名な大堰堤(大滝)だ。もともと、この流域には江戸期の神田上水Click!の取水口があり、まるでダムのような落差のある大洗堰Click!が築かれていた地点でもある。
 彼女は、江戸川公園を散歩する際に、おそらく汚濁した神田川をときどきのぞきこんでいたのだろう。1970年代は、同河川が汚濁のピークに達していたころだ。当時の川面を記憶する瀬戸内寂聴が、アユやタモロコ、オスカワ、マハゼなどが回遊し、子どもたちが水泳教室で遊ぶ50年後の神田川を見たら、いったいどのような描写をするのだろうか。
  
 早朝のせいもあり、五月の日曜日の街の上には、まだスモッグの霞もかからず、菱波の立った海面のように街の屋根がさざ波だってうねっている。家々の瓦屋根や、ビルのコンクリートの屋上が、洗いあげたばかりのような新鮮さで、それぞれの稜線をきっかりと際立たせている。(中略) ほんの一つまみほどの樹々の緑が、折り重なった灰色の屋根の波のまにまに浮んでいる。その緑を際だたせるのが役目のようにどの緑の島からも、金色の光芒を放つ矢車をつけた竿が点に向って真直ぐ伸びていた。(中略) 西の方に、どれよりも巨大なビルディングの骨組みが黒々とぬきんでている。まだ形骸だけのその建物の、数え切れない窓は吹き抜けにあいていて、小さな四角の中にひとつずつ切りとられた青空が、きっかりと嵌めこまれていた。(中略) ビルの更に西の空に、くっきりと富士が浮び上っている。富士のはるか裾には秩父の連山が藍色の横雲のたなびいているような影をつくっていた。
  
 当時は、高いビルや高層マンションがないので、目白台アパートからかなり遠くまで見わたせた様子がわかる。また、このころの東京は排気ガスや工場からの排煙によるスモッグが街中を覆い、わたしもハッキリ記憶しているが、午前中なのに午後3時すぎぐらいの陽射しにしか感じられなかった。喘息の子どもたちが急増し、小学校の朝礼では息苦しくなった生徒が意識を失って倒れる騒ぎが続出していたころだ。瀬戸内晴美は、空気や川の汚濁がピークだったころ、目白に住んでいたことになる。
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目白崖線1.JPG

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目白崖線2.JPG

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目白崖線3.JPG

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目白崖線4.JPG

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神田川(目白崖線).jpg

 西に見える「巨大なビルディングの骨組み」は、この小説が執筆されていた1969~1970年(昭和44~45)という時期を考えると、まちがいなく新宿駅西口の淀橋浄水場Click!跡地に建設中だった京王プラザホテルだと思われる。同ホテルは、『おだやかな部屋』が「文藝」に発表された翌年、1971年(昭和46)に竣工しているので、彼女も目白台アパートのベランダから完成したビルを眺めていただろう。
 また、瀬戸内晴美は、おそらくかなりの方向音痴ではないだろうか。彼女のいる目白崖線から、富士山は鮮やかに見えるが秩父連山はまったく見えない。富士の裾野に見えているのは、神奈川県の丹沢山塊と箱根・足柄連山であり、埼玉県の秩父連山は彼女の視線から45度ほど北側、つまり彼女の右肩のややうしろにあたる。
 瀬戸内晴美は、部屋のベランダから川沿いの江戸川公園や、バッケの急斜面を往来する人物たちを仔細に観察している。同書から、再び引用してみよう。
  
 黄色のパラソルは橋を渡りきり、子供の遊び場を素通りし、散歩道を斜めに横切って、丘の崖にむかってくる。(中略) 丘の中腹にひょっこり二人の日曜画家があらわれる。(中略) その中腹の台地は四阿のある頂よりは街が一望に見渡せる。ちょうどそこからは樹々の高さが自然に下方へ流れていて、視界がさえぎられないのだ。小学生が先生に引率されて写生にくる時も、そこに一番たくさん子供たちが坐りこむ。(中略) パラソルの女が更に近づいてくる。丘の道は、四阿のある頂きの広場から左右にのびていて、右の道は、急な石段が桜並木の間をぬけ、子供の遊び場へ向って下りている。左の道はなだらかなだらだら坂の道が合歓の並木にはさまれて丘をS字形に縫いながら、裾の散歩道につながっていく。この道は途中から細い小路をいくつか左右にのばし、それは丘の樹々の中にまぎれこみ、女の部屋からも捕えることの出来ない恋人たちのかくれ場所をあちこちに包みこんでいる。
  
 「黄色いパラソル」の女が渡ってきたのが、水音が響く大堰堤の上に架かる大滝橋であり、その北詰めにはいまも変わらず遊具が設置された、子どもたちの小さな遊び場がある。先生に引率されてくる小学生たちは、目白台アパートのすぐ西側にある関口台町小学校の生徒たちだろう。子どもたちが座りこむ見晴らしのいい斜面からは、早稲田から新宿方面にかけ起伏に富んだ街並みがよく見わたせる。
 まったく同じ位置にイーゼルをすえ、南を向いてタブローを仕上げた画家がいた。上落合1丁目にアトリエをかまえていた、吉岡憲Click!『江戸川暮色』Click!だ。瀬戸内晴美が目白台アパートに住む、およそ20年前の風景を写しとっている。
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目白崖線5.JPG

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神田川1.JPG

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神田川(シルト層).jpg

 「黄色いパラソル」を追いかけていた瀬戸内晴美の目は、崖線の濃い樹々の間に隠れて、真昼間から男と逢引きしている姿を見つける。「いやだわ、またスリップの紐切っちゃった。困るわ、今日はレースだから、すけちゃうんですもの」と、女と男の会話妄想がどんどん膨らんでいく。瀬戸内晴美は、執筆の合い間にベランダへ出て、目白崖線の急斜面に集まる恋人たちの逢引きを、克明に観察しつづけた。「どうしてあいびきする人妻はみんなサンダルを穿き、買物籠をさげるのだろうか」などと、日活ロマンポルノの「団地妻シリーズ」にありがちな、広告のボディコピーのようなことをつぶやいている。

◆写真上:江戸川公園側から、目白崖線の丘上に建つ目白アパートを望む。
◆写真中上は、ひな壇状に擁壁が設置された江戸川公園のバッケ。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白台アパートと冬枯れの江戸川公園。下左は、『歩行』が収録された2014年(平成26)出版の尾崎翠『第七官界彷徨/瑠璃玉の耳輪』(岩波書店)。下右は、1977年(昭和52)出版の瀬戸内晴美『おだやかな部屋』(集英社)。
◆写真中下:目白崖線沿いに拡がる、緑深い現代の風景。
◆写真下は、椿山の西側に水神を奉った水神社。は、目白台アパートの下を流れる神田川。は、シルト層Click!がむき出しになった豊橋あたりの神田川。

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